恋人たちの目論見
エルシーリアに婚約解消を認めさせたイザイアは護衛騎士一人を連れて城を出た。護衛騎士とはいっても学友の一人でまだ正式な騎士に叙任されたわけでもない学生だ。勿論、陰から本来の護衛の本職騎士たちが護衛しているが、イザイアも護衛騎士もそれに気づいていない。
男爵家を訪れたイザイアは男爵夫妻に歓迎された。王都のタウンハウスはこじんまりとしており、イザイアにしてみれば屋敷とは到底言えない大きさしかない。臣籍降下して屋敷を買ったらこの両親にも部屋を与えてやるかなどとイザイアは考える。腹違いの兄はジルダに冷淡だというから、このままこの屋敷に置いておけばいいだろう。そもそも異母兄は殆ど王都には出てこず、領地に籠っているらしいが。
イザイアの訪れを聞いたジルダが喜んで階段を駆け下り、抱き着いてきた。熱烈な歓迎をしてくれるジルダを腕に抱いたまま、イザイアは彼女の部屋へと入る。護衛騎士は馬車で待つように命じており、既にいない。全く護衛の任を果たしておらず護衛失格だった。
「エルシーリアと婚約を解消したよ。まぁ、私がジルダを愛したせいでエルシーリアには傷をつけてしまうから慰謝料は払わないといけないだろうけど、家と家との契約での婚約だからね。父上が払ってくれるだろう」
「ああ、やっとあたしだけのイザイアになってくれるのね! 側近に相談してよかったわね」
独身の貴族にあるまじき距離で二人くっついてソファに座り、能天気な会話を交わす。
当初イザイアは婚約者を交代させてジルダを王太子妃にするつもりだった。しかし、ジルダがそれを拒否した。ジルダは自分には王太子妃など勤まらないと泣いたのだ。
男爵家に引き取られて2年になるが、家庭教師から施される貴族の令嬢教育はジルダには難しく、更に必要性を理解できないことばかりだ。貴族の最下位の男爵令嬢でさえこれならば、一番身分が高い王妃や王太子妃はもっと厳しい作法が要求されることは容易に想像が出来た。ジルダは自分をよく判っている。そんな教育を受けて貴婦人になるなんて無理だ。
だから、ジルダの理想としてはイザイアが王太子をやめて、ただの王子としてのんびり暮らす横で贅沢に過ごすことだった。王太子ではなくとも王族としての責務と公務があり、王子妃にもそれなりの役目が求められることをジルダは理解していなかった。
ジルダの嘆きを受けて、イザイアは王太子位の返上を考えるようになった。元々第一王子だから王太子になっただけで、自分である必要はない。弟たちも同じ母から生まれているのだから、母の実家の後見は受けられるので問題はないはずだ。
それを側近に相談したところ、王族は伯爵家以上の令嬢でなければ婚姻出来ないと知らされた。物心ついた時から婚約者がいたため、王族の婚姻条件などすっかり忘れていたのだ。
ならば、臣籍降下するしかないかと更に調べさせると、イザイアが臣籍降下時に得られる公爵位では伯爵家以上の令嬢である必要があった。貴族の婚姻は基本的に余程の政治的・経済的理由がない限り、2爵位以内と決まっているのだ。つまり、男爵家のジルダと婚姻するためには臣籍降下時に伯爵位以下を賜らなくてはならない。
「ジルダ嬢では伯爵夫人の務めもままならないと思われます」
側近はそう言った。確かにジルダのマナーは下位貴族としても不十分だ。それに王族が臣籍降下した伯爵家であれば、使用人の殆どは子爵か男爵家の出身となる。元々男爵家出身のジルダを女主人として認めるかは怪しいところだ。
そう考えて、よく己はジルダを王太子妃になどと考えたものだと苦笑した。王宮に仕える侍女やメイドは伯爵家から男爵家の娘だ。男爵家出身の王太子妃など認めはしないだろうに。やはり臣籍降下するのが正解だろう。
「そうなると臣籍降下時の下賜金はどうなる?」
伯爵位となれば然程多くはないのではないかと不安になる。
バレストラ王国では王族が臣籍降下する際、仕度金を賜る。これが下賜金だ。領地経営が軌道に乗るまでの費用との名目で、爵位に応じて王子時代の年間予算の1~10年分が与えられる。
「それなのですが、調べたところ、イザイア殿下の場合、通常の伯爵家より多くなると思われます。過去に似た事例がございました」
側近が言うには、恐らく伯爵家に臣籍降下しても下賜される支度金は公爵位相当となるはずとのことだ。過去に公爵として臣籍降下する予定だった王子が配偶者の身分が低いために伯爵となった。その際には公爵として臣籍降下した場合と同額の支度金が下賜されたらしい。
イザイアも同じだから、恐らくイザイアの下賜金は現在の予算の10年分となるはずだ。とすれば、伯爵家ならば20年は遊んで暮らせるだろう。
「それだけの潤沢な財産があれば、いっそ平民でもいいかもしれませんね」
イザイアが思ってもいなかったことを側近は言った。
「平民であれば、これだけの財産があれば、王都の平民街の一等地に屋敷を買って、メイドと料理人を数名ずつ雇っても十分に暮らしていけます。貴族ではないのですから社交する必要もありませんし、ジルダ嬢も気楽に暮らせるでしょう。恐らく50年は何もせずとも暮らしていけるのではありませんか」
この世界の平均寿命は50歳前後だ。60歳まで生きれば長生きだと言われる。つまり、50年遊んで暮らせるイコール死ぬまで遊んで暮らせるということだとイザイアは思った。元々勤勉な質ではない。義務だから仕方なく書類仕事をしている。その大半はエルシーリアに押し付けているが。遊んで暮らせるならそれが一番だ。
「そうだな。無理に貴族にこだわる必要はないな。ジルダは男爵でも堅苦しいと嘆いていた。だったら、平民になればいい。平民になっても男爵家よりも裕福な暮らしが出来るのであれば、ジルダもそれで満足だろう」
気の張る社交もしなくていいのもイザイアには嬉しいことだった。王太子としての社交はまだ未成年ということでそれほど多くはなかったが、それでも堅苦しく気を遣い気を張って面倒だった。エルシーリアという完璧な淑女の補佐があってすらそうなのだから、今後はもっと面倒になるに違いない。
それに、下手に臣籍降下して貴族でいると、これまで下位の者として接していた者に頭を下げねばならなくなる。それは楽しくないし気に食わない。だったら、社交界に出る必要のない平民のほうがずっと良いのではないか。
側近の思いがけない助言によって、イザイアは平民になることを決めた。ジルダを『社交の必要がないから堅苦しくないし、厳しいマナーも必要ない。50年遊んで暮らせる下賜金も得られるのだから、平民になって楽しく暮らそう』と説得し、お金があるならそれでいいとジルダも納得した。
そうして、イザイアは婚約破棄の宣言をエルシーリアにしたのである。
「ねぇ、豪商の別邸が売りに出されてるんだって! 平民だったころに憧れてたお屋敷なの」
婚約解消が成ったことでこれまでのことを思い出していたイザイアをジルダの声が現実に引き戻した。
「そうか。ならばそこを買い取るか。城に帰ったら早速側近に交渉に向かわせるよ。ああ、ジルダと結婚する日が楽しみだ。卒業まで待たなくてはならないのが辛いな」
「あと1年あるのよね。あら、でも、学院は貴族じゃないと通えないわ。平民になるのだし、辞めてもいいんじゃない?」
「それもそうだな! よし、父上に報告した後は退学の手続きもしなければ。それに結婚式の準備もあるし、忙しくなるぞ」
愚かな恋人たちはそれが夢で終わることに気付いていなかった。イザイアは自分の望みは全て叶うと夢想し、自分に最良の助言をした側近に褒美でも与えようかなどと考えた。
イザイアは最後まで気づかなかった。側近はアディノルフィ公爵の分家の伯爵家の子息で、アディノルフィ公爵家の推薦によって側近となっていたことに。側近は主家のご令嬢のためにその夫となるはずだったイザイアに仕えていただけであったなどイザイアは想像すらしていなかった。
だから、主家の姫を蔑ろにされた彼が王太子とその情人が奈落の底に落ちるように誘導したことに、イザイアは最後まで気づかなかったのである。