07:00 目覚めの章「欠けた世界の夜明け」
耳の奥で何かが弾けた。
音なのか記憶なのか、判別できないほど微細な破裂。瞼の裏でひとしずくの光が瞬き、沙羅は布団の中で跳ね起きた。
掛け布団の綿は夜の熱をまだ抱えている。だが肌に触れる温度は実感として薄い。感覚の膜が一枚、世界と自分のあいだに挟まったまま──そう、昨夜まさに自分で張り巡らせた境界の残り香。
「……成功した、んだよね」
呟きながら立ち上がる。六畳の板間に朝陽が斜めの帯を引き、埃が静かに踊っている。時計は七時二分。ふだんならアラームが鳴る前に目覚めることなどない。胸の奥で鼓動が速い。剣呑というより、ひたすら高揚──いや、渇望を満たした後の安堵に近い。
喉が異様に渇いていた。井戸水を汲み上げてコップに注ぎ、一気にあおる。冷たいのに味を感じない。味覚がまだ現実に追いついていないのだ。成功したかどうかを判断するのは五感より先に“確信”だった。
畳に膝をつき、布の包みを取り出す。麻の布をほどくと、中には細長い巻物が一本。朱と群青の絹糸でかがられ、表紙には火で焦がしたばかりのような新しい煤がついている。禁足の舞──未来の自分から届いたとしか思えない、宛名のない遺言状。
“想いを呼び、夜明けに戻す”
“決して二度は開くな”
墨で書かれたその二行を指でなぞる。昨夜、社の奥でこれを解き、鈴と扇だけを持って舞い続けた。足拍子が自分の骨を砕くまで続けた。最後の一手で足裏を返した瞬間、鳥居の外から風がうねり込んで、境内の空気が反転したのを覚えている。
そして──「ただいま」の声。
懐かしい響きの中に、温かい記憶の残り香がある。境内の空気が微かに震え、風が舞踊の拍子を刻んだ。涙も叫びも堪えたまま、夜の闇が溶けた。だから今朝、世界は欠けたのだ。足りないのではなく、あらかじめ差し出した分だけ欠けている。
襖を開けると、家の奥で祖母が朝餉の支度をしている音がした。土間に大根の味噌汁の匂いが立ちのぼる。湿った薪の煙が少ししょっぱい。ここだけは日常の匂いが濃いのに、沙羅の嗅覚はそこへ焦点を合わせない。耳が別の周波数を探しているからだ──あの声の主の足音。あの人の笑い声。まだ届かない。
布団脇に置いてあったスマホを開く。ロック画面の写真は堤防で無邪気にピースする青年の姿。指を滑らせるとホーム画面に表示された日付が針のように突き刺さる。七月二十六日。今日一日だけ、世界が特別な輝きを帯びているのだ。
ふと視界の端で風鈴が揺れた。祖母が昨夜、祭りに備えて軒に下げた新調の風鈴。ガラス玉の底に金魚が描かれ、透明の舌がカランと鳴る。その音が胸骨を叩く。昨夜の舞で使った鈴も、同じ高さの音で応えた気がした。二つの鈴音が薄い膜を震わせ、時間が水滴のように振動する。
「行かなくちゃ」
白いワンピースを身に纏う。軽やかな生地が肌に沿い、朝の風を受ける準備が整う。化粧も髪もまだ整わない。鏡に映る自分の顔は、昨夜の煤が落ちきらず、頬に灰色の影が残っている。けれど気にしない。今日は“再会”がすべてを塗り替える。
「行ってきます、おばあちゃん」
背後で祖母の「行っておいで」という声が追いかけた。音の端が少し震えていた。孫の異変を悟っているのかもしれない。それでも祖母は止めない。神楽を継ぐ者の宿命を、誰より知っているから。
玄関を出ると、朝陽が山の稜線から高く射し込み、夏草が眩しく反射した。蝉はまだ本気を出していない。谷をなでるような風が肌を撫でるが、温度が判然としない。熱いのか冷たいのか、どちらでもいい。今日の世界は温度より意味で動いている。
神社へ向かう参道を歩く。玉砂利を踏むたび、鈴が腰で揺れる。境内に差し込む光が白く滲み、石鳥居の朱が水彩のように柔らかい。境内の中央──昨夜、境界を張った場所には、小さな灰の円が残っていた。そこだけ草が露を吸わずに枯れ、足跡の形に見えた。
沙羅は深呼吸し、掌を合わせた。柏手を二度打つ。
──お願い。あと一日だけ、欠けた世界を許して。
薄い唇で声なき祈りを結ぶ。掌に残る熱が背骨を伝い、昨夜の一拍子を蘇らせる。あの人はもう呼応している。きっと、どこかで目を覚ましている。今日という日の特別さを感じながら。
境内の倉庫へ回りこみ、白衣と緋袴の吊り桁を引きずり出す。朝露に濡れた布は冷たく、生地が重い。だが袖を通せば、重さは鎧のそれになる。自分の身体より先に舞が動き始める。昨夜、巻物が授けた動きはまだ骨に刻まれている。
稽古は午前八時から。だが今日は通しで三度舞うつもりだ。呼んだ想いは、同じ足拍子で見送ると誓った。
──明日の夜明けに。
それが約束。その一度きりの猶予が、今日という一日。
ふと、昨日届いたメールを思い出した。大学の同期からだった。
──来月、東京で公演するなら観に行くよ。
その公演はもう断った。今の自分に必要なのは舞台の拍手ではなく、たった一人への贈り物。世界の音をすべて束ね、鈴の音に変える儀式。
舞い終えると、陽はさらに高くなった。蝉が一匹だけ試し鳴きをする。林に跳ね返った音が戻り、二匹目、三匹目が重なる。朝が完全に目を覚ます合図。そのざわめきの中で、沙羅はそっと目を閉じた。
自転車のブレーキ音が遠くで小さく響いた気がした。鳥居の下、坂道の向こう。確認するまでもない。疾走する鼓動がそれをあの人の気配と告げる。指先が震え、鈴がチリンと答えた。
「よし」
欠けた世界の夜明け。
だが今日一日だけは、この欠片こそが完全。
境内を後にして、石段を下りる。坂の向こうで、自転車に跨った青年の背中が小さく見えた。朝陽の中で寝癖が逆立ち、リュックが不自然に軽そうだ。沙羅の胸が、痛いほど熱を孕んだ。鈴がひときわ大きく鳴った。
今日は、“彼”の知らない一日が始まる。
そして、“私”の特別な一日が始まる。
欠けたままでも、世界は回り続ける。
だが夜明けは一度きり。
その光の中で、すべてを抱きしめるために。
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