現世と幽世 ~魔なるモノ~
月明かりとロウソクの明かりが頼りの世界で、カチューシャの絶叫が聞こえた時――私は鳴海刑事達の間をすり抜けて『それ』にめがけて突進していた。
――軍用ジャケットのポケットから、あらかじめ持ってきていた呪符を取り出す。これがどれぐらい効くかは不明だが、やるしかない。
『オオオォォオオッ!!!』
諸魔族疫神消滅――この世に顕現するすべての邪悪な存在を滅する、一般的かつオールマイティな呪符だ。
しかし、その呪符によって発せられた霊気が直撃する瞬間、魔なるモノは向きを変えてリビングに逃げていった。その姿は非常に不定形であり、闇に漂う外套のようだ。
「追うぞっ!」
鬼島警部のその声に、私は咄嗟に待つように叫ぶが、他の皆は一斉にリビングに向かってしまう――私は不安な心を押し殺して、鬼島警部達を追ってリビングに向かうと、リビングでは鬼島警部達がロウソクの火が灯る燭台を片手に周囲を警戒していた。
私も彼女達と同じように周囲を警戒しながら、カチューシャに何か見つかったかと質問した。
「いえ、まだ何も。気配さえしないわ。でも、魔力残滓が濃く漂っているから、ここで姿を消したのは間違いないわね」
魔力残滓……カチューシャのような西洋の魔女達の言葉で、魔物にとっての指紋のようなものだが、それが濃く漂っているということは、先ほどまでこのリビングにこの世のものではない存在がいたという事実を物語っている。私はそれを感知することは出来ないが、もし奴がこの世に姿を現せば、その気配を察知して対処することは可能だ。
そのままリビングで警戒を続けるが、一向に魔なるモノは姿を現さない。カチューシャが先ほどから微動だにしていないことから考えて、すでにこの世から去ってしまったのだろうか?
……いや、そんなはずはない。まだ儀式は続行中だ。それによって呼び出された存在が、儀式の完遂を待たずしてこの世を去るはずがない。だとすれば、おそらくこちらがスキを見せるのをジッと窺っているのだろう。
私はそのことを、周囲を警戒しながら皆に話した。
「……だとしたら、いったん手分けして捜索するか?」鬼島警部が静かに言葉を発する。
「危険ですが……僕は鬼島警部の意見に賛成です」
「自分も、先輩と同意見であります」
「そうね……私とファングは、危なくなればなんとかすればいいし……」
とりあえず、皆は手分けして家中を捜索することに賛成らしい。鳴海刑事の言うように、それは魔なるモノの策略にはまることを意味する危険な選択だが、このままジリジリと無意味な時間を過ごしてもしょうがない。
私は二手のグループに分かれて捜索を開始することを告げたが、そこで一つ気になることがあった。明かりだ。
一応、説明書に書かれている通りに事態を進めているが、わざわざこの暗闇の中でロウソクの明かりを頼りにする必要があるのだろうか?
もしかしたら、あの説明書が書かれた当時はカチューシャが言ったように電気などのインフラが整っておらず、必然的に暗闇の中でロウソクの明かりを頼りに儀式をやらざるを得なかったのかもしれない。しかし、今は現代だ。電気というエネルギーに支えられて、この家では電球があるところならばどこでも明るく照らすことができる。やってみる価値はあるはずだ。
「どうしたの、ファング?」
疑問の声を投げかけるカチューシャをしり目に、私はリビングの電灯を点けるためのスイッチの前に行き、そのスイッチを押した。
……だが、明かりが点くことはなく、私がスイッチを押すカチッカチッという音だけがむなしく響き渡るだけだった。
「電気が点かないの?」
私がカチューシャの言葉に肯定の返事をすると、ロウソクの明かりに照らされて鬼島警部が頭をポリポリと掻いた。
「……これも、奴の仕業ってことか? こんなタイミングよく停電になるわけねぇだろ」
「おそらく、そうでしょうね……」
鳴海刑事の言葉が、暗闇の中で重みを増していく……電気が点かない――そのこと自体が、魔なるモノの悪意をハッキリと感じられるような気がした。
私は気を取り直して、自分と鬼島警部とカチューシャ、鳴海刑事と大倉刑事で班を作って手分けして捜索することを告げた。我々は事件が起きた一階、鳴海刑事達は私室やベランダなどがある二階を担当する。
そのまま、リビングの隣にある和室や台所、風呂場やトイレなど、目に見える範囲をザッと捜索するが、魔なるモノは姿を現さない。それどころか、痕跡一つ見当たらない。一応、各場所を捜索する際にカチューシャに何かあるか訊ねるが、彼女はどの場所でも意識を集中させては『何もない』とだけ伝えてきた。
魔なるモノが姿を見せない以上、奴を捕縛することも滅することもできない……どうしたものか……そう思っていた矢先――。
「うわぁあああっ!!」
「なんだっ!?」
二階から響いてきた、大倉刑事の野太い悲鳴――気づいたら、我々は二階へと上がる階段のある廊下まで走っていた。
「ハァハァッ!!」
ドタドタと階段を踏み鳴らして、二階から鳴海刑事と大倉刑事が降りてくる。暗闇のせいでハッキリとは見えないが、二人の顔はその手に持つロウソクの明かりに照らされて恐怖の表情を浮かべて汗だくだった。
「どうしたっ!? 何があった!?」
廊下の床に、両手をついて疲労困憊な様子の二人に対して、鬼島警部が膝をついて説明を求める。その間も、カチューシャは二階を見上げながら戦闘態勢を崩さないでいた。
「ゆ、ゆゆ、幽霊でありますっ! 幽霊が出たでありますっ!」
やっとの思いで、大倉刑事はそう叫んだ。
「幽霊っ!?」
大倉刑事の口から出てきた言葉を、思わず鬼島警部は復唱する。幽霊……魔なるモノではなかったのだろうか?
念のため、鳴海刑事にも確認をとってみる。
「は、はい……確かに、あれは幽霊だったと思います。それも、怨霊とか、そういう類の……」
私は鳴海刑事に、魔なるモノは見なかったかと質問した。
「いえ、そのようなものはまったく……最初に大倉さんが気分を悪くして、僕が彼の背中をさすっていたら窓の方にフワッと影が見えて……それで、見る見るうちにその影が人の姿をして、気付いたら血まみれの人達が部屋の中にいたんです」
……まだ混乱しているのだろうか、鳴海刑事をもってしてもいまいち状況が把握できない。とりあえず、魔なるモノが姿を見せたわけではないらしい。
迂闊だった……二階はまだちゃんと事前に調査してはいなかった。あらかじめ調査をしていれば、今回の二人に起きた出来事について何か兆候のようなものが発見できたかもしれないのに……。
「おい、神牙。どうする? 様子を見てくるか?」
鬼島警部の言葉に、思考の世界を離れて現実に戻る。彼女は、二階を指差して私にそう聞いてきた。
どうしたものか……私としては様子を見に行きたいが、その間に魔なるモノや鳴海刑事達の言う怨霊が出てきたら、戦力が分散された状態で対峙することになる。こうして二人に被害が出た以上、もうそのような行動は避けたい。
そこで私は、全員で行動することと、一度二階を重点的に捜索することを提案した。
「ぼ、僕はそれでいいと思います。さすがに、もういないでしょうし……神牙さんやカチューシャさんがいれば安心でしょうから」
鳴海刑事の言葉に、ハッと気づいた。はじめから、二つの班に私とカチューシャを分けていれば、こんなことにはならなかったかもしれない……もしかすると、この思考の不足も魔なるモノの仕業だろうか?
自意識過剰かもしれないが、状況が状況なだけに、そう思えてならない。
とにかく、他の二人も賛成の返事をするので、私達はカチューシャを先頭に二階の捜索に乗り出した。
大倉刑事を中心にギシギシと音を立てる階段を上りきると、一階と同じような廊下があり、三つの扉があった。事前の調査では、この三部屋はそれぞれ島谷明美と両親の自室、もう一つは空き部屋になっているらしい。
「順番に見ていこうぜ」
鬼島警部の言葉に、私も含めて全員が賛成した。
初めに、我々から見て右側にある島谷夫婦の自室を捜索するが、これといって怪しい点は見つからなかった。カチューシャも、特に反応はない。続いて島谷明美の部屋も捜索するが、こちらも同様だった。
しかし、残り一つとなった空き部屋の扉を鬼島警部が開けようとした瞬間――彼女は見えざる力によって吹き飛ばされ、その身を壁にしたたかに打ち付けた。
「ぐっ!?」
「警部っ!?」
慌てた様子の鳴海刑事が、廊下に倒れ込む鬼島警部に駆け寄って介抱する。その隣では、大倉刑事が恐怖の表情を浮かべながらも空き部屋に警戒の視線を向けていた。
私とカチューシャも、倒れる鬼島警部と介抱する鳴海刑事を守るように先頭に立ち、空き部屋に目を向ける――その時、私はハッキリと認識した。
オオォォオオオ……
黒い靄……おぞましい唸り声……明らかにこの世ならざるモノの存在が、ハッキリと両眼を通して認識できた。
その靄の中心で、時折怒りとも苦しみともつかない、なんとも不快な表情をする顔が見える時があるが……今は、その表情から目の前に顕現した存在の心中を推察する時間も精神的余裕もない。
この存在が、これまで幾人もの人間達を苦しめてきた魔なるモノならば、次に奴が何をするか、まったく分からないが、少なくとも我々に危害を加えてくるだろう。ここはすでに、奴の領域なのだ。
「逃げてっ!!」
その存在を認識するのとほぼ同時に、カチューシャがそう叫ぶ。誰かに向かって言ったわけではないだろう。少なくとも、その言葉は今この世にいるすべての人間に対して放たれたものだ。
カチューシャの声を聞いて、魔なるモノを見つめて凍り付いていた大倉刑事は、彼を凍り付かせていた氷塊が一気に破壊されたかのようにその頑強な肉体を動かして、鬼島警部を脇に抱えて階段の方へ走り出した。
その一連の動きを見たのだろう――魔なるモノは黒い靄をたなびかせて、こちらに急接近してきた。
「神牙さんっ!」
私を呼ぶ鳴海刑事の声が上ってきた階段の方から聞こえるが、私はその声に振り向くことなく懐から魑魅魍魎縛封と邪気退散の呪符を取り出し、魔なるモノに投げつけて真言を唱える――同時に、カチューシャも懐から杖を取り出して何事か唱えながら杖を振る。
――瞬間、魔なるモノを中心に一瞬の閃光が走り、魔なるモノは例の唸り声をあげてよろめく。その間も、かの存在を覆う闇の外套は空間を漂っていた。
私はカチューシャに、今のうちに逃げるように言った。
「ええっ!」
彼女は頷き、私は魔なるモノがいる部屋の扉を閉めて、鬼島警部達が走り去った階段をカチューシャと共に駆け下りる。
ひとまず退散を――そう思ったが、一階の廊下に着くとなぜか鳴海刑事達が玄関の前に集まっていた。
「あ、神牙さんっ!」
鳴海刑事はこちらに気付くと、ハッとした表情を浮かべてそう言った。その顔には、焦りの表情が見える。
「大変です、ドアが――ドアが開きませんっ!」
彼のその言葉に、一瞬耳を疑ったが、反射的に玄関の扉に目を向けると、大倉刑事がその巨体から繰り出されるパワーをあらんかぎりに発揮して扉を開けようとしていた。
ところが、現代の家屋によく取り付けられている金属製の扉は、蝶番やドアノブ付近からギシギシと金属音を発するだけでまったく開こうとしない。
魔なるモノ――私の脳裏に、反射的にそのような言葉が思い浮かんだ。ふと後ろを見ると、階段の上では魔なるモノがこちらを睨みつけている。
リビングへ――私はその姿を見て、咄嗟に皆に向かってそう叫んだ。
了解の返事もままならず、私達はそのままリビングまで後退し、ジッと廊下の方に目を向ける。
「うっ……」
「鬼島さん、大丈夫ですかっ!?」
見ると、鬼島警部は意識を取り戻したようだ。ロウソクの明かりだけでは詳細は不明だが、ザッと見た感じでは、重傷を負っているようには見えない。
私は彼女に、まだ事件が終わっていないこと、魔なるモノが現れたこと、そして動けるかどうかを手早く問いただした。
「……ああ、なんとかな」
そう言って、彼女はヨロヨロとしながらも、自分の意志でしっかりと立ち上がる。そのことに、少しばかり安堵していると、私の隣で声が聞こえた。
「ファングッ!」
その声は、カチューシャのものだった。焦りの表情を浮かべる彼女に目を向けると、彼女は廊下の方に視線を向けて戦闘態勢をとっていた。それを見て、私は反射的に廊下に向かって同じような態勢をとる。
「……」
見ると、魔なるモノはすでに廊下の半ばまで迫っており、その向こうは月明かりも届かない漆黒の世界に包まれていた。こちらに迷うことなく近づいてくることから考えても、先ほどから使っている私の呪符やカチューシャの術は、奴にはあまり効いていないように見える。
どうすれば……その時、鬼島警部の声がリビングに響いた。
「塩だっ! とりあえず、塩で結界を作るぞっ!」
『はいっ!』
彼女の言葉に、鳴海刑事と大倉刑事はためらいなく従う。彼らはそのまま台所に向かうので、私とカチューシャも彼らと一緒に台所付近まで同行し、魔なるモノに向かって呪符や術を使う。
「オオォォオオ……っ!!」
呪符から発する青白い閃光や杖から発せられる火炎は、瞬く間に魔なるモノを包み込んでいく。苦しみの表情と声を上げる魔なるモノだが、おそらく気休め程度だろう。
「ありました、塩ですっ!」
鳴海刑事がそう叫んで、二人の刑事がありったけの塩を台所から抱えてくると、私達も再び元居た場所へ後退する。その間もずっと戦闘を続けているが、魔なるモノはこちらに対して反撃することはなかった。だが、私達の術が効果的に効いているようにも見えない。
「よしっ! 円を作るぞっ!」
私とカチューシャが魔なるモノを見張っている間、後ろでは三人がリビングの床いっぱいに塩で円を作る。
「出来たぞ、入れっ!」
塩の線が円を結んだ瞬間、鬼島警部がそう叫んだ。それを聞いて、私とカチューシャは円の中に入る。
「警部、あれ……」
鳴海刑事はそう言いながら、廊下の方を指差す。
見ると、先ほどまでこちらに迫ってきていた魔なるモノは、その歩みを止めてジッとこちらを睨みつけている。
「……どうやら、塩で作った円の中に入ってこれないってのはホントらしいな……」
円の中心で、鬼島警部がそう言った。
その言葉に反応するかのように、魔なるモノは恨めしい表情を浮かべながら、闇に溶け込むようにして消えていった。
「お、終わったのでありましょうか?」
「まだ油断すんな。説明書通りなら、午前0時までここは奴の領域のはずだ」
「それじゃ……このまま時間がくるまで待ちますか?」
「そうね。そうしたほうがいいと思うわ。あいつ……あまりこちらの攻撃が通用していなかったようだし……」
「そうなんでありますかっ!?」
大倉刑事の驚愕の声に、カチューシャは深く頷いた。
「どういう理由なのかは分からないけれど……あたしとファングの二人がかりでそれなりに攻撃しても、怯みはするけれど、傷を負わせることは出来なかったわ」
「傷って……奴は幽霊みたいなもんだろ? 傷なんてつけられんのか?」
「ええ、できるわ」カチューシャは、迷うことなくそう答えた。
「少なくとも、傷つけて滅ぼすことは可能よ。それがあいつにも適用するかどうかは、ちょっと自信がないけど……」
「う~ん、では、いったいどうすれば……」
「残念だけど、今回はこのまま時間が過ぎるのを待って、あの小道具を箱に戻して厳重に封印するしかないわね」
「そんな……それなら、今までと同じじゃないですか」
「そうね……残念だわ」
カチューシャは、心底そう思っているようにため息をつきながらそう言った。
実際、彼女の判断は間違っていないと思う。魔なるモノをどのような方法で滅する分からない以上、その召喚の方法と器具をまとめて箱にしまい、厳重に封印するしかない。
これまで、そのような存在もなかったわけではない……だが、毎度そのような存在に対峙し、似たような手段を使って事件を解決すると、言い知れぬ無力感が襲い掛かってくる。
だが……それまでに犠牲になった人々には申し訳ないが、命を失うよりは、はるかに安い代償だ。
私も、カチューシャと同じ意見であることを、皆に伝えた。
『……』
しばらくの沈黙……その思いは、私には痛いほどよくわかる。やがて、二人の刑事を代表するように鬼島警部が口を開いた。
「ま、しょうがねぇな。こんな仕事してたら、そんなこともあるか」
その言葉が救いとなったのか、鳴海刑事と大倉刑事も大きく頷く。
「そう、ですね……亡くなった方々には申し訳ないですが……」
「押忍……」
ということで、そのまま私達は重苦しい空気を背負いながら魔なるモノのいる領域で時を過ごした。
やがて、時計の針が午後十一時になった頃――事態は急変する。
「むっ!?」
珍しく、鋭敏な感覚を研ぎ澄まして周囲の様子を探る大倉刑事……暗がりには何も見えないが、かすかに水音がする。私は、そのことを彼に聞いてみた。
「うむ。確かに水音がする。しかも、二か所からだ」
「なんだ? 元栓が壊れちまったのか?」
「う~む……見た感じ、古い建物ではないはずなのですが……」
そのまましばらく待っていると水音が変化し、大倉刑事はバッと台所と廊下の奥を交互に指差した。
「あそこでありますっ! 台所の蛇口と風呂場から、水があふれているでありますっ!」
「なにっ!?」
確かに、ロウソクを掲げてよく見てみると、台所の床から水が流れている。水音が変化したのは、台所のシンクが水で満杯になったからだろう。
あふれ出る水――その言葉に、私は戦慄した。
「っ!? 大変ですっ! 塩が溶けてしまいますっ!」
鳴海刑事の言った通り、このままでは午前0時を過ぎる前にあふれ出した水で塩が溶かされて結界が消えてしまう。
「ちっ! しょうがねぇ、止めてくるぜっ!」
そう言って鬼島警部が結界から飛び出した瞬間――私は、反射的に彼女をかばった。
「うおっ!?」
刹那――先ほどまで彼女の胴体があった空間に黒い刃のようなものが走った。幸い、鬼島警部にケガはなかったが、私はその斬撃で左腕に切り傷を負ってしまう。
「神牙っ! 大丈夫かっ!?」
大倉刑事が、私を介抱してくれた。感慨深いが……今は、それどころじゃない。
「こいつ……ずっと近くで見張っていたのね」
カチューシャが、空間に揺らめく影に向かって恨めしそうにそう言った。
どうやら、魔なるモノは今の今まで我々を監視していたらしい。ところが、いつまで経っても我々が動かないので、強硬手段に出たということだろう。
そう言えば、矢島愛が巻き込まれた犯行現場にも似たような状況があった。塩の円……それを溶かすように張られた水溜まり……おそらく、矢島愛達も同じように抵抗して何らかの理由で失敗し、島谷明美は犠牲となって矢島愛だけが生き残ったのだろう。
いずれにせよ、退路も攻略手段も思いつかない。どうすれば……左腕から流れ出る鮮血を気にしながら考える――その横で、大倉刑事が声を上げた。
「誰だっ!?」
魔なるモノに向かって言ったのではないだろう……ならば、いったい誰に……。
「神牙さん、誰かが玄関から入ってきましたっ!!」
鳴海刑事までそう言うので、私はそこで思考するのをやめて玄関の方に目を向けた。
すると、そこには先ほどまで存在していた漆黒の世界は消え去り、代わりにこの家の廊下と玄関が見える。それはある意味当然なのだが、問題はその玄関のところに二つの人影が見えたことだ。
一人の背格好は小さく、おそらく腰が曲がっている。もう一人の方は、その人影よりもさらに小さかった。
一体何者が……そう考えている間も、二つの人影は前方に見える魔なるモノなど気にも留めない様子で、ゆっくりとこちらに向かってくる。
「危険だ、離れろっ!」
鬼島警部がそう叫ぶが、人影は止まらずに我々がいるリビングに向かってくる。廊下を出てリビングに入った頃、魔なるモノはゆっくりと人影の方に振り返った。
「ファングッ! どうするのっ!?」
カチューシャが慌てた様子で聞いてくるが、私にもどうしていいのか分からない……そもそも、あの人影達はなんだ? そう思っていると、玄関がバンッと勢いよく開いた。
「お前らっ! 大丈夫かっ!?」
「おっさん! そこの二人を避難させろっ!」
玄関から現れたのは、本郷警部だった。彼の後ろにも、何人かの捜査員の姿が見える。
「よしっ! 任せろっ!」
本郷警部はそう言って、部下達と共に人影に向かおうとする――だが。
『オオオォォッ!!』
「ぐおっ!?」
「おっさん!」
本郷警部達は、魔なるモノが放つ衝撃波のようなものに吹き飛ばされ、玄関から外へ弾き飛ばされた。直後、玄関の扉は勢いよく閉まった。
「野郎、邪魔する気かっ!」
「ど、どうすればっ!?」
怒号を上げる鬼島警部とうろたえる大倉刑事……対照的な感情を見せる二人の人間の事など気にも留めない様子で、魔なるモノは再びこちらに向き直った。
「あ……な、なぜ……」
直後、鳴海刑事がうろたえる様子を見せる……私は、思わず彼と同じように魔なるモノの方に目を向けた。
「ファング?」
それを見て、私も一瞬思考停止に陥ってしまう……なぜ……なぜ、彼女達がここにいるのだろうか?
二つの人影の正体……それは、矢島愛と矢島タエだった。彼女達の様子は心ここにあらずといった様子で、二人ともしっかりと立ってはいるが、両腕は力なくダランとしている。
「ふ、二人共、ここは危険でありますっ! 早く非難をっ!」
大倉刑事がそう叫んでも、二人はその声などまるで聞こえていないかのようにゆっくりとこちらに近づいてくる……やがて塩の円のすぐそばまで来ると、二人はしゃがみ込んで服や塩をどかし始めた。
「っ!?」
その瞬間、鬼島警部は矢島タエを蹴り飛ばし、矢島愛を片手でもち上げて軽く投げ飛ばす。
「け、警部、何を――」
「見て分かんねぇのかっ!? この状況でアタシ達の呼びかけに反応しないで、服や塩をどかしたんだっ! 奴に操られてるかもしれねぇだろっ!?」
「そ、そんな――」
「いえ、あながち間違いでもないかもしれないわ。見て」
そう言ってカチューシャが指差す先には、ゆっくり立ち上がる二人の姿と、ジッと佇む魔なるモノの姿があった。
「おのれ、卑劣なっ!」
「元々、魔物なんてそんなものよ」
そっけなく言い放ちながら、カチューシャは懐から杖を取り出す。今気づいたが……その杖は、まるでハリー・ポ〇ターに出てくるような形と大きさをしていた。
「眠って」
そう言いながらカチューシャが杖を一振りすると、今まさに立ち上がろうとしていた二人は急に見えざる糸が切れたかのようにバタンと倒れてしまう。
「カ、カチューシャ先生、もう少し穏便に――」
「悪いけど、今はそんな余裕はないと思うわ。見て」
そう言ってまたカチューシャが指差すと、魔なるモノを覆っていた闇の外套が徐々に消えていき、その代わりとばかりに中心は深淵のごとく闇が深まっていった。
やがて、その闇は徐々に実体を持つかのように形を成していき、少し経つと頭は犬、身体は毛皮に覆われた人間の造形に落ち着いた。
狗神……その姿を見て、そのような言葉が頭をよぎる。
「ファング……あれって、日本の魔物よね?」
私はその問いに肯定の返事をした。
「どうすんだ? 眠らせたはいいが、あいつはまだピンピンしてるみたいだぜ?」
ジッと佇む狗神を睨みつけながら、鬼島警部が聞いてくる。
そう言えば、この狗神は実体化したにも関わらずこちらに襲い掛かってこない……やはり、塩の結界は効いているのだろうか? では、なぜ実体化をしたのか……。
『……グオオォォッ!!!』
「うわぁっ!?」
――突然、狗神が突進してきたが、反射的に前蹴りを放って奴を吹き飛ばす……どうやら、実体化してこちらの物理的な攻撃が通じるようだ。
私は懐から軍用ナイフを取り出して構える。その姿を見たのか、大倉刑事がズイッと私の横に立ち並ぶ。
「神牙……奴は物理的な攻撃が通用するのか?」
私は大倉刑事の質問に肯定の返事をした。同時に、奴の牙と爪に気をつけるようにアドバイスする。
「うむ、了解した」
そう言って、大倉刑事は着ているジャケットのボタンを外して構える……物理的な攻撃が通用する相手ならば、彼以上に頼もしい存在はないだろう。
だが、それでも奴がこのタイミングで実体化したことが気になる……見ると、時刻はすでに午後11時五十分になっていた。どうやら、時間が無くて焦っているようだが……一応、気に留めておく。
「神牙っ!」
横で大倉刑事が叫ぶ――見ると、狗神がこちらに突進して今まさに爪で私を引き裂かんとしていた。
私はその攻撃を難なく避け、がら空きとなった脇腹に逆手持ちのナイフを突き立てる。
『オオォォッ!!』
苦痛の叫びをあげる狗神だったが、その顔は途端にひしゃげ、身体は爆発に巻き込まれたかのように勢いよく台所まで吹き飛ぶ――大倉刑事の正拳突きをまともにくらったのだ。
「大丈夫か、神牙っ!?」
私は大倉刑事に無事であることと助けてくれたことに礼を言って、立ち上がろうとする狗神に向かって構えなおす。
『……グルルルッ!1』
狗神は傷ついた全身からあらんばかりの怒りを発してこちらを威嚇してくるが、不思議と怖くはない……大倉刑事のおかげだろうか?
『……グオオォッ!!』
再び、狗神がこちらに襲い掛かってくる――それをきっかけに、リビングは狗神と大倉刑事と私による死闘が繰り広げられた。
狗神の攻撃は単調かつ大振りであり、私は問題なくよけられた。大柄な大倉刑事でも避けられるが、たまにその爪が彼のグレー色のジャケットを裂くことがある。しかし、傷が浅いためか、大倉刑事は問題なさげに対処している。
そして――私は人型の狗神の背後をとった。
『グッ!?』
首に腕を回して、ナイフを横から首筋めがけて差し込む――その瞬間に、狗神の肉の手触りがナイフの柄から伝わってきたが、構わず突き立てられたナイフを前方にヒュッとスライドさせた。
『ググッ!?』
「ぬおおぅっ!?」
途端に、狗神の首筋から大量の鮮血が吹き上がるが、大倉刑事は素っ頓狂な声を出してその鮮血を素早くよける……さすがだ。
私が狗神に加えた一撃……それは、人の姿形をしている者ならば誰でも絶命する、必殺の一撃だった。
狗神はそのまま両膝を折って倒れ込む……気のせいか、その位置は今回の事件で亡くなった島谷明美が倒れていた位置と同じような気がする。
やがて、倒れた狗神の周囲に闇がうごめき、狗神の身体を包み込んでいく……少し経つと、狗神の姿はどこにもなく、血痕も見当たらなかった。
「……やったの?」
カチューシャが静かな声色で聞いてくる……私は、すでに綺麗になったナイフを片手に周囲を警戒しながら、リビングの照明のスイッチのところまで行き、スイッチを押した。
「あっ!」
「お……」
途端に、リビングに照明が点く……なんだか久しぶりにこの明かりを見た気がする。
「うしっ! バケモンは倒したっ! 帰ろうぜっ!」
「そうですね。お二人も早く病院に連れていかないと」
安堵するメンバーをよそに、カチューシャはいまだに周囲を警戒していた。
私がどうかしたのかと訊ねると、彼女は警戒を解かずに口を開く。
「なんていうか……ずいぶんとあっけないなと思って……」
……確かに、それは私も同感だった。自分でやっておいて言うのもなんだが、これまで多くの人命を奪ってきた存在があんなあっけない最後を迎えるとは……だが、今は一刻も早くここを脱出したい。
私がそう言うと、カチューシャは警戒を解いてフッと笑みを浮かべる。
そして、鬼島警部は矢島愛を、大倉刑事は矢島タエを抱き上げて、玄関の扉を開ける。
「あ、お前らっ1」
扉は先ほどまでと打って変わって難なく開き、外には本郷警部達が待ち構えていた。
「どうだった!? 大丈夫かっ!?」
本郷警部は、我々と矢島家の二人を交互に見ながら質問してくる。
「おうよ。万事解決だぜっ!」
鬼島警部がそう言うと、本郷警部はニッと笑みを浮かべる。
「そうか、そうかっ! 解決したかっ! よしっ! 現場、保存してこい!」
「はい」
そう言って、彼は生意気な捜査員に現場保存を命じた。彼は我々の横を通り抜けて、家の中に入る。
「それにしても、今回の儀式とやらは誰が考えたんでしょうね?」
「さあ? もしかして、アイツだったりして?」
「ふ、不吉なことを言わないでほしいでありますっ!」
大倉刑事の言葉を聞いて、その場に笑いが起こる……私の目の前では、そのような微笑ましい光景が広がっていた。
『終わってない……』
だが……その中で、私だけがドクンと心臓をわしづかみにされたような感覚になった。その声、その言葉が私の身体を突き動かす。
「きゃっ!」
――私は反射的にカチューシャを突き飛ばす。
「神牙さんっ!? なにを――」
鳴海刑事がそう叫んだ瞬間、私と生意気な捜査員を家の中に残して、玄関のドアは勢いよく閉まった。
「な、なんです、いったいなにが――」
その事態に驚いた生意気な捜査員の後ろに、不穏な影が見えた。
「うわっ!?」
――私は咄嗟に彼のそばまで駆け寄って、その影に向かって『邪気退散』の呪符を発動する。
影はその呪符が触れた場所から徐々にその闇を薄くしていき、やがて形あるものに変化する。
「な、なんだ、何が起きてるんだ……」
私の後ろでは、生意気な捜査員が腰を抜かしていた……酷な言い方かもしれないが、彼には何も頼れないだろう。私はそう考えて、再びナイフを取り出す。
やがて……影は再び形を成した。
『ググッ……許さん……』
それは、我々が倒したと思っていた狗神だった。奴はこちらに怨念のこもった視線をこれでもかと浴びせかけてくる。どうやら口が利けるようだが……初めからそうだったのだろうか?
チラッと視線を腕時計に向けるが、時刻は午後11時50分……まだ儀式は終わっていなかったのだ。
だが、なぜ今になって姿を見せた? その気になれば、私達がこの家の廊下を歩いている時にでも八つ裂きに出来ただろうに……私はその疑問を、警戒しながら狗神にぶつけた。
「グゥ……お前ら、強い……だが、お前……お前だけは、絶対殺すっ!!」
そう言い放った瞬間、狗神はこちらに突進して爪を突き立てようとしてきた――すんでのところで回避する…どうやら、強さはあまり変わっていないようだ。それどころか、奇襲が失敗して焦っているせいなのか、先ほどよりも攻撃が大振りだ。
いくつかの攻撃を回避しつつ、狗神の身体をナイフで切り裂いていく。
「グゥッ!!」
何回か攻撃していると、たまらなくなったのか狗神はのけぞった。チャンスだ。
私はそのまま狗神にナイフを突き立てようとする――だが。
「……」
狗神は一瞬、ニッと犬歯をむき出しにして笑みを浮かべる――その体に、私のナイフが突き刺さるが、意に介さずに突進してきた。
「うわぁっ!?」
思わず避けてしまい、狗神はそのまま廊下で倒れていた生意気な捜査員めがけて爪を振るう。
最初から、それが目的だったかっ!……そう頭で考えているが、すでに体は狗神を止めるべく動いている。
捜査員の顔面に爪が突き立てられる瞬間――間一髪のところで、狗神は私のタックルによって吹き飛ばされた。
大丈夫かっ!?――そう声をかけるが、生意気な捜査員は声を出す余裕がないのか、コクコクと首を縦に振る。暗がりでハッキリとは分からないが、見た感じではケガはしていないようなので、私は再び狗神に対峙する。
「グゥゥ……」
見ると、狗神はナイフが胸に突き刺さったまま立ち上がろうとしていた。実体化したため、少しはダメージがあるようだが……このままでは埒が明かない。
「グァッ!?」
私は狗神に飛び掛かり、そのまま組み伏せ、懐から一枚の呪符を取り出して真言を唱えた。
「ッ!? アオオォォッ!!」
「うわぁっ!?」
真言を唱えて呪符を放った瞬間、狗神の身体は炎に包まれた。
『瘴物焔滅』……文字通り、悪しき存在を炎をもって滅する技だ。
狗神が私の足元でもがき苦しむなか、私は炎に巻き込まれないようにその場から飛び退く。
「ググゥッ!!」
だが――狗神に手を掴まれた。振りほどこうとするが、狗神は炎に包まれたながらも両手でガシッと私の腕を掴んで離さない。私があらんばかりの力を込めて狗神の両腕を握り返すと、バキバキッという骨の折れる音と感触がするが、狗神は私に凄まじい怨嗟の視線を向けて腕を放そうとしない。
お前も道ずれだ……炎に包まれながらも、私をジッと睨みつけるその両目からは、そのような意思が伝わってきた。
どうしたものか……そう考えていると、突然、狗神の身体は何かに弾き飛ばされたかのように吹き飛ばされる。同時に、両腕の捕縛も解けた。
「無事じゃったか?」
見ると、先ほどまで狗神がいた場所にはタルホがいた。こんな時だというのに、彼女はいつもの着物姿だった……そういえば、私は彼女に応援を頼んだ覚えがある。私は、彼女に礼を言った。
「うむ、よろしい。さて」
そう言って、彼女は炎に包まれながらもなお立ち向かって来ようとする狗神に向かっていった。
「お主も哀れよな……人に生み出され、こき使われ、このような最期を迎えるとは……」
「……」
狗神は、タルホの言葉に答えようとしない。そして、これ以上の抵抗は無駄だと悟ったのか、ジッと立ったまま動かないでいる。
「よろしい。わらわがお主にふさわしい最期をくれてやろう」
そう言ってタルホが狗神に向かって手をかざすと、狗神の背後に巨大な異空間が現れた。紅と黒のコントラストが印象的なその空間に狗神は徐々に吸い込まれていくが、まったく抵抗しようとしない。
「さよならじゃ」
そして、狗神の身体は異空間に彼方に消え、その空間も徐々に消えていく。残ったのは、月明かりに照らされた静寂な世界だけだ。
「……さて、これで良いな?」
タルホが向き直って聞いてくる。私は肯定の返事をした。
「うむ。ではな」
手短くそう言うと、タルホは先ほど見たのと同じような異空間を発現させて、その中に消えていく。空間が消えるのを確認すると、私は廊下に倒れている生意気な捜査員に大丈夫かと声をかけた。
「あ……? あ、ああ……」
どうやら、彼はまだショックを受けているらしい。まぁ、無理もないことだ。
私は彼をなんとか立たせると、そのまま彼と共に玄関の扉を開けた。
「あ、神牙さんっ!」
扉の外では、オモイカネ機関のメンバーと捜査一課の捜査員達が勢ぞろいしていた。
「どうしたっ!? 何があった!?」
本郷警部が、生意気な捜査員と私を交互に見ながらそう聞いてくるので、私はありのままを話した。
「――そんなことが……」
話を聞き終わると、鳴海刑事がそう呟く。
「それで、どうだ? やったのか?」
鬼島警部がそう聞いてくるので、私は親指を立てるポーズをして見せた。それを見て、オモイカネ機関と捜査一課の面々はそれぞれ喜びの声を上げる。
時刻はすでに深夜……はたから見れば近所迷惑な光景だが、私達にとっては陰惨な事件を解決した祝賀行事のようなものだった。