第十五話
真っ暗な空間で、彼は自分の意識がちゃんと働いているのを感じた。
“もしも世界が創れるなら、どんな世界が良い?”
“ファンタジーみたいな世界がいい”
彼が最初にそう答えたのは、もうかなり前のように思う。
――――ファンタジーを考えた人は、何でこんな世界を頭の中で創れたのだろう?
図書館の本を画面で閲覧しては、いつも感心して読むのに夢中になっていた。
「この世界も、この本の挿し絵みたいな景色だといいのに…………」
教室の窓の外には、大小のビルが建ち並ぶ都会的な景色が広がっている。
子供の頃に本と窓の景色を比べては、何度もガッカリした記憶がある。その度にこうも言われた。
『もしかしたら、世界のどこかには同じ景色があるかもしれないよ。私もいつかはそれを見てみたいな』
「オレも一緒に見たい!」
『うん。一緒に見ましょうね』
優しい笑顔を浮かべて頭を撫でてくれた。
だから、彼はファンタジーの話をするのが好きになり、外の世界にも憧れるようになった。
窓に映った世界が偽物だと解ってからは、外の世界に希望や憧れを持つことが無くなった。
しかし、本心を言えばやはり外へ出たいと思っている。
「外に、出たい。外の世界にみんなが居るなら、オレの方から会いに行きたい……」
――――死んだらここを出られるなら…………いや、その後がわからない。
本当はずっと前から、彼は自分が死ぬまでここから出られないのを悟っていた。だが、死んだ後に自分がどうなるのかは、調べた限りはわからない。
――――死んだら身体は無くなるけど、オレはどうなるのだろう?
空想では『魂』や『生まれ変わり』などの物語が綴られていたが、それもやはり“誰かの頭の中の世界”であることも理解していた。
――――『子守り』も『聖女』も『賢者』、『親友』や『同僚』『家政婦』も…………この世界の何処かにいるなら、オレが絶対に捜すから…………外に出たい。
「…………あ、そうか……だから“不適合”に」
この時、彼は政府が何故『子守り』たちを“不適合”にしたのか、何かが頭にストンと収まったように理解した。
彼女たちはみんな、彼の感情に応える者たちだった。
『聖女』や『賢者』は好奇心を満たし
『親友』は真実を教え
『同僚』たちとは楽しさを分け合けあい
『子守り』は…………
そんな心地好い“感情”は、この『生活空間』の人間には要らないものだった。
知ってしまえば『生活空間』での暮らしが、酷くつまらないものになってしまうからだ。
“嘘の世界で平凡に死ぬのと、真実の世界で絶望して死ぬの、どっちがマシだ?”
そんなことは決められない。
どちらにしても死ぬ。
――――でも、死ぬ前にせめて……
…………………………
………………
ポタ……ポタ……
身体に冷たい水が当たる。
さっきまで物凄い暑さで倒れたはずなのに、今は凍えるくらいに冷たい。
「あれ…………水…………?」
薄く目を開けると、部屋が水浸しになっている。
どうやらスプリンクラーが働いて、天井からシャワーになって部屋をまんべんなく濡らしたようだ。
――――なんで? この部屋はもう、非常用の電源も入らなくなったのに…………
ポタ……ポタ……
倒れている彼の顔に、シャワーとは違う水滴が落ちてくる。
少し視線を上に向けると、誰かが自分の頭を膝に乗せる形で上から顔を覗き込んでいた。
「………………あ…………」
その正体を知って、彼は思わず声をあげる。
「…………『子守り』……?」
『ーーーー…………』
声は聞こえないが、間違いなく『子守り』だった。
しかし、彼女はいつもとは違う。
ふわふわの金髪は濡れて水が滴り、色白の肌は白を通り越して蒼白になっていた。
そして何よりも、いつも笑顔だった『子守り』がボロボロ涙を零して泣いているのを彼は初めて見たのだ。
――――怒ったり困ったりすることもあったけど、笑っている方が多かった。これが彼女の泣き顔なんだ……。
彼は腕を上げようとする。身体が冷たいせいか手は鉛のように重かったが、なんとか腕を伸ばして『子守り』の頬に手のひらで触れた。
「良かった……もう、逢えないのかと…………」
『…………ーーー、……ーー……』
彼の言葉に懸命に何かを言っているが、『子守り』の声は聞こえなかった。微かに聴こえたのは、まるで流す音が無いラジオのようにサーサーとかすれたノイズだけだ。
それでも、彼は『子守り』に向かって話を続ける。
「誕生日……ケーキありがとう……あと……ぬいぐるみも…………」
二つの猫のぬいぐるみは濡れてぐしゃぐしゃになっていたが、『子守り』と彼の傍に置いてあった。
「……『子守り』がいなく……なってから、ずっと、逢いたくて……少しは頑張って……たんだけど…………」
苦手なゲームをしたり、試験で良い成績を取ろうと必死だったり、彼が持っていたのは『子守り』に逢えるかもしれないという希望だけ。
「……逢いに行けなくて…………ごめん…………」
『ーーー……!』
『子守り』は彼の手を握ってふるふると首を振った。ますます悲しそうな泣き顔は濃くなっていく。
――――どうしよう……もう『子守り』が泣いているのを見るのは嫌だ…………何の話をすればいい……?
必死に考えてもわからなくなっている。
「外…………『子守り』と一緒に……行けるなら………………世界は…………?」
“ファンタジーみたいな世界がいい”
彼がそう言ったのは『世界がそうなればいい』という意味ではない。
――――もしも世界を創れるのなら…………いや、創ったとしても…………
「『子守り』が、いない世界は……嫌だ……」
『…………………………』
「……ファンタジーでも……都会でも……砂漠でも…………」
彼は笑おうと思ったが、寒さのせいかうまく笑えない。
「どこに……いても『子守り』が、一緒に笑って……る……世界が、いい…………」
『ーーーーー……!!』
『子守り』の頬に触れていた手がずるりと下がる。もう腕が重くて上げていられなかった。身体がダルくなって、目蓋が下がりそうになる。
――――ダメだ、眠い。せっかく逢えたのに、寝落ちなんて…………
ふと、子供の頃に髪の毛を乾かさないで寝ようとして、『子守り』に注意されたことを思い出した。
――――濡れたまま寝たら風邪を引くって…………怒られるかもしれないけど。
「ごめ…………眠…………少しだけ……」
どうしても眠くて『子守り』に言う。
すると、彼の肩にポン、ポン、とリズムを刻むような振動を感じた。もう片方の手は彼の頭を撫でている。
『ーーー、ーーー…………ーーー……』
声は聴こえないが、彼女の口が微かに動いていた。どうやら、昔よく歌ってくれた子守り歌の動きだ。
『ーーー…………ーーー、ーーー』
「……………………」
歌っている彼女の口元は微笑んでいる。
子守り歌を口ずさむ時の笑顔は、あの頃から何も変わらなかった。
――――『子守り』から見たら、オレはまだ子供なんだろうなぁ。
『ーーー、ーー、ーーー…………』
「…………ありが、とう」
ぽつりと礼を言って、彼は静かに眠りに落ちていく。
『ーーー、ーー……………………』
しばらくすると彼女は歌うのをやめ、彼の頭や顔をそっと撫でた。
ポタ…………ポタ…………ポ…………
徐々にスプリンクラーの水が少なくなって、
――――――ビシィッ……!!
部屋の壁や床、天井やガラスに大きな亀裂が走った。
…………………………
………………
《惑星浄化計画 地上50%完了 海域20%完了 アト 480時間後ニ 残存シテイル“汚染物質”ノ 完全消滅作戦 ヲ 行イマス》
その声は、地上のどこからともなく響いてきた。