19:00 祭り前夜の章「風鈴市の灯」
坂道の向こうに、提灯の列が浮かんでいた。
夕陽の残光がまだ空の端を染めているのに、屋台の灯はそれを待たずに灯りはじめる。境内の石段を下りきると、風鈴市――町内会が細い参道にずらりと並べた即席の露店通りが現れた。
カラン、コロン。
厚手のビニールに覆われた鉄パイプの棚に、無数の風鈴が吊られている。金魚、向日葵、切子細工、南部鉄。ガラス越しの光が水滴のように跳ねて、歩くたび足元に七色の点を散らした。微風が一度吹くだけで百の鈴が同時に鳴る。その重奏に、子どもの頃の夏休みがまるごと呼び戻される。
腹の底がふっと軽くなった。午後の舞殿を出るころには、脈打つ空白が胸の奥で鎮まっていた。代わりに残ったのは、藍色の空を見上げるとき特有の、これから夜がほどけていく甘い焦燥だけだ。
「岳くん!」
呼び声に振り向けば、緋の浴衣と白い帯が宵の灯りをまとって立っていた。
沙羅。昼の白衣が嘘みたいに、夏祭りらしい装いだ。花菖蒲の柄が水面に揺れるように歩み寄り、帯の脇から鈴の房がちらりと覗く。舞殿で見た赤い紐の鈴。今夜も肌身離さず付けているらしい。
「似合う? 久しぶりに地元の浴衣、引っぱり出したの」
「ああ、すごく」
語彙が追いつかなくて肯定形だけがこぼれた。それでも沙羅は満足したらしく、鼻先をくすぐるように微笑む。灯りに照らされた頬がほのかに桃色で、昼の張り詰めた舞姫とは別人の――いや、同じ芯を持ったまま柔らかく波打っている。
「金魚すくい、行こ?」
「あいよ。俺、小学生以来だけど」
人波を縫って歩くたび、浴衣の袖が俺のTシャツにそっと触れる。意識するとぎこちなくなりそうで、視線は屋台の暖簾へ逃がした。ソースの焦げる香り、焼きトウモロコシの甘さ、イカ焼きの塩気。昼の鉄板とはまた違う、夜の湿度を含んだ匂いが肺を満たす。
金魚すくいの水槽には水中ライトが沈められ、朱と白の斑が水面に映って宙を泳いでいるように見えた。ポイを受け取ると、紙の輪郭が思ったより薄かった。これでは一触で破れそうだ。
「先、やる?」
「んー、同時に挑戦しよ」
「負けた方がラムネ奢りで」
「ふふ、買ってもらう気満々だね」
スタートの合図すら要らず、二人で同時に水面へポイを滑らせた。赤い影を狙ってすくい上げた瞬間、紙がふわりと破れて水が染みる。拍子抜けと同時に笑いがこぼれる。
「早っ! 俺もうダメだわ」
「焦りすぎ。見てて」
沙羅はポイの縁を水に浸し、紙に膜を張るみたいにして静かに待った。金魚がふっと浮上した刹那、掌をひねってすくい上げる。成功。
「さすが舞姫」と拍手しかけた瞬間、彼女のポイも水滴を吸って破れた。金魚が逃げ、水面に波紋が広がる。
「結局、引き分け?」
「ううん、まだ勝負は終わってないよ」
彼女の手が水槽の縁に触れたまま、袖口が揺れる。赤い紐の鈴がチリンと震え、金魚より小さな波を呼んだ。その拍子に、水槽のアクリルがギシ、と僅かに歪む音がした。
――パリン。
耳に刺さる硝子の破裂音。何が起こったのか理解する前に、右手がぬるい水と一緒に零れ出る感触を覚えた。五百円玉くらいのガラス片が掌に食い込んでいる。だが、痛みがこない。血も――出ない。
「岳くん!? 大丈夫?」
沙羅の声が高く跳ね、周囲のざわめきが一拍遅れて重なった。
「うん、平気。ごめん、俺、押しちゃった?」
「待って、手見せて」
人払いを受けたように、屋台の灯りが遠ざかった。沙羅が俺の掌をそっと掴む。水と金魚と破片が混ざった混沌を、細い指先がたしかめる。彼女の視線が掌の中心で止まり、息を呑むのがわかった。
血が出ない。破片が刺さっているのに、皮膚の奥で止まったまま。まるで人体模型の内側を透明な樹脂で固めたみたいに、傷口はただ“そこにある”だけ。痛覚もなく、熱もない。沙羅の指先の方がむしろ温かかった。
「ごめん、沙羅。ビビらせた」
「……ううん」
返事の温度が低い。彼女は袖でそっと破片を押さえ、ゆっくり抜き取った。ガラスは屋台のライトを受け、虹色の欠片になって転がる。掌は依然、ただ乾いたまま。
屋台の店主がタオルを差し出す。「救護所持って行きな」と言う声が、蝉の鳴き終わりみたいに遠い。沙羅は「ありがとうございます」と頭を下げ、俺を人波から離れた木陰へいざなった。短い距離なのに、足音が波打つ浜辺みたいに遠い。
「……痛くない?」
「不思議と。指先もちゃんと動くし」
「……そっか」
言葉の背後で、彼女の脈が早まっているのが手のひら越しに伝わった。浴衣の袖の中で、鈴が震える。昼間は舞殿だけに響いた音が、夜の闇に滲んで心臓を揺らす。
「ラムネ、買ってくる。冷やすといいかも」
「いや、俺が行くよ」
「座ってて」
抵抗する間もなく、沙羅は屋台の灯の方へ駆けた。残された俺は石段の脇に腰を下ろす。掌を上に向け、街灯の橙で眺める。薄い影が一枚、皮膚に貼りついているだけ。傷口と言えるほどの深さもない。痛覚より早く、現実感が欠落していた。
頭の中に昼の鉄板、舞殿の鈴、蝉の鳴き止んだ瞬間がランダムに再生される。どれも温度と痛みの手前で途切れている。
――俺は今日、ほんとうに身体を持っているのか?
そんな突飛な問いが浮かび、同時に「いや、持っている」と理屈抜きで確信もする。胸を触れれば心臓は動く。呼吸は肺を満たし、匂いも味も感じる。ただ、血だけが眠っている。
「お待たせ」
沙羅が戻り、ラムネの瓶を俺の掌に当てた。ビー玉の冷たさが皮膚を叩き、やっと温度の実感が戻る。
「口、開けるね」
ラムネ玉を落とす音がカシュンと鳴る。炭酸があふれ、瓶の首から雫が落ちた。沙羅はそれを指で受け取り、俺の傷口にそっと触れた。シュワ、と泡が弾けて細かな気泡が走る。微かな痛覚――いや、むしろ“生”の輪郭を指でなぞられた気がした。
「明日の朝……」
彼女が切り出す。祭囃子と風鈴の合唱の中で、その声だけがはっきり届いた。
「朝、ちゃんと来てね。お願い」
「行くよ」
「絶対?」
「絶対」
沙羅は深く息を吸い込み、吐くと同時に、浴衣の袖をそっと差し出した。
「じゃあ、手を繋ごう。治るまで」
袖の内側で指先がからむ。ふっと鈴が鳴り、掌の冷えと温もりが混ざった。夜店の灯りが川面のように揺れ、風鈴市全体が大きな一枚の風鈴になって夏の闇を震わせている。
血の代わりに、音が流れている――そんな錯覚に包まれながら、俺たちは提灯の川を歩き出した。
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