公爵家の話し合い
公爵邸に戻ったエルシーリアは直ぐに執事に父への面会希望を伝えた。たとえ家族であっても簡単に当主には会えない。朝食や夕食といった食事とその後の歓談時間が家族として過ごせる時間で、それ以外の時間帯は多忙な両親にはまず会えるかどうかの確認が必要であり、その確認の後、先触れを出しての面会になる。
一旦自室へと入り、出仕用のデイドレスから、自宅用のものへと着替える。まとめて結い上げていた髪も解き、楽なハーフアップにして背に流す。専属メイドが入れてくれたお茶を喫し、一息ついたところで執事が父からの面会許可が下りたことと、直ぐに会えることを伝えた。
面会希望の際にイザイアから婚約解消の申し出があったのでご相談したいと告げておいたので、直ぐの面会が叶ったのだろう。
執事に先導されて父アディノルフィ公爵マルティーノの執務室に入ると、父だけではなく次期公爵である長兄のセノフォンテも同席していた。イザイアとの婚約解消となれば、エルシーリア個人の問題ではなく、アディノルフィ公爵家の問題となる。ゆえに次期公爵である長兄も同席することになったのだろう。
メイドが3人分の飲み物を供して出て行くと、部屋に残ったのは父の腹心である家令のヴィジリオとエルシーリアの専属侍女ミリアの5人となった。
「本日、イザイア殿下のお呼び出しがあり王宮に伺いましたところ、殿下有責での婚約破棄を告げられました。真実の愛のお相手ベルニ男爵庶子ジルダとの婚姻をお望みだそうで、王太子位を返上し、平民になるとのことでした」
端的にエルシーリアは告げる。父も兄も家令もイザイアとジルダの不貞関係は知っていたし、なんならエルシーリアが望めばイザイア有責の婚約破棄に持ち込むために証拠も十分に集めていた。
しかし、まさか王子のほうから己の有責での婚約破棄を申し出てくるとは思わなかった。精々愛妾として迎えるから認めてほしいと願う程度だと思っていたのだ。
「真実の愛ねぇ……」
セノフォンテが嗤う。
王侯貴族にとって『真実の愛』など不貞を誤魔化すための言葉でしかない。政略的な婚約・婚姻が当たり前の王侯貴族にとって恋愛感情の有無など関係ないのだ。後嗣たる者が恋愛対象が見つからないからといつまでも独身でいるわけにはいかない。いくら愛し合っているからといって国益や家の利益を損なう相手を配偶者として認めるはずもない。王侯貴族の婚姻で重要なのは後嗣を得ることと国益や領地領民の利益になるかどうかなのだ。
だから、婚姻は政略で結び、『真実の愛』を他に求める。尤も恋愛は人生に必須要素ではない。大抵の王侯貴族は配偶者と信頼関係を築き、家族としての情愛を育てるのだ。殆どの貴族家はそれで円満な家庭を築き、家門の基盤を強固なものにする。夫婦が互いに愛人を持つ貴族もいないわけではないが、そういった家は夫婦はビジネスパートナーと割り切っている。それが出来ず愛人関係で悋気を起こし醜聞となるような家は貴族社会では軽んじられ家門は衰退する。
仮にも王太子ともあろう者がそんなことも理解していないのかとセノフォンテは呆れた。だが、男爵の庶子を王太子妃にするではなく自ら平民になるというのであれば、まだマシだろうとも思えた。
「平民になるとまで覚悟を決めておられるのであれば、わたくしも婚約解消を受け入れようと思いますの。殿下有責で慰謝料も支払うと仰せでしたし。ですが、飽くまでもこの婚約は国王陛下とお父様がお決めになったこと。わたくし個人の思いはどうあれ、お父様方のご判断に従いますわ」
国王と父の結論が婚約継続であればそれに従う。ただ、あれほどにジルダを寵愛しその願いを受け入れて彼女だけを妻とすることを願っているイザイアだ。婚約継続となり婚姻しても嘗て予想していたような円満な夫婦関係は望めないだろう。
「そうか。イザイア殿下がそこまで決意しているなら、当家としては婚約解消を受け入れよう。無理にこのまま婚姻させてもイザイア殿下のことだ。真実の愛を引き裂かれたと、そなたに対して不満を持つのは明らかだしな。一度王位を捨てたのだ。再び国王になる覚悟など持てまいよ」
父マルティーノはそう言ってエルシーリアの希望を受け入れた。が、娘の表情が何処か釈然としていないことも気にかかる。
「リア、何か思うところがあるのかい?」
同じく妹の表情に引っかかるものがあったのだろう。セノフォンテが尋ねる。
「婚約解消については特に。別にイザイア殿下に恋情を持っていたわけではありませんし。彼への気持ちは幼馴染としてのもので、出来の悪い弟を見守る姉のような気持ちでしかありませんわ。13年の時間を無駄にされたという憤りもありますけれど、まぁ、それは今後わたくしがどう生きるかで活かすこともできますし。ただ、王家がイザイア殿下にかけた諸々の費用が完全に無駄になるのだなと思いますと、イザイア殿下は責任を放棄して国費を無駄にしたのだと思ってしまいますの」
王侯貴族は国民や領民の納めた税によって生活している。商会のオーナーとなったり王城に勤めたりして副収入を得ることはあれど、主収入は税収だ。領主は領地領民のために領政を行い領地を守り領民を富ませ、その対価に税収を得る。その税の一部がエルシーリアの生活費となり、貴族らしい食事や服飾品、様々なものの費えとなる。
そのことを幼いころからの教育で知っていたし、己の全ては公爵領の民の恩恵で形作られていると理解していた。だから、何れは公爵家の娘としてその恩に報いるために努めようと思っていたし、王太子の婚約者になってからは全ての民の母となる者として民を愛しみ少しでも幸せを感じられるような政の支えとなりたいと勉学に励んできた。
こういったエルシーリアの考えは高位貴族には当然の思考だった。少なくともアディノルフィ公爵家は代々そのように教育されてそれを当然として生きてきた。
だから、イザイアの決断にモヤモヤとしたものを感じたのだ。
イザイアは生まれた時から当然ながら王子として豊かな暮らしをしてきた。立派な城の広い部屋に住み、身の回りの調度品は芸術の域に達する至高の品。常に絹を纏い、絢爛豪華な金糸銀糸の刺繍の施された衣服を着る。紙一枚ペン一本に至るまで名工の手による高級品が当然のように与えられる。口にするものは厳選された素材をふんだんに使った贅を凝らした料理や菓子。全てが平民の数百倍から数万倍もの価格のものだ。
平民には縁のない宝石や金銀の装飾品や精巧な装飾を施された儀礼用の武具と稀少素材を使った実用の武具。それ一つで平民の家族4人が生涯暮らせるような物も少なくない。
そして、王太子であることから、超一流の学者や教師から教育を受けている。超一流の彼らの指導料とて高額だ。平民には必要ない様々な多種多様の教育を受けている。
それらは全て、『将来国のために働く王族であるから』『将来国王となり、国と民のために生涯を捧げるから』という理由で必要とされた、或いは許された出費だった。
王族の出費は全て国民の税金だ。教育にかかる費用は国庫から、生活にかかる費用は王領の税収と王妃の化粧料から出ている。王妃の化粧料はつまり王妃実家貴族家の領地の税収だ。
王太子であるとはいえ、イザイアはまだ学生であり未成年であることから、特に公務についているわけではない。教育段階だから当然だ。僅かばかりの書類仕事はあるが、それも王太子教育の一部でしかない。
更にいえば、エルシーリアの王太子妃教育・王妃教育にかかる費用も国庫から出ており、イザイアの個人的都合によって婚約解消となったことでその費用も無駄になった。
つまり、イザイアは金だけかけてもらって、何一つ国民に返していないのだ。王太子として豊かな生活を送り、高度な教育を受け、それだけの費用をかけてもらいながら、平民になるというのであれば、これまでイザイアにかかった国民の血税は全てが無駄になったということだ。
愛した女とともに生きたい、身分が違うから全てを捨て平民になるというイザイアの気持ちや覚悟も解らぬではない。しかし、釈然としない。
エルシーリアはそんな気持ちをつらつらと父と兄に語った。
「リアが釈然としないのも解る。陛下と婚約解消について話す前に財務部に顔を出すとしよう」
「いいえ、父上は陛下と婚約解消というかエルシーリアへの慰謝料と賠償金について話を進めておいてください。その間に私が財務部で必要な資料をまとめるよう指示します」
ふむと頷いてマルティーノが言えば、それにセノフォンテが応じる。
バレストラ王国では高位貴族の当主が閣僚を務めることはない。領地経営と閣僚を兼任できるほどどちらも楽な仕事ではないからだ。だが、嫡子は爵位を継ぐまで王城の官僚となる。セノフォンテは財務部に勤めているので、今回の件には丁度良かった。
「イザイア殿下が生まれてから今まで、及びこれから学院を卒業して平民となるまでにかかる費用を1ペニー単位までしっかりと調べましょう。王城からイザイア殿下へ賠償金を請求できるように」
ニッコリと目の笑っていないセノフォンテの笑顔に、エルシーリアはイザイアの今後が彼が考えるほど楽観的なものには成り得ないことを感じたのだった。