敵か味方か ~階下の激闘~
突然、『その者』からの連絡によって犯人と思われる女性の潜伏先が判明し、私達は指定された倉庫に到着した。
「うわぁ……いかにも犯人が潜伏してそうな場所ですねぇ……」
車を降りた鳴海刑事は、目の前に見える廃倉庫を見て感嘆するように言った。私もその意見に同意する。
「まぁ、あんだけ図体のでけぇ奴が隠れられる場所っていったら限られてくるだろうからな」
鳴海刑事に続いて車を降りた鬼島警部は、周囲を警戒しながらそう言った。
そして、私達は大倉刑事が近くの空き地に車を停めるのを待ってから、調査を開始する。
倉庫の中はあまり広くはなく、あちこちに段ボール箱が置かれているだけだった。鉄製の柱の錆具合やかつて事務所として使われていたであろう部屋の荒れ具合から考えて、廃棄されてからかなりの年月が経っていると思われる。
天窓や二階の窓から漏れてくる自然光のおかげで、懐中電灯などは必要なさそうだが、やはりどうしても埃臭いし、この老朽具合ではいつ倒壊してもおかしくはなさそうだ。
「なんだ、こりゃ?」
「ちょっと待ってください……」
私が倉庫内を捜索していると、鬼島警部と大倉刑事の声が聞こえた。
「警部っ! ここだけ、妙に床が綺麗でありますっ!」
「分かってるよ! それがなんなのかって聞いてんだっ!」
「む、そ、それは……」
二人のやり取りを見て、私と鳴海刑事は彼女達の元に駆け寄る。
「何か見つけんですか?」
「押忍、見て下さい」
そう言って大倉刑事が指差した先には、確かに彼の言う通り他の荒れた場所とは違って比較的綺麗なコンクリートの床があった。しかも……最近、誰かが通った跡と思われる痕跡や靴跡があった。
私がそのことを告げると、三人は一様に黙ってしまう……おそらく、あの女性の姿を想像しているのだろう。仕方ないので、私は自分が先導すると言ってそれらの痕跡の先にある扉の前に立った。
「待て。アタシも付いて行くぜ」
鬼島警部はそう言って、私の傍らに立ってくれる。
「じ、自分もお供するでありますっ!」
「ぼ、僕も……」
……結局、全員で行くことになるわけだが、私はこの先はなにがあるか分からないので、鳴海刑事にここで待機するように言った。もし、何か異変を感じたら、すぐに捜査一課に知らせるように、と念も押しておく。
「……分かりました。気を付けて下さい」
彼は一瞬不満な顔を見せたが、もし我々に何かあった場合、自分が最後の頼みの綱なのだと理解したようで、力強くそう言ってくれた。
そして、私は鬼島警部と大倉刑事を伴って扉を開ける。扉には鍵がかかっていなかったようで、蝶番の錆びついた音が耳障りではあるがすんなりと開いた。
先程の倉庫と同じように、この区画にも窓から漏れてくる自然光のおかげで捜索は続けられそうだ。だが、それでも倉庫よりは多少薄暗い。
私達は目の前に見える廊下を進み、見える限りの扉を開けて室内を捜索する……が、どうやらここはかつてこの倉庫に勤めていた従業員の休憩室や備品などを保管する物置だったようで、これといったものは見つからなかった。
だが、そのまま所々ひび割れたリノリウムの廊下を進むと、廊下の突き当りの右側に地下へと続く階段を見つけた。
私が階段を指差して行ってみようと言うと、二人はそれぞれ肯定の返事をした。
階段がある壁にスイッチがあったので、それを押すと電灯が点いて階下を照らしてくれる。どうやら、それほど地下深くはないようだ。
「……電気、きてるんだな」
「は? どういう意味でありますか?」
鬼島警部のボソッとした声に反応して、大倉刑事が首をかしげる。
「…お前、なんでこんなつぶれた倉庫なんかに電気がきてると思う? 誰が? なんのために?」
「そ、それは……」
鬼島警部からの矢継ぎ早に繰り出される質問に、大倉刑事はタジタジとするばかりだ。
確かに彼女の言う通り……廃棄されて月日が経っているこの物件に電気が通っていること自体がおかしい……私は二人に、ここからは警戒を強めるように言って、階段を下りていった。
階段を降りるとすぐに大きな扉の前に辿り着くので、私はその扉を開けて中に入る。
「こ、ここは……?」
「なんだよ、これ……」
私に続いて中に入った二人からは、驚きの声が上がった。
扉の先にあった部屋の中は、巨大な機械装置で埋め尽くされていたのだ。よく見れば、細かな装置や実験室で使うような器具も見受けられる。この空間は、位置的にはちょうど倉庫区画の真下だろう。
「神牙……なんなのだ、ここは?」
しばらくこの区画を観察しながら、大倉刑事は私に問いかけてきたが、私は彼に分からないとだけ答えた。
実際、この区画の存在を私は『その者』から知らされていない。奴も、この区画の事は知らなかったのだろうか? 今からでも連絡を取りたいが、ここに女性が潜んでいることを考えるとためらってしまう。
「……こんだけの設備を揃えるとなると、かなりの費用がかかるはずだ。そんじゃそこらの同好会やら個人やらの仕業じゃねぇな。それに……それだけの金をかけてまで、こんなものを作る目的は何なのか……まったく理解できねぇ」
私は鬼島警部の意見に同意した。彼女は、部屋の奥にある一つのガラスケースに近づいて覗き込んでいる。彼女と同じようにすると、ガラスケースの中には液体の入った試験管や、何に使うか分からない器具が置いてあった。
とりあえず私は、女性の存在に気を付けつつ、この区画を重点的に捜索することを二人に告げた。三人で手分けして部屋の中にある機材や薬品をチェックしていく。
「……あの、警部殿」
「どうした? 何か見つけたのか?」
「……これを」
そう言って、大倉刑事は目の前にあった机の上に置いてある紙を手に取り、鬼島警部に手渡す。私も彼女の横から紙を盗み見た。
「これは?」
「何かの報告書のようでありますが……」
大倉刑事から渡された書類を、鬼島警部が読む……少し経って、彼女はボソッと呟いた。
「『プロジェクト・アルファ』、か……聞いたことがないな」
鬼島警部は顎に手を当てて考え込んでいる。そして、突然顔を上げると、私の方を見てきた。
「なあ、あんたなら分かるんじゃないか?」
……私は首を横に振る。
「そうか。まあ、そういうことにしといてやるぜ」
鬼島警部は再び書類に目を落とす。
『プロジェクト・アルファ』……そんな計画は今まで聞いたことがない。この事件に『組織』が関わっている以上、その計画も『組織』に関わるものなのだろうが……。
やはり、今すぐにでも『その者』に連絡を取ろうか……私がそのように迷っている間も、鬼島警部と大倉刑事は書類が見つかったキャビネットを中心に捜索しながら、議論を交わしている。
「それにしても、よくこんな物見つけられたな」
「はっ、実は、棚の中を整理していた時に出てきたのであります」
「なるほどな。もうちょっと調べてみるか」
「了解であります……むっ!?」
大倉刑事は声を上げ、直後デスクに置いてあった写真立てを拾う。
「おい、どうしたんだ?」
「け、警部殿っ! これをご覧くださいっ!!」
そう言って、大倉刑事は写真立てを鬼島警部に手渡した。その中には、数人の白衣を着た大人達が集まった一枚のカラー写真が入っていた。日付は今から数年前となっている。
「なんだ、ただの記念写真じゃないか」
「いえ、違います! この女性に見覚えはありませんかっ!?」
そう言って写真に写る女性を指差す大倉刑事を見て、私と鬼島警部は彼が指し示す女性をよく観察した。
「こいつは……まさかっ!?」
……確かに大倉刑事の言う通り、この女性の顔は、どことなく私達が遭遇した異形の女性の面影がある。というか、この顔は私が『その者』から送られてきたデータファイルの中にあった女性の顔と同じだった。同一人物とみて間違いないだろう。
しかも……よく見てみれば、この写真には今回の事件でこれまで殺された被害者達が一堂に会して写真に納まっている……私はそのことを二人に告げた。
「た、確かに、よく見てみればその通りだっ!」
「……見つかったな。被害者達と加害者の接点がよっ!」
鬼島警部はそう言いながら拳を強く握りしめ、写真の女性を睨むように見る。
「しかし、警部殿。この女性は一体? それに、被害者達との関係やこの場所の事も気になるであります」
大倉刑事の質問に、鬼島警部は険しい表情で答える。
「詳しくは知らねぇが……たぶん、被害者達の身体から検出された薬剤ってのはここで造られたんじゃねぇか? 見た感じ、バイオ研究とかに使う機材がちらほらあるしよ。
そんで、この女はなんらかの理由――たぶん、被害者達の体内から検出した薬剤だろうが、その失敗作を投与されたか、もしくは完成品を過剰投与してあんな感じになっちまった……それで、見事復讐を果たしたってわけだ。写真を見る限り、この女以外に写ってる人間は、皆今回の事件で死んでる。復讐は果たされたってわけだ」
「そんな事が……あ、でも、二件目で発見された白骨化した腕は誰のもので、どういう意味があったでありますか?」
「それは分かんねぇ。この女に聞いてみないとな」
鬼島警部は肩をすくめてそう言った。
「とにかく、まずはこの事実を一課と共有するために報告しなきゃな。行こうぜ、神牙」
私は鬼島警部の言葉に頷いて、入ってきた扉を目指す――だが、その時だった。
「うわっ!?」
「むおわぁっ!?」
背後で二人の悲鳴が上がる――振り返ると、そこには先程までいたはずの大倉刑事と鳴海刑事の姿はなかった。代わりに立っていたのは、見たこともない化け物のような生物だった。
『……』
化け物はこちらに目を向ける……が、本来両目がある部分は肥大化した腫瘍に覆われており、本当にこちらに目を向けているのかさえも分からない。
化け物は左右非対称の姿をしており、左腕は数本の鞭のような触角をうねらせ、右腕は肥大化しており、だらんとリノリウムの床に垂れていた。何より、その全身は剥き出しの筋肉のような繊維で覆われており、所々ケロイド状に変質していた。
私は反射的にオートマグを構え、二人の名を叫ぶ。
「生きてるぞっ!」
「アタシらはいいっ! やれっ!」
――鬼島警部の言う通り、私は素早く照準を合わせて、その生物の頭部を撃ち抜いた。すると、その生物は咆哮を上げて倒れ、動かなくなる。
「……やったか?」
そう言って化け物に近づく鬼島警部は私は制して、女性の捜索及び捕縛を中止し、この建物から撤退することを叫んだ。
「分かった!」
「ちっ! しょうがねぇかっ!」
そして、私達は元来た道を駆け抜け、鳴海刑事が警戒する倉庫区画まで戻ってきた。
「み、皆さん、どうしたんですっ!?」
「説明は後だっ! 今は――」
そう叫ぶ鬼島警部の頭上に、巨大な影が伸びる――私は巨影の正体を確かめる間もなく鬼島警部に体当たりし、転がりながらも影の正体目掛けて数発の弾丸を放った。
その発砲音をかき消すように、倉庫内に轟音が響き渡る――まるで、倉庫全体が振動しているかのようだ。続いて聞こえてきたのは、倉庫の床がきしむ音……。
「な、なんだっ!?」
「神牙、危ねぇっ!」
鬼島警部が警告してくれた時には、すでに時遅かった。
倉庫に満ちる凄まじい衝撃波と轟音と共に床が陥没し、私はそのまま瓦礫と共に落下して激しく叩きつけられた。
(くっ!)
――衝撃によって視界がチカチカとちらつくが、なんとか拳銃とライトを構えて周囲の様子を探る。どうやら、ここは先程までいた研究所のようだ。位置的に当然か。
「……」
そして……そこには、例の女性がいた。
二メートル前後の巨体……ガスマスクに頭部全体をすっぽり覆うフード……もし、目の前の女性が例の写真に写っていた女性ならば、驚くべき変貌ぶりだ。
「神牙っ! 大丈夫かっ!?」
上から、鬼島警部の声が聞こえてくる。
私は彼女に、すぐにこの場を離れるように言って銃の引き金を引いた。
「っ!?」
「あっ、そいつはっ!?」
階下でうごめく巨影に目を向けて、鬼島警部が叫ぶ。私は再び、彼女にこの場を離れるように言った。
「――分かったっ! なんか役に立つもん持ってくるから、それまで待ってろっ!」
そう言って、彼女は走り去っていった。
後に残ったは、薄暗い地下で殺し合いをする二人……しかも、相手は薬物によってすでに人であることをやめている。
「……」
女性は、両手に金属製のこん棒のようなものを持っていた。さっきは、あれを床に叩きつけたから床が崩れたのだろう。恐るべき破壊力だ。その凶暴な外観を見ると、私は内心冷汗が浮かぶ。並の人間なら、一撃だけで無力化される代物だ。
だが……幸いと言うべきか、彼女と同じように私もすでに並みの人間ではない。そして……私の方がくぐってきた修羅場の数は多いと自負している。
私は女性に向けていたライトのスイッチをもう一度押した。
「っ!」
女性の全身を照らしていたライトの光源はストロボとなり、チカチカと光る光景の中で女性が一瞬怯むのが見えた。
――その瞬間、私は拳銃の残弾すべてを女性の頭部に撃ち込んでいく。途中でガスマスクのレンズ部分が割れて血しぶきが飛ぶのが見えたが、構うことなく撃ち続け、弾切れになると、ライトを口で咥えて弾倉を交換する。
その間も、女性はフラフラとしている――常人ならとっくに死んでいるはずだが、今さら気にしてもしょうがない。
――再びライトと拳銃を構えると、女性の右手にはいつの間にか手製の散弾銃が握られており、その銃口がこちらに向いたのが見えた。
――銃声が聞こえた頃には、私がいた場所には無数の弾丸が着弾し、私の背後のコンクリートを穿つ――私は間一髪でその攻撃を避けると、拳銃を数発撃ちながら、身を隠す場所を探した。女性が放った銃弾の一連射で壁の一部が砕け落ちる。私はとっさにそこに入ると、そこで素早く弾倉交換をして銃撃を続けた。
だが……相手もそれは同じだ。互いに、銃口から発射される銃弾の雨をかわしていくなか、私の視界には先程女性の銃撃によって穴が空いたコンクリートの壁が見え、そこからは自然光が見える……どうやら、あそこはこの建物の外に続いているようだ。
しかし――私がそのことに感心していると、女性は銃撃を止めて突如身を屈め、私めがけて突進してくる!――私は、咄嵯に身をひるがえすが、その際にバランスが崩れ、床に転がった――そこに女性が馬乗りになって来る――その力は人間のものとは思えないほどのものだった。
「くぅ!?」
どうにか彼女の腹部に肘を打ち付け、そのまま立ち上がって銃を構えたが、次の瞬間だった……背後からの殺気に気がついて、振り向こうとした時にはもう遅かった。
「がぁああっ!?」
背中から胸部に掛けて激痛が走る!……それは今まで経験したことの無い痛みだった。まるで刃物で突き刺されたような感覚。そして、同時に身体中に強い電気が流れたような衝撃を受けて意識を失いかけるが、私は必死に耐えた。
見ると、女性の両手には先程のこん棒が握りしめられていた……我ながら、あんなものをくらってよく生きていられると感心せざるをえない。
だが女性は、私との距離が出来ると即座に散弾銃に持ち替えて応戦しようとする――私は咄嗟に物陰に隠れるが、聞こえてきたのは火薬の発砲音ではなく金属同士が打ち合う乾いた音だった。
「ぐ……」
弾切れ……物陰が覗くと、女性が焦った様子で散弾銃を操作しているのが見えた――その隙を、私は容赦なくついていくっ!
「っ!!」
私が物陰から飛び出るのを見て、女性はすぐさま物陰に隠れる――その軌跡を、私が放った数発の銃弾がなぞるように着弾した。
……おかしい……この前対戦した時よりも戦闘に慣れているし、戦術的な行動をとっている……どういうことかは気になるが、今は気にする余裕がないっ!
私は弾倉片手に射撃しながら女性との距離を詰め、すぐそばまで近づくと弾丸が一発装填された状態で弾倉を交換して女性のいる物陰に飛び出る。
――直後に、巨大な影が見えた。そのまま格闘戦にもつれ込んでしまった――直後に、私のすぐ横で発砲音と共に床が穿たれる……どうやら、あちらも装填が終わったらしい。
しかも……やはりというべきか、女性の攻撃はその体格から想像できる通り凄まじいものがあり、私の想像以上だった。だが、どうにか対応できる。
私達は、そのまま互いの拳銃と散弾銃を払いのつつ格闘する攻防戦に突入する――肉体からほんの数ミリの近さで、マグナム弾や散弾が飛び交う激しい攻防が続くなか、私の脳裏にはなぜか今回の事件捜査の出来事や、はたまた今朝食べた朝食の事などが思い浮かぶ……まさか、走馬灯というやつかっ!? だが、まだ死ぬわけにはいかないし、すぐにそんな事はどうでもよくなっていく。何故なら――。
「ふ…ふふ……」
私と死闘を繰り広げる彼女は……何かに酔っている。
先ほどまでの冷静で戦術的な攻防とは違い、今の彼女からはその攻撃の節々(ふしぶし)から狂気のような物が伝わって来る。
そして――彼女の放つ殺意の波動は尋常なものではない……彼女が放つ散弾は容赦なく襲い掛かり、また彼女の振るう巨大なこん棒は一撃で私の肉を削いでいくだろう。
このままではまずい……そう判断すると、私は拳銃をしまい、別の武器を取り出す事にした。カランビットナイフ……これしかないっ!
――私は女性の攻撃を避けて距離を取る――女性は、こちらの動きに反応したようで……こちらに向かってきたっ!……よし、狙い通りっ!!
「……っ!」
彼女は散弾銃を構えようとするが……そう簡単に撃てると思うかっ!?――私の手にしているナイフを見て、彼女も気がついたようだ。
私達がぶつかり合う直前――私は右手に持つナイフを振るって彼女の左腕を切り裂いた。だが、その代償として……私は左肩と右脇腹を負傷する。
私はすぐにバックステップをして彼女との距離を取った。だが、彼女は腕を傷つけられても全く意に介さず向かってくる……この程度では怯みもしないか。
――それからは、ひたすらナイフとこん棒での近接戦闘が続いた。不思議なもので……相手は倒れないどころか、ますます強くなっていくように思えた。私はそれでも攻撃の手を緩めない。
そして、しばらく攻防が続いた刹那――女性の頭部がガラ空きになった。私は左手でナイフを構えると、相手の喉笛を狙った……その時だった。
女性の右腕の形が歪になる……あれは何だっ? それに目を奪われていると、女性の持つこん棒が私の脳天に襲い掛かってくる――それをかわした頃には、彼女の右腕は明らかに変化し始めていた。
「う、うう……」
それは徐々に大きくなり……女性の来ている軍用の丈夫なコートを裂いてもなお変化していく……やがて女性の右腕は、彼女の身体ほどの大きさの巨大な鉄槌に変化していった。
私はそのあまりの出来事に、思考停止してしまった――だが……すぐに我に返ると、女性の攻撃を辛うじてかわすことが出来た。
女性は右腕の鉄鎚を振り回し始める――先程までとは違って、攻撃がでたらめなために回避しにくいが、研究機材などを障害物代わりにして、私は隙を狙っていた。
……そして、私の視界の片隅に、先程まで女性が振るっていたこん棒が目に入った――私は女性の攻撃をかいくぐりながら近づき、こん棒を拾い上げた。
案の定、見た目同様にこん棒は重かったが、私が持っているカランビットナイフよりも致命傷を与えやすいぶんには有利だ。
しかし……女性の背後に、また奴が現れた。
『……した』
こちらに対する、曇りの欠片もない殺意のこもった眼……その目だけは、あの日以来、忘れることが出来ずにいる。
『お前が……殺した……』
この奴は幻影だろうが、それでも私をこうも惑わしてくる――気がついた時には、すでに女性が鉄槌を振り上げていた。
仕方ない――私は一瞬で『力』を解放し、女性の振り下ろす鉄槌をこん棒でいなす。
「っ1?」
激しい金属音の後、鉄槌は床にめり込んで外れなくなった――その時、私はこん棒を握りしめる両手に『力』を込め、勢いよく女性の頸部に一撃を加える。
「ぐぅっ!?」
鈍い……しかしハッキリと聞こえる殴打の音色と共に、女性の巨体は爆発に巻き込まれたかのように宙を舞い、床に倒れる……だが、まだ女性は意識があるようだ。
彼女は再び立ち上がろうともがくが、やがて観念したのか、私の足にしがみついて来た……先程まで見えていた奴の幻影は、すでに消えている。
女性の方に目を向けると、ガスマスクが外れ、女性の顔が露わになっていた。
その顔は……間違いなく、例の写真に写っていた女性の顔だった。下半分が攻撃のために血まみれになっているが、間違いない――その時だった。
「……メだ」
……微かに……しかし確かに、女性の口元から声が聞こえてきた。
「ダメだ、このままでは……」
確かに、そう聞き取れた。
私がダメとは何かと訊ねると、女性はこちらに目を向ける。その両目は不思議と……悲しみの色を帯びているような気がした。
「奴らを……殺すまで……」
女性からその言葉を聞いた瞬間、私の中で彼女に対する危機感のようなものは一気に無くなっていった。同時に押し寄せてきたのは、彼女に対する同朋意識……『組織』の被害者としての体験を持つ者同士の連帯感だった。
「――神牙、大丈夫かっ!? 地元の警察を連れてきたぜっ!」
「今行くからなっ! しっかりしろっ!」
――頭上で、鬼島警部と大倉刑事の声が聞こえる。
今までならば、それはとても心強い事だったが……今は、私に決断を迫る一手になっている。
そして、私は決断した……着ている軍用ジャケットのポケットから、スモークグレネードとフラッシュグレネードを取り出して二つのピンを外し……床に落とす。
数秒後――私と女性の周囲は爆音と閃光、濃密な煙幕に満たされた。