君の割った腹を撫でる
ふいに僕は気がついた。
自分の中から急激にこの『タカギシシオン』と言う一個下の後輩に対しての熱が体の中から失われている。
初めは、この居酒屋へ来るまではそうではなかった。彼女から飲みに誘われた時なんて一人部屋で舞い上がったものだ。明日、彼女とするのだからわざわざ一人でする意味もないなと熱り勃った息子をパンツの中に仕舞いそのまま寝たのに。
「それでー」
僕の対面に座る彼女は頬を赤らめ目をトロンとさせながら梅酒を持って話を続ける。目の縁から溢れ落ちた涙に彼女は気がついているのだろうか。
しかし、本当にこの店はいい店だ、と僕は部屋を見渡しながらジョッキを呷る。
僕の横側は通路で全面開かれているものの半個室のようにそれ以外を人の身長位の高さで仕切っている為、人の目をあまり気にせず話ができる。毎回それなりに混雑していて騒がしいのも良い。
それにここの店の梅酒は、他の居酒屋にはよくある濃い梅酒程度の濃さで普通の梅酒として提供してくれる。酔わせるのには最適の店だ。
「泣いてるよ」
まるで善意のように装い僕はおしぼりを持って席を立ち、彼女の隣に座る。
なるべく化粧を崩さないようにおしぼりの先を尖らせてから彼女の目元につけ涙を吸わせた。
彼女は鼻を啜ってから「ありがとうございます」とはに噛むように笑う。赤らめた頬のせいか少し色っぽい。
「いっぱい泣きな。外から見えないし」
通路側に座った僕は彼女の顔を覗き込むようにして言う。通路の方を見ようとしたであろう彼女と目があって僕は彼女に微笑んだ。我ながらよく出来たシナリオだと思う。
僕のそれが彼女にブッ刺さったらしく、声を振るわせながら「久々に優しくされました」と再び泣き出してしまった。クシャリと顔を赤くし歪める様子を見て僕はあーあと思う。せっかくの化粧とその気遣いが台無しになった。
この近付き方は前回で二回目なのに、よくもまぁおんなじように引っかかるな、と思う。
前回は通路から見えるし場所を変えようと言ってそのまま僕の家に二人で帰ったのにさっき言った言葉を変えたら完全に同じ手順でいけそうなのはどうなんだろう。
「もう全然好きじゃないんだなって思って」
毎度のことながら彼女の愚痴は彼氏の話だ。うんうん、と僕は頷きながら彼女の丸くなった背中を撫でる。初夏らしい彼女の薄い服の背中側、その中に隠された白い肌に出来た青いあざを僕は見る。また増えたみたいだ。ちょっとグロい。今度の場所は彼氏のしている事がそろそろ周りにバレるかもしれない。
「こんなに我慢して、色々してあげたのに」
「うん。頑張ってる」
「私って男の人から見たら重いんですかね」
それがもう重いねと口から出かけて慌てて奥へと押し込む。代わりに「うーん、普通じゃないかな。重い位がちゃんと愛してると思うけど」と言っておく。聞こえのいい言葉だけど、ちょっと考えると意味が分からない。駐車場がないのに車をプレゼントされても困るというものだ。そんな事をするやつは相手のことをちゃんと考えたかのか疑いたくなる。もちろんそいつが普通とも思えない。
(……まぁ、どうでも良いけど)
僕が誰かに気持ちを渡そうとしているわけじゃない。彼女も僕に何か送ろうとしているわけでもないだろうし。彼女と彼女の彼氏、二人の間の事だ。そっちで上手いことやってくれ。
(それに彼女もそこまで馬鹿じゃないだろう。いつか勝手に自分で答えを見つけ出す……筈)
「あーあ、なんでそんなに先輩優しいのに彼女さんいないんですか」
「なんでだと思う?」
平然を装って返したものの内心、焦った。突然首筋にナイフを向けられ背筋がヒヤリとした。なんで優しいのにモテないの?プークスクス、やっぱ顔?みたいなニュアンスだったら僕はそのまま席を立って家に帰るところだった。そして連絡先を全て消し、一人でして寝る。
「えっ!?なんで……ですか?」
濡れた瞳で僕の顔を見つめて問う彼女を見て、どうやら僕の被害妄想だったと気づく。よくよく考えれば彼女が突然そんな事を言うわけが無かった。僕もどうやら酔っているらしい。
にしても彼女の上擦った声といい、上目遣いで僕を見る目といい、軽く開いた口で艶やかに光る桃色の唇といい、何かを期待しているようにも見える。
ただ考えた所で分からなかったので彼女の方に腕と腕が当たる距離まで体を寄せて「なんでだろうね」と肩をすくめて戯けてみせた。
「えー!もうっ」
怒ったように僕の肩に頭突きをする彼女。
この頭突きは多分、実家の子犬が僕の足に頭突きをするのと同じ感じだろう。遊んでいる。
そのまま彼女は僕の胸の方に体を預けて抱きついてくる。
その時、ふいに彼女が甘く薫った気がした。
「よしよし」
僕はなるべく彼女の髪が乱れないように気を付けながら頭を軽くポンポンと手で撫でる。クラリとしてしまうほどに彼女の甘い香りが強くなった。
どうして彼女の体はこんなに柔らかいのだろう、と抱きつかれた場所の事を考えていると僕の冷めていた心が再び湧き立ち出す。
ゴクリと僕は唾を飲む。心臓が高鳴り、彼女と共に早く家に帰りたくて仕方がない。
「もし……ですよ」
彼女は僕の胸の中で絞り出すような声で言う。
見ると彼女は耳まで真っ赤にしていて、僕を抱きしめる手は少し震えている。
「もし私が彼氏と別れたら、先輩は……私を助けてくれますか?」
彼女はガバッと勢いよく顔を上げて、顔を真っ赤にしながら僕の目を見つめながら聞いた。
僕はパンツに抑えられた息子が痛い。
「その時はまたちゃんと話を聞くよ」
僕は彼女の目を見てしっかりと頷く。
「え?」
「え?」