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15:00 稽古見学の章「揺れる鈴と足拍子」

 駅前の喧噪を背にして坂道を上がると、風の質が変わった。ひぐらしの一番鳴きがまだ早い午後三時。空の青は濃いのに、木立の影はどこか冷えている。舗装された参道を自転車でゆっくり登りきり、鳥居の下でブレーキをかけた。


 ギィ、と金属の鳴る音が境内の静けさに刺さって、すぐ吸い込まれる。手水舎に自転車を立てかけ、柄杓で水をすくった。指先を流れる水は山肌を伝ったばかりのはずなのに、温度がよくわからない。冷たい、とも温い、とも言葉が定まらない。ただ、水という存在の輪郭だけが鮮明に掌を滑った。


 ふと覗いた手水鉢の表面に、神楽殿かぐらでんが逆さまに映っていた。檜皮葺ひわだぶきの屋根と、真新しい白木しらきの階段。だが自分の姿は見当たらない。角度のせいかと思い、身を屈めてもやはり映らず、代わりに薄雲だけがゆらゆら漂っている。


 ――鏡みたいに澄んでるのに、変だな。


 そう思った瞬間、遠くで鈴が鳴った。硬質なのに丸い、金属と風の混血みたいな音。神楽殿の方角から二拍子で転がってくる。誘われるように石畳を歩き、回廊の柱越しに中を覗いた。


 沙羅がいた。


 午前とは別人の装いだ。白衣と緋袴ひばかま。肩口で結った髪が動きに合わせて弧を描く。右手に五色の鈴、左手に檜扇ひおうぎ。真夏の陽射しを遮るすだれの隙間から細い光が射し込み、袴の朱をところどころ金色に染めて揺らしていた。


 拍子木の代わりに、彼女の足拍子あしびょうしが床板を打つ。タッ、タタ、タッ。一定のリズムと、時折挟まれる跳ねのアクセント。床の反響が鼓膜ではなく胸骨を直接叩くようで、呼吸が歩調を乱す。


 舞殿の外周に回り込み、透塀の少し欠けた板の間から腰を下ろした。観客は、俺ひとりだけ。草いきれの中で蝉が合唱を繰り出すが、舞殿とのあいだには薄い膜があるように音が届かない。沙羅の鈴、足拍子、衣擦れだけが別トラックのように立ち上がっている。


 扇が開いた。白木の地に金と緑の唐草模様。空気ごと切り分けるように円弧を描き、次の拍で閉じる。鈴が跳ね、銀の舌が七つの玉に当たる。チリリン、と涼しげなのに、胸の裏側では焔が燃えるみたいに熱い。


 “今日が特別”という彼女の言葉を、ここでやっと理解し始めた。特別なのは振り付けや衣装じゃない。舞殿の気配そのものが、目には見えない何かを孕んで膨らんでいる。


 ――あれほど暑かったのに、汗が引いていく。


 腕の産毛が少し逆立った。耳鳴りでもなく風でもなく、もっと遠いところから流れてくる低いうねりがある。海鳴りが森の底を這うような音。目を凝らしても何も見えないが、沙羅は確かにそれと対話している。


 扇が閉じて、鈴だけが右へ左へ弧を描く。身体の中心を軸に、遠心力で布と空気を撹拌しては収束させる。その動きを追ううち、視界がわずかに滲んだ。甘い匂いが鼻をかすめた。線香花火の終わり際の、菫色の火花が散る匂いに似ている。


 沙羅が半歩、こちらへ踏み込む。足袋の底が檜板を震わせ、空気が一段深く折れ曲がる。袴の裾が風を含み、影が床に波紋を描いた。その波紋だけが現実離れしていて、真昼の光の中でまるで月の下の水面のようだった。


 彼女がふいに目線を上げた。黒曜石の瞳が僕を見つけ、鈴の音が一拍遅れて止まる。呼吸が合った。胸の奥がひとつ音を立てて跳ね、次の瞬間には彼女が続きを舞い始める。何事もなかったみたいに、しかし舞の重心がわずかに俺の方へ寄ってくるのがわかる。


 タッ――タタ、タッ。


 砂時計の最後の一粒が落ちるみたいに、時間がきしんで伸びる。視界の縁が白く光り、世界のピントが彼女だけに合わせ直された。周囲の木々、屋根の影、蝉時雨がすべて後景へ遠ざかる。


 次の瞬間、扇が閉じられ、鈴が真上で小さく跳ねた。音が消える。無音。蝉の声すらしない。空気が真空に近づき、肺が自分の重みで沈む。視覚だけが残り、沙羅の輪郭が淡い燐光を帯びた気がした――のは、たぶん幻覚だ。昼下がりの熱が網膜を揺らしただけ。


 彼女は深い礼を取った。緋袴が床に触れ、白衣の袖が畳の海に波を立てる。礼が解けると、蝉の大合唱と社務所の遠い風鈴が一気に戻り、時間が元の速さへ巻き戻った。


 「……ありがと。観てくれてたんだ」


 沙羅の声が想像より近くで降ってきた。気づけば舞殿のへりまで歩み寄っている。鈴を握る手がまだ小刻みに震えていて、舞の余韻が現実へ揺り戻る途中なのだとわかる。


 「途中から呼吸、奪われた」


 本当に奪われたのは呼吸だけだったろうか。胸を打った鼓動は、いまも喉仏の裏で跳ねている。沙羅は汗をぬぐうでもなく、俺の言葉を聞いてほっと小さく笑った。


 「音、届いてた?」

 「鈴と足拍子だけは、はっきり。蝉が途中で黙ったくらい」

 「良かった……」


 言いかけて彼女は視線を落とし、赤い紐のついた鈴を握り直した。指の節が少しだけ白くなる。何かを確認するような、その仕草の意味までは掴めない。


 「次の祭りまで、あと三日。今日は通しでやるから、もう少し居てもいい?」

 「もちろん。むしろ、ここに居たい」


 言葉にして初めて、自分が心底そう思っていると気づく。舞殿の床板から立ちのぼる木の香り、汗と檜皮の混ざったほのかな匂い、風がくぐるたび揺れる簾の擦れ音。その全部が、自分の細胞を洗うみたいに瑞々しかった。


 沙羅は小さく頷いて、鈴を腰の房に掛け直した。扇を閉じたまま胸に当て、二呼吸ほど深く息を吐く。次の舞へ気息を整えるのだろう。俺は縁側の少し奥、柱の影で正座に近い姿勢をとった。太腿に乗せた掌が微かに汗ばむが、暑いと感じない。熱が皮膚の上を滑り落ち、地面へ吸い込まれていくみたいだった。


 ――そういえば、朝からずっと、温度だけが自分の中でピントの合わない写真みたいだ。


 そのことに気づいた途端、胸の奥でまたズキリとひとつ拍動が跳ねた。食堂の鉄板を前にしたときの、あの妙な既視感と同じだ。息を詰めるほどの痛みではない。ただ、どこかから「覚えておけ」と釘を刺されている気がする。


 「岳くん」


 名を呼ばれて顔を上げると、沙羅が扇を胸から離し、真剣な瞳をこちらへ向けていた。舞とは別種の張り詰めた空気を纏っている。蝉の声が遠ざかったのか、ただ耳が世界を遮断しているのか、境内がまた静かになった。


 「明日の朝、よかったら……じゃなくて、来てくれる?」


 昨夜と同じ台詞。けれど、昼の陽射しの下で聞くそれは、まるで別の呪文のように重かった。何かを賭けて差し出す掌。そんな覚悟が透けて見えた。


 「もちろん。何時でも」


 言いながら不思議と迷いはなかった。むしろ“来ない”という選択肢が初めから存在しないような安心があった。沙羅は短く「ありがとう」と告げ、扇を開いた。白木の面に光が走り、再び鈴が跳ねる。


 タッ、タタ、タッ。


 足拍子が鳴るたび、床板が深い鼓のように鳴り、俺の胸骨が同じリズムで震えた。視界の端の木漏れ日がやや傾き、影が長く伸び始める。夏の午後はまだ高いのに、時間だけが急ぎ足で進んでいる気がした。


 揺れる鈴。その音の中に、ほんの一瞬だけ「カラン」と風鈴が混ざった。午前中、鳥居で聞いたあの鈴音。重なったのは空耳か、それとも――。


 境内の空気が薄く翳り、汗を吸った土の匂いが立ち上がる。蝉がひと斉に合図するかのように鳴き始め、世界が再び通常速度へ戻った。俺は膝に置いた掌を握り直し、舞殿から漏れる鈴の輪郭を必死に掴み続けた。


 ――この午後の光を、失くさないように。


 頭のどこかで、そんな言葉がこだまし続けた。


続々公開していきたいと思いますので、ぜひフォローしてください。作品に一つでも星を付けていただけると本当に嬉しいです!

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