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23:00 真夜中の章「星屑サーカス」

 河原へ続く堤防の坂を上り切ると、町の灯が一段低くなり、耳の奥が静かに抜けた。祭り囃子も遠ざかり、残ったのは虫の声と、川面をかすめる風の擦過音だけ。夜空はむき出しの星を惜しげもなく撒き散らし、濁りのない黒が背骨の奥まで流れ込んでくる。


 「わ、こんなに見えるの久しぶり」


 沙羅が小さく息をのんだ。浴衣の裾を片手で押さえて堤防に腰を下ろし、ラムネの栓を鳴らす。ビー玉が灯りを集めて瞬き、星の子どもみたいに瓶の口で踊った。


 俺も隣に腰を落とし、ラムネを手のひらで転がす。ガラス越しの冷えは既にぬるく、炭酸が細い線を描いては消える。砂利の上に伸びた二人分の影が、川風でゆらり揺れた。


 「ほら」


 沙羅が夜空を指す。大三角の端にかかったデネブが、ちょうど額縁の角飾りのように輝いて、そこから白い銀河が堤防を跨いで落ちてくる。星屑が空と地面を反転させ、砂利が瞬いて見える錯覚に胸が高鳴った。まるで河原全体が裏返ったプラネタリウムだ。


 「星座って、なんで動物とか武器なんだろうね。こっちから見ればただの点なのに」


 ラムネを傾け、ビー玉がゴトリと舌を打つ。炭酸が喉を涼しく撫で、昼間まとわりついた火照りを洗い流した。


 「昔の人には線の引き方しかなかったんだよ、きっと。点だけだと寂しすぎるから、結んで物語にした」


 「ふふ。岳くんも線で全部つなぐの好きだよね。小学生のころ、教科書の余白を飛行機とロボットで埋めてた」


 「覚えてたのか。あれは暇さえあれば描いてたなあ」


 沙羅がくすりと笑う。その笑い声が夜気の粒子に溶け、遠い風鈴の残響みたいに耳奥で揺れる。舞殿で聞いた鈴音と重なり、胸の内側にさざ波が立った。


 「じゃあ、今日は線でなくて点だけを味わおうか」


 「どうやって?」


 「こうやって」


 俺は背中を草に預け、両手を枕にして寝転がる。上半身の重みで草が微かに裂け、青い匂いが立ち上った。沙羅も真似て隣に倒れ込み、浴衣の袖が耳に触れた。花菖蒲の柄が鼻先数センチをかすめ、甘い糊の香りがくすぐったい。


 夜空が視界いっぱいに広がる。星と星のあいだに埋め込まれた黒の奥行きが深すぎて、吸い込まれそうというより、むしろ自分が発光している錯覚に襲われる。身体の境界線が薄れ、鼓動だけが輪郭を主張している。


 「ねえ岳くん」


 「ん?」


 「星って、もう無い光も混ざってるんだって」


 「何万年も前に出た光が今届いてる、ってやつ?」


 「うん。もう星本体は変わってるかもしれないのに、昔の光だけが走り続けてる」


 沙羅の声は穏やかだが、どこかで爪を立てるような緊迫を帯びていた。草いきれと夜風のせいで、胸の奥がひりつく。横目で見ると、彼女は真上を見たまま瞳を閉じたり開いたりしている。瞬きを一つするたび、星の配置がわずかにズレて見えた。


 「じゃあ俺たちが見てるのは、もしかして全部“もうないもの”かもしれないんだ」


 「うん。でも“もうない”って、ほんとうに無いのかな。光が届く限り、ここには確かにあるよね」


 ガラス瓶の首を持ち上げ、ビー玉越しに星をのぞく。丸いレンズが夜空を屈折させ、ひとつひとつの光点を細かく揺らした。俺の眼球も同じように欠片を集めているのだろう。受け取った光で今日という一日を、自分の中に写し込む。


 「沙羅」


 不意に名前を呼んでいた。声帯が先走り、理由はあとから追いかける。


 「ん?」


 「今日さ、ずっと――」


 言い淀む。言語化しようとした途端、胸の奥の違和感が固くなる。痛いわけじゃない。しかし鋭く、何かを知らせるように脈打つ。昼の鉄板、傷口から血の出なかった事件、そのたびここが強く震えた。


 「ずっと?」


 沙羅が首だけこちらへ向け、闇の中で瞳がわずかに光を弾いた。浴衣の柄がかすれ、星の光が白い布を透かした。


 「ずっと楽しいんだ。何気ないこと全部が。匂いも音も、いつもより色が濃い。――変だよな、ただの一日に」


 彼女は返事をせず、ゆっくりと視線を空へ戻した。その横顔が、一瞬だけ強い光に照らされた気がした。流れ星――いや、人工衛星かもしれない点が、北から南へ滑るように横切る。沙羅はそれを追い、頬を緩めた。


 「それね、特別なことじゃないよ」


 「え?」


 「本当は誰の毎日も、そうやって濃いはずなの。だけど私たち、すぐ薄めちゃう。忙しいとか、当たり前とか、理由をつけて」


 そう言いながら沙羅は身体を起こし、草の上に膝を抱えた。舞殿の柱よりずっと細い彼女の背線が、しかし同じくらい凛と立っている。浴衣の裾からのぞく足首を夜風が撫で、鈴の房が膝に触れた。


 「岳くんは今日、その濃さを全部受け止めてる。だからきっと今、いちばん生きてる」


 語尾を押し出すように言う。その言葉が波紋になって俺の胸へ届き、再び心臓がどくりと鳴る。砂利がわずかに沈んで背中が地面へめり込む。自分の体重を確認するように両腕で地面を掴むと、指先に草も石も確かに存在していた。


 ――生きてる。


 言葉の重みが落ちて、しかし同時に宙へ浮く。生きているという事実が当たり前すぎて、輪郭が曖昧になる。息を吸い、吐く。肺が動き、肋骨が広がり、胸骨の裏で鼓動が跳ねる。星と同じく、これは過去の光か? それとも今瞬時に生成される生か?


 「ほら、サーカスみたいでしょ」


 沙羅が腕を伸ばし、夜空を円で切り取る。見上げると、天の川が大テントの天幕に見え、明滅する星座が綱渡りの曲芸師やブランコの乗り手に変わる。オレンジ色の街灯が足元でゆらぎ、まるでランプ職人が操るスポットライト。大道芸の笛に似た虫の音。河原全体が即席の“星屑ほしくずサーカス”だ。


 「……チケット代、いくらだろうな」


 「今夜だけの特別公演。入場料はひとつだけ」


 「ひとつだけ?」


 沙羅は立ち上がり、草の上に手を差し伸べた。舞殿で扇を開く前の、あの静かな目。他人が容易に踏み込めない場所を抱えた人の目だが、底の炎は恐ろしく温かい。


 「明日の朝、また来てくれる?」


 昼と同じ言葉――いや、一字一句まで同じなのに、今は全然違う質量を携えて届く。ラムネの中で眠っていた最後の気泡が舌を刺すように、胸の奥がはじけた。


 「行くよ。約束する」


 手を取る。指先が触れた瞬間、鈴が小さく震えた。金属質の音が夜を縫い合わせ、星々の拍手が聞こえた気がした。立ち上がった俺の影が彼女の影と重なり、二つでひとつの輪郭に溶ける。


 「眠くない?」


 「不思議とね。まったく」


 「なら、もう少し歩こうか。サーカスは夜通し興行してるらしいよ」


 「回転木馬はある?」


 「もちろん。あれは“時間”っていう名の木馬がぐるぐる回るの」


 「降りそびれたら?」


 「それでも朝は来る。無理やり下ろされるの」


 意味深な言葉だったが、引っかかりは愛おしいくらい甘く響いた。二人で堤防のコンクリートを歩き、川面を覗く。街灯の反射が揺れる水に引き延ばされ、星の光と交じり合う。そこに自分の影は薄く映るだけで、輪郭が水とまじり合い、すぐにちぎれて流れた。


 ラムネを飲み干し、空瓶を軽く振ると、中のビー玉が月光を掠めてカラリと鳴った。カラン――遠い風鈴に似た澄んだ音が、河原じゅうに跳ね返って消える。沙羅がその音を追うように鈴を振り、二つの余韻が重なった。


 夜のとばりが一層濃くなり、サーカスの幕が次の演目へと切り替わる。星が瞬きをやめ、代わりに空気そのものが白みはじめたのは錯覚だろうか。時計を見れば、まだ23時を少し過ぎただけ。なのに東の低い空が、早すぎるあかつきのように薄青く脈動していた。


 「……そろそろ帰ろう。朝まで持たないと困るから」


 沙羅が静かに告げる。笑顔を保ったまま、瞳の奥だけが固く閉じたように見えた。その不可思議を扱えず、俺は頷く。提灯の残り火が遠い参道へ延び、風鈴市の灯りがまだ辛うじて生きている。


 回転木馬の呼び鈴のように、胸の中心がチリンと鳴った。星屑サーカスは終演ではない。夜が幕間を迎え、最後の大技は夜明けに用意されている。そんな確信が、理由もなく血の代わりに流れた。


 ――明日の朝、また来る。


 堤防を下りながら、無意識に掌を握りしめる。そこには夜店のガラス片が残したわずかな凹みだけ。血は出なかったが、痛みよりも確かな合図を刻んでいた。沙羅の鈴が一歩ごとに鳴り、闇で清められた河原が背後で静かに幕を閉じる。


 星屑のサーカスは、次の照明を待っている。


続々公開していきたいと思いますので、ぜひフォローしてください。作品に一つでも星を付けていただけると本当に嬉しいです!

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