18、激突
「お静かに。勝負はもう始まっています。手出し口出し無用ですわ」
スズノのほうへと視線を移すことなく、瑠璃が答える。
彼女に一蹴され、スズノは不服と言うよりは不安げな表情を見せたが、後ろに退いて静かに見届け役に徹する。
龍星、瑠璃の双方とも見合ったままで動かない。
動けないと言い換えてもいい。
ふたりの間隔は約3メートル、タイルにして10マスという近すぎず遠すぎずといった距離ではあるが、互いの立ち位置はすでに危険地帯だった。
両者ともにお互いに相手のわずかな一挙一動の兆しをとらえようとしている。
龍星は瑠璃と対峙しながら自分の見立ての甘さを痛感していた。
なし崩し的に瑠璃との勝負、勝利条件がセッティングされ、彼女と向き合うことになったいま、一撃を入れるのもしのぐのもひと筋縄ではいかないことがひしひしと感じられる。
モエギが駆けつけてくるまでの時間を稼ぐために、のらりくらりと立ち回るのは難しそうだ。
となると、琥珀との戦いで出した奇策の一手で素早く勝負を決めるのが最良といえた。
やることが決まったのならば、あとはそれに向けて集中するのみ。
静かに深く呼吸すると、龍星は計画の第一段階を推し進めた。
呼吸と拍子を読み合うように対峙しているふたりをギャラリーとして見ていた市子だが、
(あれ?)
目を疑うような出来事に思わず目をこすった。
瑠璃と向かいあう相手がまるで体ごと周囲の空気へと溶け込み、風景の一部となったような錯覚を感じたからだ。
(消え……いや消えてはいないけど)
この派手とも言える空間に負けないくらいに目立つ格好でいながら存在感を薄めていた。
目には映っている。だがそこにいるのに、そこにいない。
龍星は体と心の勢いを鎮めた状態で、静かに立っていた。
天久愛流の教えのひとつ、『虔』。
軽はずみをつつしむ慎重さ、心を引きしめるという意味をもつ剣舞を行う前のルーティン、手順のようなものだ。
そしてこの文字は『殺す』という物騒な意味も持っているが、天久愛流剣舞においては『息を殺す』、『気配を殺す』、『感情を殺す』というような動作や呼吸を押し殺すという、他者に向ける殺意ではなく自らに課す心組みとなっている。
本来は剣舞の『動』に移る前の『静』、粛然とした雰囲気の演出にも使えるものだが、それを応用し、戦意や気迫といった表出しがちなものをぐっと自分の中に押しとどめ、見ている者には次の一手を予想させない無心の状態へと。
それでいて感覚は探るように全周囲へ向け、瞬時に行動に移れるように全身からはほどよく力を抜いた状態を維持する。
龍星の『虔』の所作に対する反応はさまざまだった。
瑠璃は一瞬、動揺を見せたものの、龍星の視線、動作に『静』から『動』へと変わる兆しを見逃すまいと油断なく見つめる。
過去にこの状態の龍星を見ている琥珀は自分のことのように少し誇らしげな表情を見せたあと、自分なりにここからの展開を脳内で構築していた。
スズノはやや感心したように目を細め、なにかを懐かしむかのような追憶の微笑みを見せた。
他の女子はただただ予測のつかない目の前での出来事を一瞬たりとも見逃すまいと、まばたきを忘れ押し黙ったままでいる。
そして手の内を読み合うように対峙しているふたりはスローモーションのように、互いにじりじりと間合いをつめていく。
緩慢な足運びながら、足元のタイルは8……6……とさながらカウントダウンのように、ふたりを隔てていた距離はゆるやかながらも着実に狭まっていく。
ふたりの前進が続き、タイルが4となる直前、一触即発という緊張感が張り詰める空気のなか、互いの歩みが止まる。
龍星の狙いはひとつ。
木刀を振り抜き、切りつけると見せかけて突きを繰り出す。
琥珀戦で決着へとつながった動きだ。
寸前までこちらの意図を感じさせぬようにしつつ、瑠璃の視線や動きを観察し、ただ技を決める瞬間を待つ。
水を打ったような静けさのなか、爆発的な瞬発力を見せるタイミングをうかがう睨み合いのような時間が流れる。
この停滞がしばらく続くと思われた瞬間――、
龍星が少し体を沈め、前へ飛び出そうとするのを、瑠璃は見逃さず棍を下段に伸ばした。
足もと前方の床が強く打たれ、タン、タタンと小気味よい音が響く。
「田舎のおじいちゃんが草むらからヘビ追い出すのにああいうふうにしてたなあ」
「でも、ヘビはこの場面では関係ないよね?」
「いまのルリさんの動きはリュウセイさんの動き出しを狙ったんよ。タイミングが微妙に合わなかったんけど、出足をけん制する結果にはなってるんと思うよ」
「なるほど。すねとかアキレス腱って急所がありますから足もとを狙っていくのはいい考えですな」
「あの勢いなら足の甲や指に当たっただけでも、急所とか関係なく、いいダメージになると思うけど」
瑠璃の攻撃をきわどいところで避けた龍星は次の展開を模索する。
女子たちの会話のとおり、踏み込むのがもう少し早かったら、瑠璃の攻撃がもう少し遅かったら、間違いなく足を打たれていた。
タイミングがずれたのは偶然の結果でしかない。
恐るべきは、瑠璃の瞬発力だ。
こちらの一挙一動に目を光らせていたとはいえ、わずかな挙動、気配を察知し、打撃――それも音から判断するに一撃ではなく、連続した攻撃――を打ち込んできた。
指、甲、すね、ひざ、もも。どの部分を打たれても機動力を削がれるのは命取りになる。
たとえ打撃を受けなくとも、進もうとする足もとに棒を突き出されるのはそれだけでも充分リスクだ。
琥珀の言葉どおり、当たりはしなかったが、出足をけん制するという役目はきっちり果たしていると言える。
さてどうするか。
前に出る足を狙ってくるというのなら、こちらにも取れる手はあると考えた龍星は木刀の先端を左斜め下に向けるようにして両手で構える。
天久愛流の型の中で、防御に向いたヤトの型での始点となる基本の構えをとったまま、下半身の防御と上半身の無防備さをアピールしつつ、相手の動きに即応できるように、ゆっくりと慎重に前へと出る。
龍星の構えに対し、瑠璃は木刀で守られた足もとを狙おうとせず、持ち手と半身をスイッチさせると、棍を上段から龍星の右上半身を狙って斜めに振り下ろしてきた。
予測していたパターンのうちのひとつである棍の軌道に即座に反応して、割り込むように右前へと力強く踏み込むのと同時に、木刀を右上に振り上げて瑠璃の棍を大きく跳ね上げる。
鈍い音とともに手元にしびれるような衝撃が伝わってくるが、これは想定内で木刀を取り落とすほどのものではない。
瑠璃も同様に棍を落としてはいない。
龍星がここからハレの型へ移行して次の軌跡を描く動きを取ろうとしたとき、彼から見て左奥にあったはずの棍の先端が下段から胴部に迫ってきた。
瑠璃は弾かれた反動を利用して、すかさず棍の反対側を下手から半円を描くように繰り出してきたのだ。
この切り替えにどう対処すべきか。短い時間で目まぐるしくさまざまな考えが脳裏に浮かぶ。
そのまま一撃を受けるのは論外として、木刀を戻し、受けるか、弾くか。だが、こちらが戻す動作よりも相手の打撃のほうが速い。
左手を犠牲にするかたちで受け止めるべきか。勝ち筋が見えていない攻防の中で打撃をもらうのはリスクが大きすぎる。
ならば――。
龍星は瑠璃を中心とした半円の弧を描く素早い足運びで、彼女の側面を抜けて背後に回るように駆ける。その移動のあいだ、体の正面にずっと瑠璃を捉えたままで動く。
瑠璃もその動きを静観することなく、身を翻しながら、下手からの追撃をしてくる。
龍星は彼女への手出しをあきらめ、攻撃をしのぐことだけを考える。
こうなると取れる手立ては――、
龍星は跳びすさるようにして大きく後ろへと下がった。
瑠璃の棍はそれまで彼がいた空間を切り裂くように動き、獲物を捕らえそこなった彼女は慎重に構えなおして少し後ろへと下がり、向かいあう互いの距離は振り出しに戻る形になった。
(弾いても反動を利用して反対側が来る……受け流しや避けにも対応してくるだろうから……どう動くべきか)
予測をしていなかった棍の動きに、出方はより慎重になる。
剣と剣同士での戦いと比べて様相がここまで変わるとは思ってもいなかった。
攻めるにしても受けるにしても、いままでの経験をフル活用しても有効的な動きを計算できない。
攻めを貫くべきか、守りに徹するべきか。
龍星が次の手を決めかねていると、
「仕掛けて来ないのなら、こちらから行きますわよ」
宣言するや否や、瑠璃が動いた。
今回、彼女がとった戦法は振り下ろしによる打撃ではなかった。
鋭くも軽い踏み込みで距離を少しだけ詰めるのと同時に、素早い打突が繰り出される。
木刀で防御を試みると、互いの武器が触れた矢先に棍の先端は瑠璃のほうへと戻り、龍星の防御の行く先を翻弄するように上中下、左右と変幻自在に突きを繰り出してくる。
添えているだけに見えた右手は、棍を突き出す方向のガイド兼、棍を前後にスライドさせる際のカタパルトの役目を果たしていた。
自在に繰り出される攻撃ではあるが、いなすこと自体は難度は高いものの不可能ではなかった。
どうにか瑠璃の打突の速度についていけるようになり、棍の先端を刀身で反らせるになったものの、
(防げることは防げるけど、後手に回るカタチなんでよくないな)
反撃に移るタイミングを計りつつ、立ち回る。
点の打突と線の防御。
お互いが呼吸とリズムを合わせるダンスのように、小気味よい打ち合いが続く。
そして――、龍星がリズムに慣れた頃合いを見計らったかのように、打突と防御が触れあうはずの一瞬、瑠璃が木刀の手前で棍を止めた。
(フェイント……!?)
龍星の防御を透かしたのち、瑠璃が棍を突き出す。
まんまとひっかかる形になったが、反応しきれないわけではない。
一度寸止めした打突はそれほどの速さを持ってはいなかった。
だが――、龍星が防ごうとした瞬間を見切って、瑠璃が棍を両手で握り込み、打ち振るかたちで木刀を強く弾いた。
予測と威力、双方がこれまでと違う強烈な一撃に龍星の防御たる線が大きく揺らぐ。
さらに木刀の刀身に沿うように滑った瑠璃の棍が、龍星の握り手を強く打つ。
柄のない木刀の形状ゆえの弱点を見事に突いた一撃だった。
苛烈な痛打だったが、龍星はどうにか木刀を取り落とすことなく握り続ける。
スズノ、琥珀の両名による『そこまで』の声がないので、龍星は『肉を切らせて骨を断つ』とばかりに反撃に移ろうとしたが、それよりも先にがら空きになっていた龍星の左肩口を瑠璃の打突がとらえた。
加えてインパクトの瞬間、瑠璃が手の中で棍をひねり、ぐいと押し込む。
螺旋模様がぐるりと動いて棍がそのまま食い込んでいく錯覚を周囲に与えた。
ねじられ貫くような痛みが走り、龍星は思わず後退する。
それを見逃す瑠璃ではなく、ますます踏み込むようにして、今度は龍星の右肩へ打突を加え、流れるように棍の逆側で彼の左ひざを打つ。
連発される攻撃に、龍星は炎天を手にしたまま倒れずにいるのが精一杯だった。
瑠璃の攻撃が連続するのを見て、
「一撃入ったら終わりじゃないの……?」
ギャラリーから声が上がるが、
瑠璃は視線をそちらへ向けることなく、
「鶴来さまが一撃を入れたら勝ちとは申しあげましたが、ワタクシが一撃を入れたら終わりとはひと言も申しておりませんわよ」
嗜虐的な笑みを浮かべながらさらなる追撃をする。
「うわ……えぐっ……」
泉や市子の顔色が青ざめる。
痛みによって動きは鈍くなっているものの、龍星は必死で防御を試みる。
追撃の威力は押さえ込んで致命的な痛手を受けずにすんではいるが、ここからの逆転への糸口が見つからない。
不利という言葉以外当てはまらない状況だった。
攻防が続くなか、突然、瑠璃が攻撃の手を止め、大きく後ろに下がった。
こちらの息は上がっているというのに、瑠璃のほうは平然としている。
「こう一方的では勝負、いえ試験になりませんわね」
瑠璃が冷たい声で言い放つ。
だが失望したような口調ではなかった。
その瞳には(まだまだ奥の手、切り札を隠し持っているのでしょう?)と期待の光が見えていた。
それは審判役の琥珀もスズノも同様だった。
ふたりも瑠璃と同じように心配や不信のような感情ではなく、龍星の活躍を嘱望する視線で事の次第を見守っていた。
龍星は息を整えながら思考する。
微々たる速度ではあるが、神力を持つ衣装のおかげで体力が回復していくのが分かる。
各所の痛みはじんじんと残るものの、思考と動きを妨げるようなものではない。
ただ瑠璃の言葉どおり、ここまで一方的な攻防をどう覆すか。
どうすれば相手の動き、リーチに対抗できるか。
勝利につながるパターンをいくつかイメージし、それに体が答えうると判断した龍星は大きく深呼吸をすると、炎天の姿を木刀から番傘へと変えた。




