10:00 再会の章「白いワンピースと鳥居」
神社へ続く坂道は、ふだんならわざわざ通らない。図書館へ行くには二百メートルほど遠回りになるからだ。
けれど今日はペダルを漕ぎ出した瞬間から、タイヤがそちらへ引っぱられていた。蝉の鳴き方までが「寄り道、寄り道」と囃している。
坂の入口で一度自転車を降りる。コンクリートの継ぎ目から顔をのぞかせた草が、タイヤにこすれて甘い匂いを立てた。
空気が九時台の透明さを失い始め、じわりと熱を孕んでいる。にもかかわらず、体の芯は涼しいままというか、温度計が壊れているような感覚がある。汗は浮くのに、暑さを記号でしか認識できない――そんな不思議をうっすら覚えながら、石段の下まで来た。
鳥居の朱が、陽射しをはね返して眩しい。
その朱を背景に、真っ白な塊が揺れているのが見えた。
白いワンピース。
女の子が一人、石段を下りてくる。風に翻った裾が陽光を透かし、微細な影を石畳に落としていた。額に貼りつく汗の光が、水たまりの反射みたいにちらつく。
鳴瀬沙羅――小中学の同級生。田舎町では珍しく頭ひとつ背が高く、いつもどこか遠くを見ている目をしていた子。高校は隣県の舞踊科へ行き、そのまま東京で就職したと風の噂に聞いていた。
「……沙羅?」
思わず名前が声帯から転がり出る。
彼女の動きがぴたりと止まり、次の瞬間、黒曜石みたいな瞳がこちらを射抜いた。驚きと――ほんの、一滴の安堵。
息を呑むほど綺麗になった気がするが、同時に、変わっていないとも思う。狐面の下に隠していた表情を、急に見せてもらえたような錯覚。
「久しぶり、岳くん」
すぐ近くまで駆け寄った沙羅は、肩で呼吸をしながらも笑った。汗で濡れた髪が後れ毛になって頬へ張りつき、ワンピースの胸元は稽古で荒い波を打つ鼓動を映している。
──白か。
神社の鳥居を背負い、陽光をまっすぐ浴びる彼女は、舞台照明の中で立ち姿を決めた舞姫に見えた。道端の蚊取り線香までスモークマシンに思えてくる。
「帰省中?」
「んー、まあ。稽古も兼ねて、って感じ」
「ああ、神楽の?」
「そう。お盆の祭りで舞う枠、急に空いちゃって」
沙羅は額の汗を手の甲で拭ってから、鳥居の方へ軽く頭を下げ、俺にも同じ角度で会釈した。動作が一分の隙もなく美しく、場面が空気ごと整えられる。
それでいて、声のトーンは昔と同じだった。滴の跳ねる水面のように、会話の間合いを柔らかく繋ぐ。
「岳くんこそ、夏休み?」
「うん。図書館に行く途中」
「あ、やっぱり。リュックが勉強モードだもんね」
彼女は笑いながら石段を一段下り、俺の少し前に並んだ。石の表面で足袋の底がきゅっきゅっと鳴る。その音がやけに瑞々しい。
「稽古帰り? 朝から?」
「朝どころか、夜明けから」
「ストイックだなぁ」
「今日は特別」
その言い方が妙に真剣だったので、俺は首を傾げる。が、沙羅はすぐに「暑いねえ」と笑い直した。ワンピースの布をつまみ、ぱたぱた扇ぐ仕草が風鈴を揺らすように涼しげだ。
視線が自然と彼女の手首へ落ちる。玉砂利で磨かれたみたいに白い肌の上、短い紐が赤く結ばれ、細い神楽鈴がぶら下がっている。
「アクセサリーにしては渋いね」
「あ、これ? お守り。舞殿に置いてたら錆びちゃいそうで」
稽古着のまま帰るわけにもいかず、ワンピースに着替えたらしい。そのミスマッチがなぜかしっくりきていた。
鳥居の向こう、社務所の屋根から落ちる日差しが彼女の髪の端を金色に染める。熱い色なのに、見る者の中へは冷たく滑り込む。
蝉の声が少し高く跳ね、竹林の方でヒグラシが一匹だけフライング気味に鳴いた。
「あのさ、沙羅」
「ん?」
「昔よりずいぶん……その……」
「大きくなった? 幅が?」
「違う違う。綺麗になった」
言った瞬間、やや後悔した。別に口説くつもりじゃない。ただ、見たままを形にしただけなのに、音声となった言葉は思いのほか生々しく、石段に転がった。
沙羅は少し驚いたように瞬きをして、次に肩をすくめて笑った。
「舞ってるとね、姿勢だけは良くなるんだよ」
「それにしても、だよ」
「岳くんも変わったよ。なんか目が冴えてる」
「寝癖ひどいだけじゃ?」
「……ううん。目が、生きてる」
最後の一語が、風鈴の舌がガラスを叩く音みたいに胸で反響した。
俺は曖昧に笑い、ハンドルに手を掛ける。
「図書館、行かなきゃ。予約本取りに」
「あ、私も坂下まで降りるから」
並んで歩く数十メートル。自転車を押す俺と、石段を滑るように歩く沙羅。
木立の間から差す光が斑点を作り、彼女のワンピースに模様を描いていく。一つ影ができるたび、次の瞬間には陽射しが焼き払う。消えては生まれる即興の文様。
「午後、舞殿で練習するよ。時間あったら見においで」
「え、一般人でもいいの?」
「むしろ一人でもお客さんが居てくれたら助かる」
「じゃ、行くよ」
「ありがとう」
坂道の出口で別れるとき、沙羅はまた軽く頭を下げた。動き出したワンピースの裾が翻り、陽に透けた布地の向こうで彼女の膝がかすかに赤く染まる。
手を振り返すと、鈴のついた赤い紐が腕に沿って揺れた。その微かな鈴音を、蝉の合唱が丸呑みにする。
再会というほど大げさじゃない。ただの「久しぶり」。
なのに胸の内側には、凧糸を引っ張られたような揺れが残った。
ペダルに足を掛ける。チェーンが油を弾き、ギアが嚙み合う音が鼓動と同期する。
図書館へ向かう道は真っ直ぐ伸びているが、俺はハンドルを三度ほど切り返した。妙に世界のスケールが変わったようで遠近感が掴めないのだ。
ひとまず深呼吸。肺が膨らむたび、朝よりも熱い空気が喉を撫でる。この夏の匂いを忘れたくない、などと柄にもなく思う。
白いワンピースと鳥居。
たったそれだけの光景が、今日という頁に小さな折り目をつけた気がした。その折り目が、これから先どう開かれていくのかはわからない。
ただ、坂の上から鈴の残響が追いかけて来た気がして、俺はもう一度だけ振り返った。
誰もいない石段の上、鳥居の朱だけが夏の陽に燃えていた。
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