12:30 昼餉の章「ソースの焦げる匂い」
図書館を出るころには、アスファルトが陽炎のように揺らいでいた。自転車のサドルが焼け石みたいに熱くなっているのをハンカチで覆い、駅前まで無言のダッシュ。駅ビルの自動ドアが開いた瞬間、冷房の白い息が頬を撫でた。汗が一気に粒立ち、蒸発の音まで聞こえそうだ。
待ち合わせの喫茶店「キャロット」は地下。階段を降りるたび空気が重く甘くなり、カレーとデミグラスの複雑な匂いが鼻腔をくすぐった。
「お、遅刻魔が今日は早いじゃん」
ガラス張りのボックス席で手を振ったのは佐伯遼──大学で同じゼミの悪友だ。就活スーツの上着を椅子に掛け、ノーネクタイで首をぐるぐる回している。隣には後輩の牧野澄人。二人とも紙コップの水をもう三杯はお代わりした形跡があった。
「説明会どうだった?」
「どうもこうも、四百人座れるホールが満席。帰り際にQRコード配って“後日ウェビナーで”だとさ」
「会場行った意味なくね?」
「交通費で焼肉食えたよマジで」
苦笑混じりの愚痴に相槌を打ちながら、メニューを開く。ハンバーグ、ナポリタン、焼きカレー──鉄板ものばかり並ぶ中で、なぜか胃袋が全部に「行ける」と答える。とどのつまり、何を食べても旨い気がした。
「深山、決めた? 俺らミックスグリルで行くけど」
「……よし、同じの」
「熱いぞ。ソース跳ねるから白Tに注意な」
オーダーを終えると、卓上の鉄水差しが陽光を反射し、天井の間接照明と混ざり合って奇妙な虹を作った。氷の溶ける音が小さく、まるで鐘の余韻のように耳に残る。
「てか深山、顔色良すぎね? 図書館で何かあったか」
「んー、久しぶりの同級生に会った」
「女子?」
「女子」
「おお! 名前は?」
「鳴瀬沙羅」
「……あの舞姫様? 帰ってきてたんだ」
遼が眉を弾ませ、澄人はスマホで検索しようとして肩をすくめた。思い出し笑いを誤魔化すように水をひと口。氷が歯に触れ、不意にキーンと頭の奥が冷えた。頭痛というより、脳みそが澄んでいく感覚。
「昔より綺麗になってた?」
「まあ、うん」
「おお〜」と二人が揃って肘でテーブルを突き、茶化す。そのくだらなさが妙に尊く、俺まで笑い声を重ねる。
ジュワァッ!
厨房のフライパンが火を噛む音がした瞬間、思考が一拍止まった。油と肉汁が混ざった熱気がフード越しに漏れ、濃厚なソースの焦げる匂いが渦を巻いて席まで流れ込んでくる。生唾を飲み込むと、腹がクウッと素直に鳴った。
「……腹減る音までもう名曲だな」
「俺らのオーケストラ!」
三人で無駄にハイタッチをしかけ、結局照れて引っ込める。ステンレスの卓上プレートが軽く震え、その振動が肘から伝う頃、注文の鉄板が運ばれてきた。
カウンター越し、ウェイトレスの指先が皿の縁をタオルで押さえているのが見える。アツアツの鉄板の上で、ハンバーグとベーコンと目玉焼きが踊り、焦げたデミソースが気泡をつくって弾けるたび、香りの粒が顔に当たる。
「お待たせしました、鉄板ご注意ください」
湯気の向こうでかすんだ店内が、まるで夏の路面の蜃気楼みたいに揺らぐ。「いただきます」の声を重ねた瞬間、なぜか俺は箸──いや、フォークより先に、手のひらをソースの立ち昇る熱気へかざしていた。
――熱いか?
ジリッ、と空気が歪んだ。右手の皮膚を通して温度は確かに感じる。だが、熱いという刺激がどこかで途切れて、脳まで届かない。無重力の宇宙で炎だけが燃えているような、そんな異常な距離感。
視界の端が白くフレアし、次の瞬間、胸の奥でドクンと心臓が跳ねた。
思わず拳を握り込む。革張りのベンチシートが小さく軋む音。遼が「どうした?」と言いかけてフォークを止めた。
「……いや、なんでもない。熱かっただけ」
「そりゃ鉄板だし」
笑いながらフォークを肉に刺すと、肉汁が弾けてソースと混ざり、じゅわっと音を立てた。胸の痛みは一瞬で引き、代わりに空腹が舌を支配する。すべてが正常に戻ったようで安心する。でも、さっきの感覚は何だったのだろう。
「深山、動かないと冷めるぞ」
「あ、うん」
ハンバーグを口へ運ぶ。サクッと焼けた外側と、ふっくらした中身の温度差が舌に心地いい。コショウとナツメグが鼻に抜け、噛むたび肉とソースと焦げの三重奏が膨らんでいく。――旨い。
遼と澄人が就活の裏技アプリだ、SPIの超短期攻略だと騒ぐのを、半分聞き流しながら相槌を打つ。鉄板の余熱がソースをさらに凝縮させて、皿の周囲に焦げの稜線を描いていく。香りが変わるたび、蝉の声が途切れたみたいに意識がそこへ吸い寄せられた。
ふと、天井の換気ダクトに目が止まる。白い蛍光灯がそこだけ揺らいで見えた。熱気が上昇気流をつくっているせいだろうか。灯りの輪郭が波打ち、その奥で何かが──黒い、鋭い影が、横切った気がする。
「深山、なに見てんの?」
「……いや、ちょっとデジャヴ」
「寝不足か? 早く食えよ」
「ん」
フォークを動かすたび、鉄板の表面でソースが焦げ、鼻腔に驚くほどリアルな香りを投げ込んでくる。そのリアルさは、さっき鉄板にかざした手よりも強烈だった。皮肉なことに、“匂い”のほうが“温度”より生を感じさせる。
――やっぱり、今日の世界は解像度が違う。
心臓の奥でさっきのズキリがまだ残響している気がする。けれど悪い痛みではない。むしろ、小さな鐘が遠くで鳴っているみたいな、静かな余韻。
「午後どうすんの?」
「神社で沙羅の稽古見るって約束した」
「へぇ、公開リハ?」
「ほぼ貸切らしいよ。一人いると助かるって」
「舞姫に頼られちゃいましたか〜」
遼が大げさに拍手し、澄人が「ご武運を」と敬礼する。そのやり取りがおかしくて、口の端からソースをこぼしそうになる。笑いながらナプキンで拭い、氷水を流し込む。
氷がカランと鳴った瞬間、その余韻と蝉の鳴き声が重なって聞こえた。地下なのに蝉? 一瞬、耳が混線したようにざわめき、次の瞬間には店内のBGMだけが戻る。
――たぶん、外の気温が脳内で再生されたんだ。
そう納得してみるが、胸の奥にもうひとつ違う声がある。
“今日は、こんなふうに全部が重なって響く日だ”と。
鉄板の焦げが最後の一口に差し掛かり、スプーンでソースをこそげとる。皿に金属が擦れる高い音が、妙に遠く聞こえた。目の前の光景に遅れて届く、数秒先のエコーみたいに。
会計を済ませ、店を出ると地下の階段に背中から熱気が追いかけてきた。炭酸水のように細かい汗が肌に浮き、蝉時雨が真上からシャワーのように降ってくる。昼下がりの陽射しは容赦なく、しかし心地よかった。
胸の奥であのズキリが、鼓動に同化して消えていく。
空が白く瞬き、ソースの焦げた匂いがまだ喉の奥に残っている。
――午後三時、舞殿。
自転車のハンドルを握り直す。掌に残った鉄板の熱の記憶が、そこだけ確かに“生きている”と告げていた。
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