現世と幽世 ~捜査協力~
……相変わらず、今日も今日とて暇である。まぁ、それは世間的には良いことではあるのだが……イイ感じに時間が潰せる仕事が欲しい。
この部署の特徴として、仕事と言えばほぼ間違いなく血生臭いものであることがほとんどだ。ペットの捜索などといった事案は、ほとんどこちらには回ってこない。
そして事件を解決したと思ったら、このように日がな一日パソコンの前でキーボードをカタカタと鳴らす日々である……冗談抜きで、この部署の人員にはセラピーが必要だ。
私がそんなことを考えていると、仕事場――警視庁地下にある資料保管室の扉が勢いよく開かれた。
「た、大変でありますっ!」
「うわっ!?」
扉を勢いよく開けて入ってきた彼――大倉刑事の叫びに、私と同じくデスクワークに精を出していた鳴海刑事は悲鳴を上げ、出入り口にいる大倉刑事に目を向けた。
「お、大倉さん、びっくりさせないでくださいよ……」
「め、面目ないであります、押忍っ!」
彼はそう言ってビシッと敬礼した後、何かを思い出したかのような表情を浮かべてこちらに近づいてきた。
「ですが、これは一大事でありますっ!」
「……何があったんだ?」
大倉刑事の話が気になるのか、昼間だというのに上司である私の目の前で堂々と備品のソファで寝ていた鬼島警部がむくりと起き上がる。
「押忍、警部。大変であります」
大倉刑事は鬼島警部にも挨拶した後、一呼吸おいて話し始めた。
「先程、自分が警視庁に出勤してロビーを通ると、そこでばったり本郷警部にでくわしたであります」
「それで?」
鬼島警部が大倉刑事に話を促すと、彼は彼女の方に目を向けて話を続ける。
「それで自分、警部に挨拶をしたら『ちょっと来い』と言われてロビーの端に連れていかれたであります」
「大倉さん……何かしたんですか?」
「と、とんでもないであります、先輩っ!」
大倉刑事の鳴海刑事の質問にぶんぶんと首を横に振ると、再び話を続けた。
「そこで、警部から頼みごとをされまして……その、事件解決に協力してほしいと……」
「マジかよっ!?」
大倉刑事の言葉に、鬼島警部はすっかり驚いた様子だ。私も同様である。
あの本郷警部が、我々に捜査協力を依頼してくるとは……『その者』だったなら分かるが、彼がそのようなことを言ってくるとは思わなかった。
ついこの間まで、我々と彼ら捜査一課との関係は良好とは言えなかった。それでも、最近の事件の合同捜査なんかで少しは協力的な関係を築けたと思ったのだが、これほどとは……。
「それで、具体的にはどのような要請をしてきたんですか?」
鳴海刑事が促すと、大倉刑事も話を続ける。
「それが、捜査一課は今朝早くに事件発生の知らせを受けて出動したそうなのですが、事件現場がどうも妙な状況らしく……一度、警視庁の方に戻ってきて、そこで自分と会ったとのことです。それで本郷警部は、とにかく我々に来てほしいとのことであります」
「妙って……捜査一課は殺人とかが専門だろ? 何が妙なんだ?」
「さぁ、自分もそこまでは……本郷警部は事件現場の住所を自分に知らせた後、他の捜査員達と一緒に再び現場に向かっていきました」
「う~ん……」
大倉刑事の言葉に、鳴海刑事が唸る。私も、内心頭を悩ませていた。警視庁捜査一課の捜査能力は伊達ではない。その能力は、世界でも指折りのものがある。
そんな捜査一課の課長である本郷警部からの、直々の捜査依頼……絶対に厄介な案件に決まっている……決まっているのだが……。
そこまで考えて、目の前にあるパソコンの画面に目を移す……この調子では、今日も報告書の作成を中心としたデスクワークに忙殺されるだろう。天秤にかけるのは不謹慎だが……私は事件の方を選ぶ。
そこで私は、大倉刑事に事件現場に案内するように言って席を立った。
「うむ、承知したっ!」
彼は初めからやる気だったのか、意気揚々と部屋を後にする。
「……いったい、何があったんでしょうね?」
「さぁな。ま、行ってみりゃ分かると思うぜ?」
私の後ろでは、もはや手慣れた様子で出動の準備を整える二人の刑事の姿があった。
※
我々が本郷警部から捜査協力を依頼されてから数十分後――我々を乗せた大倉刑事の自家用車は、一軒の家の前で停止した。
見たところ、現場は郊外の閑静な住宅街といった様子で、それほど治安が悪い印象はない。家族内でのトラブルが原因だろうか?
そんなことを考えながら車を降りると、聞きなれた声色を耳にした。
「よう、早かったな」
声のする方に目を向けると、そこには本郷警部の姿があった。取り巻き達は捜査に忙しいのか、今は姿が見当たらない。
「押忍、ただいま臨場したであります」
「いったい、何があったんですか?」
「来な」
そう言って、本郷警部は目の前に見える家の玄関に入っていった。
我々も彼に続いてシューズカバーを履いて家の中に入ると、途端に不快な臭いを感じ取る。
「うぅ……」
大倉刑事は案の定、声を上げてふらついた。私が外で待っているように伝えても、『平気だ』と言って現場を見ようとする。
そのまま本郷警部の後姿を追って家のリビングに入ると、臭いの原因が姿を現した。
「……ひでぇな、こりゃ」
「だろ? ここまでのは、俺もなかなかお目にかかったことがねぇ」
鬼島警部と本郷警部がそのような会話を交わす中心――我々の目の前には、全身血まみれの少女の遺体が横たわっていた。少女だと分かったのは、鮮血に濡れた肢体が幼かったのと、その長髪のためだ。
ふと後ろを向くと、遺体をじっと見つめる鳴海刑事と壁によりかかって目をそらす大倉刑事の姿があった。私は再度大倉刑事に、無理なら退出するよう促して、改めて遺体に目を向けた。
遺体をよく観察すると、全身に無数の切り傷や掻き傷、なかには抉ったような傷跡が見えるが、どれが致命傷なのかはいまいち判別できなかった。
私は近くにいた本郷警部に、被害者の直接の死因を尋ねた。
「俺達もまだ詳しく知らないんだが、検視官によるとここ……首を切り裂いたことによる失血死だそうだ。まぁ、その検視官も頭の傷から判断して脳挫傷かもしれないって保険掛けてたがな。それと、死亡推定時刻は昨日の午後九時から十一時の間らしい」
本郷警部からそのように聞かされて、遺体の首筋と頭を見るが、確かにどちらも致命傷のように見える。首からはおびただしい量の出血が確認できるし、頭部は赤黒い血にまみれて形が変わっていた。となると、詳しい死因は監察医に任せるとして……ひとまず、我々は現場を徹底的に捜査するべきだろう。その場にいる全員にそのことを告げた。
「まぁ、ウチがあらかた見て回った後だが、構わんぜ」
私は鳴海刑事に、大倉刑事と一緒になるべく血の臭いがしないエリアを捜査するように命じて、鬼島警部と共に遺体のあるリビングを中心に捜査することにした。
そうしてしばらく捜査をするのだが、ざっと見た限りではこの現場はかなりひどいとしか言いようがない。家具という家具は倒され、ところどころ壁が壊されている。だが――。
「なぁ神牙……この現場、おかしくねぇか?」
私は鬼島警部の意見に同意した。
被害者が亡くなったのが、午後九時から十一時の間……その時間であれば、この辺りの住人達は寝静まっているか、起きていても家の外は静かなはずだ。これだけ部屋の中が荒らされていれば、当然その物音はかなり大きなものになるだろう。一人ぐらい、近所の誰かがその時刻に通報してもおかしくはないはずなのだが、我々や捜査一課は夜が明けてからこの現場にいる……私がこの意見を述べると、本郷警部が口を開く。
「アンタもそう思うか? 俺も、ずっとそこが引っかかっててな……実際、事件の通報はこの家の固定電話から来たんだ。しかも、今日の朝六時にな。第一発見者ならびに通報者は、この仏さんの友人である少女だ」
「少女? どういうことだ? 学校に行くところで友達の家に迎えに来て、そのまま遺体を発見したってことか?」
「俺達もまだ詳しくは聴取出来てねぇが……状況から考えて、その通報者である少女は事件が起きた時にはこの家にいたようだ」
「……は?」
鬼島警部が、あからさまに首をかしげている。私も、本郷警部に対していくつか質問しようとしたが、彼は構わずに続ける。
「それに、これを見てくれ」
本郷警部は、しゃがんで床を指差す。私達も、同じような姿勢になって床を見つめた。
「これは……塩か? それと、水にロウソク?」
「ああ、そうだ」本郷警部は深く頷く。
私達の目の前には、大人が数人入れそうな大きな円を描くように盛られた塩と、その周囲に撒かれている水だ。水は円を囲うように撒かれており、塩で出来た円の外縁部は水に溶けている。ロウソクは、円の中心で火が消えたまま放置されていた。
「コレもよくわかんねぇんだが、問題は――」
「あ、すいません」
その時、玄関の方から鳴海刑事が姿を見せた。
私がどうかしたのかと尋ねると、彼は玄関の方を指差して口を開く。
「玄関に妙なモノが貼ってあるんです。ちょっと見てもらえませんか?」
私はその言葉を了承し、鬼島警部にこの場を任せて玄関の方に向かった。玄関には、すでに大倉刑事がいたが、彼はこちらの姿に気付くと玄関のドアを指差した。
「これなんだが……なんだか分かるか?」
彼にそう言われて、改めて玄関のドアに目を向けると、内側の中央――ちょうど子供の背丈と同じくらいの高さに、一枚の和紙が貼られていた。
その和紙には、上から順に『島谷明美 小倉裕子 矢島愛』と書かれており、名前の横にはそれぞれ血のような赤いシミがあった。
「それが、俺達も気になっている点だ」
和紙の前で思考していると、後ろから本郷警部の声が聞こえた。
「ちなみに、島谷明美ってのは今回の被害者で、小倉裕子は現在は行方不明、矢島愛は病院にいる。三人とも小学校四年の同級生で、この家は島谷明美の実家だ。
さらに、さっき言った事件の通報者は、現在病院に入院している矢島愛だ。最初に現場に到着した警官の話では、玄関から入るとこの家のすべての照明に明かりが点いていたそうで、矢島愛はすでに亡くなっている島谷明美の横で、ロウソク片手に全身血まみれになって震えていたそうだ」
「そ、その子もケガをしたでありますか?」
『血まみれ』というワードに脳内の警報が作動したのだろう。大倉刑事は途端に顔色を悪くして本郷警部に訊ねた。
「いや、矢島愛自身はほとんど軽いケガしかしてなかった。状況から考えて、殺された小倉裕子の血だろうな」
「あるいは、その子が小倉裕子を殺したか……」
「なっ!? そんなっ!?」
鬼島警部の言葉に鳴海刑事が反応するが、本郷警部はどこか納得していない様子だった。
「どうだろうな……まぁ、捜査していけば、いずれハッキリするだろうよ」
私は本郷警部に、病院にいる矢島愛と面会できるか尋ねた。
「ああ。今は神明大学附属病院にいる。連絡しておくから、会いたきゃ行って来いよ。俺もここをあらかた片付けたら行く」
私は本郷警部に礼を言って、メンバー達を伴って病院へ向かうことにした。
※
「それにしても本郷のおっさん、ずいぶんと丸くなったなぁ…」
「あ。それ、僕も思いました」
「確かに……と言っても、自分はそれほど付き合いはないでありますが……」
病院へ向かう道中――車内はそんな話で持ち切りだった。確かに、私も本郷警部の性格の変化には驚いているが、本人のいないところでそのようなことを言うのは気が引ける。
私はみんなに、本郷警部の性格が変わったのは、『欲しいモノ』事件を解決してからだと伝えた。
「ああ、なるほど。だから僕達に優しくしてくれるんですね」
「だろうな。手柄はあっちの方にいったわけだしよ」
「自分としては、本郷警部が優しくなってくれるのはありがたいでありますよ」
そんなことを話していると、いつの間にか私達を乗せた車は病院の前にやってきた。
私達は駐車場に車を停めて降り、病院の受付に向かうが、病院のロビーに足を踏み入れた瞬間、『あっ!』っという聞き覚えのある声に思わず足を止めた。
「お、お前はっ!」
「ご苦労様ですっ!」
そこには、鬼島警部の声に敬礼で返す、例の捜査一課の協力的な捜査員の姿が見えた。だが、隣ではキッチリとスーツを着込んだ若者が、彼とは違ってぶっきらぼうな様子でこちらに視線を投げかけている。
「先輩、こちらは?」
「ああ、この方達が、俺が話した捜査五課の皆さんだ」
彼は、捜査五課が当然この世に存在するものという調子で私達を紹介した……まぁ、捜査五課があるかどうかは別として、私達はこの世に存在する。それならば、そのように紹介されても問題ないのだろう。
「はぁ、そうですか」
だが若者は、協力的な捜査員とは違って明らかに不審な視線を私達に投げかけてくる。
「コラッ! そんな不敬な視線を向ける奴があるかっ!」
「お言葉ですが、警視庁には捜査課は四課しかなく――」
私は若者の言葉を遮って、捜査員にこの病院に今回の事件の被害者がいるはずだから面会したいと告げた。当然、この若者への牽制として、本郷警部からの了解を得ていることを告げる。
「あ、もちろん。存じております。どうぞこちらへ」
「……」
そう言ってイキイキと我々を案内してくれる協力的な捜査員と違って、若者の方は自分の言葉を遮られたことに苛立っているのか、あるいは自分の上司の名前を出されて一応はこちらを味方だと思っているのか……いずれにせよ、私達に対してとげとげしい態度や視線を崩そうとはしない。
病院の二階に移動して少し廊下を進むと、このフロアの中央辺りの病室に二人の警察官が立っていた。彼らはこちらの姿に気付くと、敬礼してくる。
「どうぞ、こちらです」
そう言って、捜査員はスライド式のドアをゆっくりと開けて我々に入室を促す。彼のお言葉に甘えて、私達は病室に入る。
どうやらこの部屋は個室のようで、部屋の中には一つのベッドを取り囲むようにして棚やテーブル、イスなどの日用品や、入院に伴う医療機材が配置されていた。
その中心――ベッドの上では、一人の少女が窓の方を向いている。
そして……彼女の纏っている雰囲気を感じた瞬間――私は、この事件が怪異によるものと確信した。
彼女が纏っている雰囲気――オーラと言ってもいいかもしれないが、あれは、この世ならざるモノと対峙して生き残った者のそれに近い。というか、まさにそのものだ。
だとすれば、タイミングを見て『その者』にも連絡をしたほうがいいだろう。今回の事件は、大倉刑事がロビーにいた時、たまたま本郷警部とバッティングして介入したものだ。
だが……今考えたが、『その者』はこの件をすでに把握しているのではないだろうか?
今回の事件……現場や目の前の少女の件もあって、怪異が絡んだものによる可能性が高い。であれば、『組織』や『その者』が把握していないわけではなかろう。奴らの諜報能力は、その規模もあって大国のそれよりも遥かに強力なものだ。ましてや、対象が怪異であるならば、その能力はこの世では間違いなくトップだろう。
もし、奴らがこのことを把握している状態であえて私達になんの連絡もしてこないならば……私達は、相変わらず奴らの手の平で踊る人形を演じているわけだ。実に腹立たしい。
「神牙さん? どうかしましたか?」
……考え事にふけっていると、鳴海刑事が心配そうにこちらの様子を伺っているのが分かった。
私は彼になんでもないとだけ伝えて、改めて少女の方に向き直って彼女に近づく……だが、これだけの人数で近づいても、少女は物怖じ一つしない。ずっと、窓の外に見えるどんよりとした曇り空に意識を向けているようだ。
正直言って、私が何か聞いても、この状態の彼女から何か有益な情報を聞けるとは思えない……ここは、鳴海刑事に任せよう。
ということで、私は鳴海刑事にそのことを伝えた。
「分かりました」
彼はそう言って、少女が身を任せているベッドに近づき、微笑みを浮かべて口を開いた。
「やぁ。僕は鳴海刑事。君は……矢島愛ちゃんだね?」
ベッドにあるネームプレートをチラッと見て、鳴海刑事は少女にそう訊ねた。
「……うん」
少女は窓の方を向きながらそう答えると、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
見たところ、顔には擦り傷以外に目立った外傷はない。一応、彼女も犯人になんらかの危害を加えられたのだろうが、なんとか生き延びたようだ。
「こんにちは。実は、愛ちゃんにいくつか聞きたいことがあるんだけど……いいかな?」
「うん……」
彼女は、ゆっくりと首を縦に振る。意識はしっかりしているようだが、その表情は暗い。慎重な問いかけが重要になってくるだろうが、鳴海刑事ならば問題ないだろう。
「ありがとう。その、つらいことを思い出させてしまうんだけれど……昨日の夜に起きた事を、僕達に聞かせてくれるかな?」
「……」
鳴海刑事は、目の前の少女――矢島愛の心をなるべく傷つけないように質問する……矢島は、少しの間黙ってうつむいた後、ゆっくりとこちらに目を向けた。
「……分からない」
「え?」
それは、私にとって予想外の反応だった。
鳴海刑事も私と同じ気持ちなのだろう。彼はこちらに振り返って、私の指示を仰ぐような視線を送る。そこで私は、矢島に自分の名前が分かるかと質問した。
「うん。矢島愛だよ」矢島は、私の質問に言いよどむことなく答えた。
続いて私は、彼女に昨日の事はどこまでなら覚えているか訊ねた。
「う~んと……明美ちゃん達と一緒に家の中を探検してて……それで……」
そこで、矢島は『う~ん……』と唸ってしまう。どうやら、彼女の事件当日の記憶はここまでのようだ。
私は鬼島警部に矢島の子守りをするように言って、残り二人の刑事と一緒に病室を後にした。
「どうでしたか?」
廊下に出ると早速、協力的な捜査員が目を輝かせながら問いかけてきた。
私は彼に、病室で起きた事をそのまま伝えた。
「そうでしたか……いえ、お気になさらないでください。我々が聴取した時も、そんな感じでしたから」
彼は、なんとも言えない苦笑いを浮かべながらそう言った。
その時、各階を繋ぐ階段があるエリア――私達から見て右側の方から、本郷警部が少数の取り巻きを伴って姿を見せた。
「どうだった?」
彼も、捜査員と同じことを訊ねると、私も彼に話したのと同じような内容を本郷警部に伝えた。
「そうか……いや、すまん。アンタらだったら、なんとかなるんじゃねぇかと思ってな……」
警部もまた、捜査員と同じような反応を見せた……そんなに期待されても困る。
「神牙さん。どうしましょう?」
鳴海刑事がそう聞いてくるので、私は病室へと続くドアに目を向けながら考えた。
正直言って、これ以上現場を調べたり被害者の証言を促しても、たいして収穫はないだろう……だが、ここは神明大学附属病院だった。だとしたら、あの人がいるはず……私は早速、その場にいる全員にその人物の名前を告げた。
※
「またか……」
私が廊下で皆に話をしてから数十分後……この病院に勤務している知り合いの監察医――アシュリン・クロフォード個人の研究室は、人でごった返していた。
その中心――今回の事件の被害者である矢島の隣で、個人的な業務を終えたアシュリンはアメリカ人らしいオーバーリアクションでため息をついた。
「前にも言ったと思うが、この催眠は被験者に著しい負担をかける。その責任を取ることは、かなり難しいだろう。ただ刑事を辞めるというわけにはいかないし、一生治療費を負担すればいいというものでもない」
彼女の隣では、その小さな体に似合わない大き目の革張りイスに浅く腰掛けた矢島がいる。患者衣を着た彼女は、これから起きることに少なからず不安を抱いているようで、私達に視線を向けつつも、時折キョロキョロと室内を見渡している。
「おっしゃる通りです、先生」アシュリンに対して、本郷警部は静かに答えた。
「今回、愛ちゃんにそのようなことをするに至ったのは、まさに我々の実力不足です」
「……」
珍しく、アシュリンは本郷警部の話を黙って聞いている。
「それを承知の上で、教えていただきたい。どうすれば、愛ちゃんに事件当日の状況を思い出してもらうことができるでしょうか? 我々は、どうすればいいのでしょうか?」
「う~ん……そう言われると、確かに私も返答に困るな。医者としては、このまま自然に記憶が戻ってから事情聴取を、といきたいところだが、そちらとしては困るのだろう?」
「はい」
本郷警部が短く答えると、アシュリンは腕組みをして悩み始めたが、やがて観念したように口を開いた。
「……ご家族には、許可を取っているのか?」
「すでに愛ちゃんの祖母とお母様に、ウチの若いモンが話をしています。了承してくださいました」
「ふむ……ならば、いいだろう。ちょっと待っててくれ」
おそらく、本郷警部はあらかじめこのことを察していたのだろう。
本郷警部に意味深な視線を向けてアシュリンは部屋から出ると、ものの数分ほどで戻ってきた。
「やぁ、どうも」
彼女と共に現れたのは、同じくこの病院に勤務している竹中教授だった。数分で彼を連れてきたということは……アシュリンも、あらかじめこのような事態になることを把握していたのだろう。
今回、私が皆に提案したこと――矢島に対して行う逆行催眠は、記憶を失った被験者に対して、ある出来事の記憶を呼び覚ますことを目的に行われるものだ。
しかし、それは犯罪の被害に遭った状況を本人の脳内で再度繰り返すことになるため、被験者には多大な精神的ストレスがかかる。
それが原因で被験者が廃人となった場合、事件解決は出来なくなるばかりか、それを指示した者や組織は多大な責任を負うことになる。
しかし、我々と捜査一課は、その責任を負うことと引き換えに、矢島に対して逆行催眠を行うことを決断した。アシュリンの言うように、それだけで責任を取ったとは言えないだろうが……今は、この施術に頼るしかない。
アシュリンが連れてきた目の前にいる竹中教授は、逆行催眠を含むありとあらゆる催眠研究の国内における第一人者である。
「では……」
相変わらず、一度見たら忘れないような風貌――脂ぎった髪を撫でつけながら、竹中教授は矢島に対して優しい声色でもって催眠を開始する。
「矢島さん。今からあなたには催眠術を受けてもらいます。この錘を、ジッと眺めるだけでいいので……よろしいですか?」
「うん……」
まだ不安な様子を見せつつも、矢島は竹中教授の指示に従って目の前でブラブラと揺れる錘を見つめ始めた。
「ゆっくり……落ち着いて……だんだん体がフワフワしてきます……」
竹中教授がそんな言葉を繰り返していると、先ほどまでイスに浅く腰掛けていた矢島の体は、徐々にその体をイスの背もたれに預けるようになった。
やがて、矢島が眠ったようにイスに身を預けるのを確認すると、竹中教授はこちらに振り返る。
「成功です。どうぞ」
このような事態には慣れているのだろうか……竹中教授は自分の仕事は終わったとばかりにサッと我々に場所を明け渡す。その姿勢に、プロとしての矜持を見出したような気がした。
私は早速、鳴海刑事に質問をするように言った。質問の内容は私が決めて、鳴海刑事がその言葉を矢島に語り掛けるというものだ。
鳴海刑事が頷いて、背もたれに寄りかかる矢島の前に膝をつくと、私は矢島を見つめながら、昨日は一日何をしていたのかと訊ねた。その言葉を、鳴海刑事が改めて矢島に囁く。
「学校に行って……帰ったら、友達と遊んでた……」
ゆっくりとだが、矢島はこちらの質問に答える。すかさず、私の後ろで大倉刑事がメモをとる。
続いて私は、誰と遊んでいたか訊ねた。
「裕子ちゃんと明美ちゃん……学校で遊ぶ約束をして……あたしのお家で遊ぶって……」
その名前には聞き覚えがある。玄関に張られていた紙に、その名前が書かれていた。今回の事件の被害者と行方不明者だ。私は次に、どんな遊びをしたか訊ねた。
「お家の探検……あたしのお家、大きいから……裕子ちゃんが探検したいって……それで、お家を探検してたら、飽きちゃって……でも明美ちゃんが、おばあちゃんとお母さんと一緒に暮らしているお家とは違うお家を見つけて……そこを探検したいって……だから、そのお家を探検したの」
なるほど、三人は初めは矢島愛の自宅で遊んでいたのか……それにしても、家族と一緒に暮らしている家とは違う家……? この辺りはもう少し突っ込んでみようかと思ったが、まずは彼女の話を聞くことを優先する。
私は鳴海刑事を介して、矢島にその後はどうしたのかと訊ねた。
「それで、そのお家を探検してたら木の箱を見つけて……中を開けたら色々入ってて……ゲームみたいだったから、明美ちゃんがやろうって……それで、あたし達がゲームしようとしたら、おばあちゃんが来て『ダメッ!』って……」
……そこで話が途切れてしまったので、私は話を続けるように言った。
「それで……おばあちゃんが倒れちゃったから、救急車を呼んで……二人ともお家に帰ろうって……でも、あたしはママが仕事に行ってるから、ママが仕事から帰ってくるまで明美ちゃんのお家で遊ぼうって……でも、明美ちゃんがあのゲームがやりたいって言って……あたしが明美ちゃんのママに頼んで一緒に箱を持ってきて、近くに住んでる裕子ちゃんも呼んでゲームをしようとしたの。箱に入っていた説明書通りにやって……それで……」
また、矢島の話が途切れてしまう。だが、今度はただ黙るのではなく、彼女の体は小刻みに震え始めた。
「それで、部屋の電気を消したら……」――矢島の両目が、カッと見開かれた。
「いやぁぁあああっ!!!」――少女の絶叫――点滅する照明――瞬間、私達がいる部屋は、この世と隔離されたかのような状況に陥った。
「お、落ち着いてっ! 落ち着いてくださいっ!」
慌てて、竹中教授は矢島に駆け寄って催眠を解く。
「う……うぅ……」
少し経つと、矢島は落ち着きを取り戻すと同時に気を失う。その頬を涙が伝わっていった。
悲鳴を聞いて駆けつけてきた医師や看護師に、お詫びをしながら状況を説明して退室してもらった後、静まり返った室内でアシュリンの低音ボイスが良く響いた。
「……分かっていると思うが、催眠はこれっきりだ」
それは当然の判断だと思う。医師でなくとも、あの様子を見れば誰だってそうしたくなるだろう。
「あの……愛ちゃんは大丈夫なのでありますか?」
大倉刑事が不安な様子を隠さずにそう問いかけると、竹中教授が口を開く。
「う~ん、実際に目を覚ましてからでないと、なんとも言えませんな。まぁ、寝言なんかで夢にうなされるような様子を見せないことから考えて、重篤な状態ではないです」
「よかった……」
「それでも、催眠はダメだ」
ホッとした様子を見せる鳴海刑事に対して、アシュリンが釘をさす。
そこで私は、ふと矢島の家族の存在を思い浮かべた。矢島も、催眠状態にある時に祖母と母親の話をしていた。家族ならば、矢島が知らないことも知っているかもしれない。
私は、矢島が目を覚ますまで彼女の家族に事情聴取することを皆に伝えた。
「それならちょうどいい。この病院に、愛ちゃんのおばあちゃんが入院しているんだ。すでに我々が事情聴取したんだが、こっちも要領を得ない返答でな。アンタらなら、なんかも分かるかもな」
本郷警部がそう言うと、協力的な捜査員が『自分が案内します』と言って私達を誘導してくれる。もちろん、その傍らには生意気な捜査員がいた。