婚約破棄宣言
アディノルフィ公爵の長女であるエルシーリアはこの日婚約者であるイザイア王太子に呼ばれ王宮を訪れていた。定期的な婚約者としての茶会ではない。ここのところ茶会はイザイアの一方的な都合によってキャンセルされまくっている。そのキャンセルの理由もエルシーリアは把握しており、今日改めてイザイアに呼ばれたのはそれも関係しているだろうと予想した。
恐らくは、1年後に迫った婚姻後のことだろう。愛妾を迎えるという話に違いない。イザイアには1年程前から寵愛する女性がいる。ベルニ男爵家の庶子であるジルダだ。男爵家の庶子では通常貴族との婚姻は見込めない。王族、しかも王太子に嫁ぐなど不可能だ。王族の妃は伯爵家以上と決まっている。愛妾は子を産むことを認められないから、公爵家としても許容範囲ではある。
そんなことをつらつらと考えているところにイザイアが現れた。幾分緊張しているように見える。立ち上がり礼をして出迎え、イザイアの許しを得て改めて座る。
通常であればまずはあたりさわりのない話をして、そこから本題へ入るものなのだが、イザイアは余程余裕がないのか、エルシーリアが座るや、本題を切り出した。
「婚約を破棄してほしい」
何の前置きもなくそう告げるイザイアの余裕のなさにエルシーリアは呆れる。どうやら男爵家の庶子と付き合ううちに王族としての振舞も疎かになっているらしい。
「理由をお聞かせ願えますか。わたくしに如何なる瑕疵があるというのでしょう」
理由は判り切っているが敢えてエルシーリアは尋ねる。返答によっては父に願って王家に抗議しなくてはいけない。
「違う、リアには何の瑕疵もない。私有責での破棄だ」
どうやらそこまで恥知らずではなかったようだとエルシーリアは安堵する。
エルシーリアがイザイアと婚約したのは僅か5歳の時だ。それから13年、婚約者として過ごし、次期王妃としての教育を受けてきた。10歳までは公爵令嬢としての貴族教育と語学、13歳までは王族教育の基礎、王立学院に入ってからは王妃教育。昨年婚姻後に教えられる王家の秘事・秘儀以外の教育は全て終えている。今は王妃の指導を受けながら実践教育となっている。
王妃教育に費やした13年間の努力は婚約破棄されれば水泡に帰す。公爵家の教育より高度な知識や教養を身に付けられたことは無駄にはならないだろう。しかし、王族となり王妃となる未来のために様々な制約を課せられ、同年代の令嬢たちよりも自由のない少女時代を過ごしたのだ。その時間が無駄になり、王太子の婚約者でなければ得られた様々な経験を取り戻す機会はない。そのことに僅かばかり憤りを感じる。
「私はベルニ男爵令嬢のジルダを愛しているんだ。彼女とともに歩んでいきたい」
はっきりとイザイアは言った。一夫一妻制のバレストラ王国ではあるが、愛妾は認められている。正確には黙認だが、愛妾を持つことは禁じられていないのだ。であれば、男爵家の庶子は愛妾にするのが妥当だろう。しかし、イザイアはジルダだけを選ぶという。
密偵の報告でジルダが唯一の妻になることを望んでいることは知っていた。男爵家に引き取られてまだ2年。彼女は平民の価値観で生きている。なのに、王太子に近づき篭絡した。純粋に平民の価値観だけならば王族や高位貴族に近づくことはしないだろう。しかし、どうやら母親から『より身分が高くて金持ちの男を捕まえるのが女の幸せ』という教育を受けていたらしい。貧民街出身で己の美貌のみを武器として男爵の愛人になった女としては当然の価値観だっただろう。それをジルダも受け継いでいる。そして、この国で独身男性最高位のイザイアを見事に篭絡したのだ。
「男爵家庶子では王妃にはなれませんわよ」
「判っている。私は王太子位を退くつもりだ」
幸いイザイアの下には弟が3人いる。どの弟も優秀だし、自分が王太子ではなくなっても問題はない。通常、王籍を抜ける場合は母王妃の実家に準じた爵位で臣籍降下する。イザイアの場合であれば公爵位だ。しかし、自分の我儘によって婚約を破棄し、王籍を抜けるのだ。貴族位を与えられるのも烏滸がましい。平民に落ちるのが妥当だろうとイザイアは考えた。
平民に落ちるとはいえ、王籍を抜ける際には支度金が下賜される。公爵位を賜るのを辞退するのだから、その分支度金は潤沢に得られる。側近の計算ではジルダと2人一生贅沢に暮らせるはずだ。平民に落ちる際には後々の火種にならぬために断種措置を受けることになるから、子どものための養育費も必要ない。王都の平民街の一等地に屋敷を買い、十分な使用人を雇って、これまでとさほど変わらぬ生活を送っても50年は余裕がある計算だった。
ジルダは夜会などに出られなくなることを残念がっていたが、煩わしい王族や貴族としての義務はなく、仕事をせずとも遊んで暮らせると知ると納得してくれた。
だから、平民になっても何の問題もない。そうイザイアは考えていた。
そんなイザイアの考えを知らぬエルシーリアは、イザイアが平民に落ちて生きる覚悟をしているならばと婚約の解消を受け入れた。破棄ではなく解消としたのは、これから苦労するであろう幼馴染への餞のようなものだった。王太子として人々に傅かれていた生活から一変するのだ。そこまでの覚悟を決めたのならば、幼馴染として長年の婚約者だった者として応援するとまではいかないものの、幸いあれと祈る程度の気持ちはあったのだ。
正式な解消の手続きは国王とアディノルフィ公爵との間で行うことになるため、エルシーリアは解消を受け入れる旨の書面にサインして王宮を辞した。
しかし、公爵邸へ向かう馬車の中で、エルシーリアは何処か釈然としないものを感じていた。婚約解消を受け入れることは問題ない。少女時代を無駄にさせられた不満はあるが然程大きなものではない。イザイアに恋慕の情があるわけでもない。あるのは些か出来の悪い弟に向けるような気持ちだけだ。では何故こんなにもモヤモヤとするのだろう。
「お嬢様の貴重な娘時代を無駄にさせて、その詫びもないとは。やっぱりあの方はお嬢様には相応しくなかったのです!」
実は同行していた侍女のミリアが憤懣やるかたないといった風情で吐き出す。
ミリアは乳母の子でエルシーリアの乳兄弟だ。物心ついた時からエルシーリアの侍女として仕えている。なお、乳母の子はミリアの姉・兄・姉・ミリアの1男3女で、上から母付きの侍女・長兄の侍従・次兄の侍女・長女の侍女である。高位貴族の乳母となる女性は育児経験も必須であるため、3児の母だったミリアの母が選ばれたのだ。
因みに乳母は単なる乳を与えるだけが仕事ではない。母親の補助、幼いころは養育係の長、長じてからは侍女やメイドのまとめ役となる。通常は貴族夫人が選ばれるためミリアの母は子爵夫人であり、ミリアは子爵令嬢でもあるのだ。ミリアの父は侍従長で、分家筋の子爵である。なお、乳を与えるだけの乳母もおり、こちらは屋敷の使用人がタイミングよく身籠っていればその人物が、居なければ領地の平民から選ばれる。
つまりミリアは両親ともに、いや祖父母も曽祖父母も代々公爵家の恩恵を受けてきた生粋の使用人であり、一族揃って忠誠心篤い一家なのだ。特に生まれた時からともにいるエルシーリアに対してのミリアの忠誠心は一際強い。お嬢様を蔑ろにするヤツなどピーしてピーしてピーしてやろうと思うくらいには。
そんな大切な大切なお嬢様が将来の王妃として日々努力していた姿を最も身近で見てきていたのだ。怒り心頭という言葉では表せないほど、ミリアは怒っていた。
お嬢様至上主義のミリアにしてみれば、イザイアは甘ったれた頼りない王子だった。性格は悪くないし、学問も武芸もそこそこ優秀だ。容姿に至っては流石王子様というべきキラキラしい同世代の男性の中ではダントツの美貌を持っている。しかし、何かとエルシーリアに面倒を押し付ける。王太子の浮気はジルダが初めてではないし、別れた後の始末をつけるのはエルシーリアに丸投げしていた。書類仕事を面倒臭がり、半分はエルシーリアに投げていた。どうしても王太子の印璽やサインが必要な書類はイザイアが処理したが、それらは判を押すかサインをすればいいだけの最終決裁書類だ。エルシーリアに投げていたのは草案作りや調査が必要な書類で、これこそが本来国王が王太子に経験させたい仕事の書類だった。エルシーリアも流石に苦言を呈するが耳を右から左へと通過させ適当な返事を返すだけだった。
そんな男と縁が切れるのは僥倖だが、素晴らしいお嬢様が捨てられるのは納得がいかない。
「平民になるって言いますけど、平民の暮らしがどんなものか判ってるんですかね? これまでは上げ膳据え膳が当然で、王族に相応しい高価な食材をふんだんに使った食べきれない料理を準備されてて。持ち物だって最高級の品質の物ばかり。これまで絹を着てたのに麻や木綿を着れるんですかね」
プリプリと怒りを露わにしながら不敬なことばかりを言うミリアにエルシーリアは苦笑する。文句を言い出した時点で馬車に防音結界を張ったのは正解だった。大事なミリアが不敬罪で罰せられてしまう。
苦笑しながらミリアの言葉を聞いていたエルシーリアだったが、次の言葉でハッと自分が何に納得していなかったのかに気付いた。
「散々お金かけて育ててもらって税金で贅沢に暮らしてたのに、平民の生活嘗めてますよね!」
そうだ。これまでイザイアは『王太子として』育てられていた。王族に相応しい衣食住を与えられて、王太子に相応しい高度な教育を与えられていた。それは『王族』であり『王太子』だからこそだ。やがて国王として或いは王族として国のために民のために働くからこそ与えられていた境遇だ。だが、イザイアは平民になるという。これまでの全ては無駄になるのだ。
散々、国民の税金によって贅沢を享受していたイザイアは、その対価となる国と民への義務を果たさずに、己の心のままに生きようとしている。そのことに釈然としないものを感じていたのだ。
イザイアは自分への慰謝料は支払うと言った。だが、その資金は何処から出すつもりなのか。まさか、自ら平民落ちを望みながら王家に支払わせる気なのか。
真実の愛を貫くために自ら有責で婚約を破棄し、王太子位を辞し、王籍から抜け、平民になる。
随分聞こえのいい話だ。高潔な王子なのだと言われるかもしれない。平民や下級貴族の夢見る世代からすれば、愛を貫いた理想の王子様かもしれない。
けれど、どうにもエルシーリアにはイザイアがかなり楽観的な希望的観測のもとにこの婚約解消を進めているように思えてならない。
自らの身を処したのではなく、出自に対して与えられた権利だけを享受し、土壇場で義務を放棄したようにしか思えなかった。
ミリアの母が乳母に選ばれたところで、『3児の母』を『4児の母』という誤字報告を受けましたが、誤字ではありません。ミリアの母が乳母に選ばれた段階ではミリアはまだ生まれていないため、その時点ではまだ『3児の母』です。わかりにくくて申し訳ありませんでした。