07:00 目覚めの章「蝉時雨のグラデーション」
蝉がまだ音階を探しているような、濁りのない一声を張り上げた。
目を開けるより早く、鼓膜が朝を告げる。
――どうしてだろう。今日は、アラームより先に起きられるような気がしたんだ。
掛け布団の中で小さく伸びをすると、汗ばんだTシャツが背中に貼りつく。その感触さえ、今朝はやけに瑞々しい。畳の目を転がる風が肌を撫で、障子の向こうで陽ざしが薄茶の線を揺らす。
耳を澄ませば台所から包丁がまな板を叩く乾いたリズム。味噌を溶く湯気の匂いがかすかに鼻腔をくすぐった。
味噌と鰹と、古い家の木材が混ざった匂い。吸い込むたび、胸の奥に小さな灯がともる。
枕元のスマホは、まだ六時五十三分を示している。
今日はアラームを鳴らさずに済みそうだ。布団を跳ねのけ、足の裏を畳に沈める。畳の目が足の裏にじんわり広がり、指先に柔らかく馴染む。
――何が始まるわけでもない。夏休みの、ただの一日だ。
そう頭のどこかで言い聞かせながらも、胸の中心では駆け出す子どものような拍動がせわしない。口笛でも吹きたい衝動を抑え、柱時計の横を通り過ぎる。秒針はきっかり六十の拍を刻み、遅れも進みもしない。妙にそれが嬉しかった。
洗面所で顔を洗う。蛇口からほとばしる水が手のひらを弾き、薄く冷たい。指先がびりりと痺れるほどの温度差――いや、温度差というより、生に触れた実感の鋭さかもしれない。
鏡に映った自分の目が、いつにも増して澄んでいる。寝癖は派手に跳ねているが、むしろ上機嫌に見えた。
「岳? 起きてるの?」
母の声が廊下を渡って届く。
「今、降りるよ」
声帯が驚くほど軽やかに震え、木魚のような反響が胸腔に心地よい。
食卓に並ぶのは絹さや入りの味噌汁と、卵を落とした納豆、昨夜の残りの稚鮎の甘露煮。どれも見慣れた皿だが、光の反射や湯気の立ちのぼり方まで一つ一つに違う表情がある。
箸を割り、味噌汁をすすった瞬間、舌にひらく塩気が鋭かった。塩角が立っているわけでもなく、ただ“在る”としか表現できない濃さ。
「……うまい」
こんな何気ないひと言が、今朝は祝詞のようにこぼれる。
母は新聞をめくりながら、それほど気にとめるふうでもなく「よかった」と笑う。しかし笑みの端が、少しだけ驚きの色を帯びていた。普段の俺ならここでスマホをいじりながら食べるはず――そんな目をしている。
違和感は自分でもわかる。だが奇妙に腑に落ちていた。まるで今日というページだけ、紙質が上等になっている。インクの染み方、繊維の手触りが、五感へ直接語りかけてくるのだ。
ふと、座敷の方から風鈴が鳴った。
銀と水色のグラデーションが施された硝子玉。去年の夏の祭りで当たりくじを引いたとき、「こんなの当たるなんて珍しいわね」と沙羅が笑った――ぼんやりと、そんな記憶が揺れる。
風鈴が澄んだ音で朝の静寂に線を引き、蝉の声がその線を複写して色を塗り重ねる。まるで楽譜だ。
蝉時雨のグラデーション。低いミの音から高いラの音へ、無数の命が一斉にスライドしていく。
突然、心臓がひときわ大きく脈打った。意識が一歩遅れて追いつく。
――今日、この瞬間を味わえ。
誰かが囁いたような錯覚。けれど周囲には母しかいない。新聞の活字を追う視線は紙面に注がれ、声など発していない。
俺は湯呑を握り直し、熱を確かめるように指を少しだけ締めた。茶葉の香りが立ち上る。何もかもが鮮やかすぎて、少し怖いほどだ。
「岳、今日は図書館行くんでしょう? 暑くなる前に出たほうがいいわよ」
「うん。ちょっと早めに行ってみる」
母が差し出す麦茶の水滴が畳に落ち、暗い点をつくった。
その一点が、宇宙の始まりのように見えて胸が熱くなる。妙なセンチメンタリズムだ。だが堪えず湧き上がる。
食後、寝室へ戻ってリュックに文庫本を二冊放り込む。カバーをつけた文庫本だけの鞄は軽い。空きスペースに、意味もなくノートと万年筆を足した。何かを書きたくなるかもしれない。今日の手触りを留めておく呪文のように。
玄関を開けると、朝陽の金色が世界に差していた。
舗装路の上で揺れる蜃気楼。生垣を滑る影法師。電線に止まったつばめが小さく囀り、遠くの青空へ弾け飛ぶ。
ハンドルを握ると、自転車のグリップが昨夜の気温を残して温い。タイヤに体重を預け、ペダルを踏み込んだ。
風が、夏そのものの匂いを運んでくる。
朝露と刈りたての芝生、そして焦げる前の陽射し。まだ純度の高い透明が頬を打つ。
心臓がリズムを合わせる。雑踏の代わりに蝉が伴奏をし、世界が脈動している。
このまま真っ直ぐ行けば駅前の図書館。けれど今日は少し遠回りして、神社の坂道を通ろう。理由はない。ただ、その道を選びたいと思った。
選べること自体が祝福のように思えた。
ペダルを踏むたび、骨の髄まで「生きている」が沁みこんでくる。
決して特別じゃない一日。
だが、未来のどこかの俺が「もう一度味わいたい」と願い出るとしたら――。
思考はそこでふわりと途切れた。
唇に笑みが浮かぶ。理由なんて、あとで考えればいい。
蝉時雨のグラデーションを背に受け、俺はハンドルを少し右に切った。
朝の光が、これから始まるただの一日を、過剰なほど祝っている。
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