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未来のための船旅 ~殺戮からの逃避~

 食堂での騒ぎが原因でジャンに連れられてきた下層甲板の冷凍庫で、私たちはとんでもないものを目にした。私たちが運んできたはずの遺体の片腕の一部が、何者かに切り取られていたのだ。


「これは……」


 私の後ろで遺体を見たアンナがそう呟くと、ジャンは深刻な面持ちで言った。


「君たちが考えている通り、僕も彼の遺体を最後に見た時にはこんな傷はなかった。つまり――」

「誰かが、この冷凍庫に忍び込んでやった?」

「…そうなるね」ジャンはそう言ってため息をついた。

「誰が何のためにやったかは……だいたい見当がついている。見てくれ」


 そう言ってジャンは冷凍庫のさらに奥に進んでいく。そこには私たちがいた冷凍庫とは別の食糧保管庫があったが、そこには部屋の大きさと比べてわずかばかりの食糧しか保管されていなかった。


「……これは?」

「見ての通りだ。他の場所も、ほとんど空っぽなんだ。でも、この減り方はおかしい。明らかに僕たちが普段食べている量以上の食糧が無くなっている」

「まさか……」


 私はジャンの言葉に驚いてしまった。だって、ここは漂流してから船倉の中でも最も厳重に管理されていたはずだもの……。


「おそらく、何者かがこっそりと忍び込み、食糧を盗み出しているんだろう」

「そんな……でも、なんのために? 食事は毎日ちゃんと食べているはずなのに……」


 アンナがそう言っても、ジャンは首を横に振るだけだった。


「わからない。いったい、なんのためなのか……」

「……」

「しかも…これはまだ船長としか話していないことなんだが、もしかしたら食料を盗んだ犯人は、あの遺体を損壊した犯人と同一人物の可能性もある。つまり――」

「食料を盗んだ犯人は、それだけじゃ飽き足らず、遺体の肉を切り取って食べているかもしれないってこと?」

「……ああ」

「なんてこと……」


 アンナは吐き捨てるように言った。

 確かに……普通なら考えられないことよね。かつて、極限状態で人肉食が行われたことは知っているけれど……食料が豊富にある状態でそれを行うような精神状態って……。


「いずれにせよ、一つだけはっきりしていることがある。このままだと、いずれ食料は尽きるだろう。その…人肉食の件はごまかせるかもしれないが、こっちのほうはそうもいかない。

 もしその時までに誰にも助けてもらえなければ、僕らの命運はそこで終わる。だから、こうして密かに犯人を捜しているというわけさ……」

「そう……」

「でも、手掛かりになりそうなものは見つけられていない。だから今は、なんとかしてこれ以上の被害を防ぐしかないんだよ……」ジャンはそう言うと、悲しげに俯いてしまった。

「あの……」すると、それまで黙っていた船長が口を開いた。

「ほかのお客様への対応はどうしますか? さすがに、いつまでもお食事を出さないわけには…」

「…そうだね……とりあえず、食事は今まで通り提供しよう。何とか食いつないでいくしかない。幸い、食料はまだ残っているからね」

「分かりました。それでは、すぐに手配しましょう」

「ありがとう。助かるよ」ジャンが礼を言うと、船長はそのまま冷凍庫を後にした。

「とにかく、今は犯人を見つけることに集中しよう。君たちも協力してくれないかい?」

「ええ、もちろんです」

「分かったわ……」


 私達がそう答えると、ジャンは満足げに微笑んだ。


「よかった。君たちならそう言ってくれると思っていたよ。それじゃあ、早速だけど……」

「ちょっと待って」ジャンが話そうとした瞬間、アンナがそれを遮った。

「悪いんだけど、その前に少しいいかしら?」

「ん? 別に構わないけど……どうかしたのかい?」

「廊下が騒がしいわ」


 アンナがそう言うので耳を澄ませると…確かに、廊下の方から話し声が聞こえる。それも二人や三人ではなく、もっと人数が多い。


「……誰か来るみたいね。どうするの?」

「…行ってみよう」


 ジャンはそう言って、私たちと共に冷凍庫を後にした。私達もその後に続くと、ジャンが扉を開けて外の様子を伺う。そして彼は、私達に目配せをして扉の外に出るように指示を出した。

 私達はジャンの後に続いて扉を出る。すると、冷凍庫の外には大勢の乗客と船長、船員達がいた。乗客たちは興奮した様子でジャンに話しかける。


「あ、ジャン!」

「ちょうどよかったわ。あなたに話があるの」

「…なんだい?」


 乗客達に詰め寄られて、ジャンはやや緊張した面持ちで返した。


「今朝から、俺たちが何も食べていないことは知っているだろ?」

「…もちろん。大変申し訳ないと思っているよ……」

「だったら、どうして何か用意してくれなかったんだ!?」

「……本当にすまない。でも、今は我慢してほしい。僕たちにも事情があって……」

「事情ってなんなの?」

「それは……」


 ジャンは答えに窮してしまった。すると、乗客の一人がジャンの肩を掴んで彼を冷凍庫の入り口からどかせる。


「ちょっと中を調べさせてもらうぜ」

「おい、何をする気だい!?」


 ジャンが止める間もなく、乗客の一人は冷凍庫の中に入って行った。それが合図だったかのように、ほかの乗客達も次々に冷凍庫の中に入っていく。

 彼らは安置されている遺体には目もくれず、冷凍庫の中にある食料を見渡していた。中には冷凍庫を漁っている者もいる。


「こっちにはパンと缶詰めがあったぞ! あと、水も見つけた」

「私はチーズを見つけたわ」

「俺は干し肉をいくつか見つけたぜ」


 冷凍庫の中にあった食糧は、瞬く間に彼らの手に渡ってしまった。その様子を見ていたジャンは苦々しい表情を浮かべている。

 どうやら彼らは、食事が出ないことにイラついて直接ここに保存されている食料を漁りに来たようね。まったく……この船の乗客は富裕層のはずだけど…浅ましいったらないわ。

 そして、食料を見つけたことである程度落ち着いたのか、乗客の一人はふと先ほどの遺体に目を向けて固まる。


「ジャン…この人、なんで腕にこんな傷を……」

「……」


 乗客の言葉に、ジャンは何も返さなかった。しかし、彼の顔はみるみると青ざめて行き、額からは冷や汗が流れ始める。


「まさか、お前らが……?」


 乗客の男性がそう言うと、ジャンは勢いよく振り返り、男性に向かって怒鳴った。


「違う!!」その剣幕に、男性は思わずたじろいでしまう。

「僕達は絶対にそんなことはしない。信じてくれ」

「そ、そうか……悪かったよ」

「いや、こちらこそ……ごめん」


 二人はお互いに頭を下げると、室内の雰囲気はそれなりに和らいだ気がする。しかし、それでも乗客たちの不安は完全に拭い去れなかったようだ。


「でも、だったらなんでこんな傷が?」

「それがわからなかったから、僕たちも君たちに食事を出すことができなかったんだ。つまり――」


 そう言ってジャンは、先ほどまで私たちが話していた内容を乗客達に伝える。


「そんな……」

「マジかよ…」乗客たちは口々にそう言った。

「でも、わざわざ遺体を食べなくても、こうして食料があるんだからそっちを食べればいいのでは?」

「その理由がわからないから、より一層怖いんだよ」

「まあ、そうですよね……」


 一人の乗客がそう言うと、他の乗客達も納得したように何度も首を縦に振っていた。

 その後、騒ぎが落ち着いたことで一度船内にいる者たち全員を大広間に集めることにした。あそこなら、全員が入っても余裕がある。

 そして、船内にいたすべての人たちが集まったところで、ジャンが冷凍庫と遺体の傷についての状況を説明した。


「……というわけで、犯人を見つけるためにみんなに協力してもらいたいんだ」

「なるほど、そういうことだったんですね」

「それならそうと早く言ってくださいよ」


 ジャンの説明が終わると、人々はそれぞれ思い思いにそう呟く。それを聞いて、ジャンはホッとしたような表情を見せた。


「協力してくれるかい?」

「ええ、もちろんです」

「ありがとう。助かるよ」


 ジャンはそう言って、感謝の気持ちを込めて深々と頭を下げた。それからしばらく会議があり、いくつかのことが決まった。

 まず最初に遺体に外傷を与えた凶器を探すこと。次に、冷凍庫や食糧庫の前に乗客と船員が協力して見張りに立つことだ。私達は、例によってジャンと一緒に行動することになった。


「これでひと段落かな……」


 ある程度大広間に人がまばらになってからジャンはそう言って、疲れ切った様子で広間の椅子に深く腰掛けた。


「おつかれさま」

「ああ……ありがとう」


 アンナがそう言うと、ジャンは力なく微笑む。


「それで……これからどうするつもり? 遺体を切り刻んだ人物を特定するにしても、手がかりが少なすぎると思うのだけれど……」

「確かにそうだよね……せめて、凶器だけでも見つかるといいんだけど…」


 ジャンがそう言っていると、船員が彼の近くに行って耳打ちをする。すると、彼はまた微笑んだ。


「…さっそく、問題が解決したようだ。凶器が見つかったそうだよ」

「え、ほんと?」

「ああ。冷凍庫がある甲板の道具なんかを入れておく倉庫にあったそうだ。行ってみよう」

「わかったわ」


 私たちはジャンについて行く形で、すでに見張りがついている冷凍庫を通り過ぎてその奥にある扉に向かった。扉の前に立つと、船内放送が流れて凶器が発見されたという報告がされた――先ほど、席を立つ前にジャンが船員にそうするように伝えていたのを思い出した。

 凶器の発見現場である倉庫に入ると、確かに倉庫の床に一本の肉切り包丁が放置されていた。その刀身には変色した血や肉片がこびりついている。間違いなく、これが遺体を傷つけた刃物だろう。

 ジャンは屈んでその肉切り包丁をじっくりと観察する。


「うーん……見た目は普通の肉切り包丁だな……どこに置かれていたものだろう?」

「この倉庫から持ち出したのかしら? それとも、厨房から盗んだ?」

「さあ……確認してみよう」


 ジャンは携帯で肉切り包丁の写真を撮って倉庫を後にする。そのまま上の厨房まで向かうと、すでにシェフ達が調理を始めていた。彼女たちに指示を出していたチーフシェフは私たちに気づくと、作業を中断して近づいてくる。


「これはジャン様、どうかされましたか?」

「ちょっと見てほしいものがあるんだ……この肉切り包丁なんだけど、見覚えはあるかい?」


 ジャンが携帯の画面を見せると、シェフは少し顔をしかめて画面を見た。


「……この厨房の備品のようですね。柄の部分にこの船のイニシャルと紋章が刻まれています」

「じゃあ、この船のものなんだね?」

「はい」

「ちなみに、いつ頃使われたかわかるかな?」

「申し訳ありません……そこまでは……」

「いや、いいんだ。気にしないでくれ」ジャンはそう言うと、質問を続けた。

「それと、この包丁が無くなったことに気付いた人はいるかい?」


 ジャンにそう聞かれて、チーフシェフは顎に手を添えて考え込む。


「いえ……気付いた人はいないと思います。あれば私に報告があるはずですから…」

「そうか……ありがとう」


 ジャンは礼を言うと、厨房から出て行った。


「とりあえず、この包丁がこの船に元々あったものだっていうことは分かった。あとはいつ盗まれたかだけど……」

「そうね」

「それはもう、この船に乗っている全員に聞き込みをしていくしかないんじゃない? それで、証言に矛盾があったらその人を徹底的に調査して…」

「はは、なんだか本格的に警察の捜査みたいになってきたみたいだね」


 ジャンがそう言うと、アンナは頬に手を当てて首を傾げる。


「でも、このままだと手詰まりなのは確かよ。だから、こうやって地道に証拠を集めていかないと」

「うん、わかっているよ。とにかく、今はできることをしよう」

「ええ」


 それから、私達は乗客全員に聞き取り調査を行った。その結果、多くの人からの証言を得ることができた。しかし、残念ながら遺体の傷については誰も知らないという答えがほとんどだった。まぁ、当然ね。


                       ※


 結局、凶器についても犯人についても何一つ進展しないまま、夜になってしまった。私は船内の自室でベッドに寝転がり、天井を見つめる。


「はあ……」


 ため息をつくと、部屋のドアが荒々しくノックされる音が聞こえてきた。


「誰?」私が訊ねると、ジャンの声が返ってくる。

「よかった! カチューシャ、アンナ! すぐに来てくれっ!」

「どうしたのよ?」

「せ、説明している時間はない! すぐに来てくれ!」


 ジャンは珍しく慌てた様子で私たちを部屋の外に連れ出す。それから、階段を下りて食堂へと向かった。すでに夕食の時間も終わっているはずだが、そこにはまだ大勢の人々が集まっていた。

 相変わらずピリピリとした雰囲気が流れているか、何人かは私たちと同じように理由もわからず連れてこられたようで、不安そうに周囲に視線を向けている。


「これで全員かい?」

「はい、ジャン様」


 船長がそう返すと、ジャンは息切れを整える暇もなく話し始める。


「実は……」


 ジャンの話によると、どうやら下層甲板の食糧庫を見張っていた船員と乗客が気絶させられ、鍵が壊されたらしい。しかも、鍵が壊れているだけならまだ良かったのだが、冷凍庫に保管されている食料が持ち去られたらしい。おまけに――。


「遺体が……一つ、無くなった。最初の被害者の奥さんだ」


 ジャンがそう言うと、広間に集まっていた人々は騒然となる。


「そんなっ!?」

「あの人が……?」

「なんてことだ……くそっ!!」


 人々が口々にそう叫ぶ。その声には怒りと悲しみが入り混じっていた。


「それで……誰がこんなことを……?」

「わからない……ただ、冷凍庫の鍵をこじ開けるために使われたと思われる工具が近くで見つかった。恐らく、これを使った人物がこれまでの一連の事件の犯人だと思う」

「そうですか……」

「その人物を捜すために……もう何回も言っていることだけど、僕たちで協力していこうと思うんだ」

「協力……?」

「まずは冷凍庫の見張りを交代制にして、同時に船内の見回りを強化させる。そして、怪しい人物を見つけた場合はすぐに拘束するんだ」

「なるほど……確かに、それしかなさそうですね」

「ああ、もちろん見張りの人たちにも伝えておくよ。あと、見張りの人たちへの連絡は無線を使って行うことにする。そうすれば、見張りの人も不審な人物に気づきやすいだろう」

「では、早速手配します」

「ああ、よろしく頼む」


 ジャンは船長にそう言った。その時――。


「うらああぁぁぁっ!!」


 食堂の奥――乗客用の扉の方から、叫び声が聞こえてきた。その場にいる者たちが何事かとその方向に目を向けると、その目の前で扉が蹴破られた。


「ふーっ! ふーっ!」


 現れたのは……確か、私たちに船員達を拘束して部屋を調べてやると息巻いていた男。そいつの手には…刃先が赤黒く染まった消防斧が握りしめられている。男は興奮しているのか肩を上下させ、鼻の穴を大きく広げていた。


「てめぇら全員、殺してやるっ!! 一人残らずだっ!!」


 男がそう叫んだ瞬間に、周囲の人々の表情が変わる。恐怖と混乱に満ちた顔だ。


「やめろ! 自分が何をしているのか、分かっているのか!?」


 ジャンが必死に呼びかけるが、男の態度は変わらない。


「うるせぇ! 漂流して助かる見込みもねぇのに、これ以上サイコパスと一緒にいられるかぁ!」


――そう言うと、男は手に持った斧を振り上げる。


「みんな、逃げて!!」


 アンナが咄嵯に大声で叫ぶ。パニックになった乗客たちは我先にと食堂の外へと逃げ出していく――しかし、中には逃げ出すことができずに立ちすくんでいる者もいた。


「邪魔だぁぁっ!!」


 男は振り上げた斧を力任せに振り下ろす。それは、動けずに立ち止まっている一人の老人の頭に直撃した。老人の首がごろりと床に転げ落ちる。


「ひぃっ!?」


 近くにいた女性が甲高い悲鳴を上げる。すると、ジャンがその女性に向かって怒鳴りつけた。


「早く逃げるんだ! 死にたいのか!?」

「あ……う……」


 女性は言葉にならない声を発しながらその場から離れる。固まっていた他の人々も同様に、食堂から離れていった。


「逃げられると思うなよ! 皆殺しにしてやるぅ!」


 狂気じみた笑みを浮かべる男。その目は血走り、口からは泡が噴き出している。どう見ても正気じゃない。これは……完全にイっちゃってるわね。


「アンナ、逃げるわよ!」

「え、ええっ!」


 私はアンナの腕を掴むと、食堂の出口へ向かって走る。そのまま廊下に飛び出て、私たちは思いもよらず船内でサバイバルデスマッチに参加するはめになった。


                        ※


「おえっ……」

「姉さんっ! しっかり! もう少しだから頑張って!」


 そして現在――私たちはこの豪華客船の船内を死に物狂いで逃げ回っていた。既にかなりの距離を走っているおかげか、未だに追手の姿は見えない。


「はぁ……はぁ……なんとか撒けたみたいね……」

「うん、そうだといいんだけど……」

「とにかく、どこかに隠れましょう」

「わかった……あっ、あそこなんてどう?」


 アンナが指さしたのは、客室の一つ。扉には鍵が掛かっていたが、私とアンナはドアノブに手をかけると強引に開け放つ。


「よし、誰もいないわね」

「とりあえずここで様子を見ましょう」


 部屋の中に入り、窓際近くに陣取る。


「ふう……これで一安心かしら?」

「多分……」

「……」

「……」


……沈黙が流れる。正直、今の状況は結構マズいかもしれない。あの男はまだ船内にいるだろうし、今のうちに何とかしないと……。


「ねえ……これからどうしよう?」不安そうな顔をするアンナ。

「そうね……まずは、どうにかしてあの斧を持った男を無力化したいところだけど……」

「でも、どうやって?」

「うーん……何かいいアイデアが――!?」


 私たちがそんな話をしている間にも、部屋の外では激しい物音と悲鳴が聞こえる。時間がたつほど、あの男が有利ということかしら? こんなことになるんなら、一度厨房に行って包丁でも持ってくればよかったわ。そうすれば――。


「姉さん、どうかしたの?」


 私が黙ったことを不思議に思ったのか、アンナがそう聞いてくる。


「いや……なんでもない」……ダメだ。今は少しでもリスクを減らすことを考えないと。

「ところで、さっきの話なんだけど……一つだけ思いついたことがあるのよ」

「どんなこと?」

「あの斧男をどうにかする方法――」そう言いかけた時だった。

「どこだぁ! どこに隠れたぁ!」斧男の声が聞こえてくる。

「まずいわ……もうここまで来たの!?」

「ど、どうするの姉さん!?」

「大丈夫よ、落ち着いて。……こうなったら、やるしかない」


 そう言って私は手近な椅子を持って構えるが、外からは物音ひとつ聞こえない――かと思ったら、また遠くで男の絶叫と女性の悲鳴が聞こえた。


「……どうやら、行ったみたいね」

「……ええ」


 おそらく亡くなったであろう二人には気の毒だけど…仕方ない。これも生き延びるためだもの。でも、いつまでもここにはいられないでしょうね。


「仕方ない…いくわよ!」

「わ、分かったわ!」


 私たちは部屋を出ると、斧男が去っていった方向とは逆方向に走り出した。そのまま惨劇のあった食堂まで行くと、犠牲者の遺体を乗り越えて厨房に行く。目当ては包丁などの刃物だ。


「あった! よし、これがあれば……」


 私は刺身包丁を見つけるとそれを手に取って懐にしまう。これで武器は確保できたけど……まだ問題は山積みね。


「姉さん、早く行きましょう!」

「分かってるわ」


 そして、私たちは厨房を後にしてまだ隠れていない上部デッキに向かうことにした。そこへ移動している間も、船内のあちこちで男の絶叫と犠牲者の悲鳴が響き渡る。まるで地獄ね。まあ、私たちもその地獄の一部になりつつあるわけだけど……。


「あっ!……あれを見て!」


 アンナが指差した先には、乗客たちが逃げ惑っている姿が見えた。


「……チャンスね、あの人たちに紛れ込めば追手を撒けるかも」

「ええ!」


 私とアンナは急いでその集団の中に入り込む。幸いなことに、私たちの存在に気付いた人はおらず、そのままやり過ごすことができた。危なかったわ……。


「ふう……あの男、この階にはいないのかしら?」アンナが息をつく。

「ええ、たぶん――」

「きゃあああぁぁっ!!」


――耳をつんざくような悲鳴に思わずそちらに目を向けると、先ほどまで私たちの盾になってくれていた人たちの中心から血しぶきが上がっているのが見えた。その中心には……あの男がいた。


「うがぁぁっ!!」


 もはや人間とも思えない形相で次々に斧で人々を惨殺する男を見て、私たちは反射的に反対方向へ逃げていった。そして、本来ならプールを楽しんだ後によるはずだったバー・ラウンジにたどり着く。


「姉さん、こっち!」

「ええ!」


 私はアンナに呼ばれてバーの裏手にある厨房に隠れる。


「あ…」


 アンナが珍しく間抜けな声を出すので、何事かと振り返ると……そこには全身から血を流して倒れるジャンの姿があった。


「……やぁ…」


 彼は大けがをしているにもかかわらず、紳士的な態度を崩さずに挨拶をしてくる。


「ジャ、ジャン……」

「……二人は……無事だったんだね……良かった……」

「喋っちゃダメよ!」


 私は傷口を押さえながらそう言う。だが、既にかなりの出血をしており、このままだと命にかかわるかもしれない。


「……二人だけでも、逃げてくれ」

「だからしゃべっちゃダメだって! 今手当てしてるわ!」といっても、出来ることと言えば傷口を圧迫して止血するだけ……どうしようかしら…そう考えている間にも、船内ではあちこちで男女問わず叫び声や断末魔が聞こえる。もう猶予はない。

 アンナも何か役に立つものはないかと探し回っているみたいだけど、見つからないみたい。でも、このままじゃ――。


「きゃああぁぁぁっ!!」


 その時、今までで一番近い距離で犠牲者の悲鳴が聞こえた。私もアンナも、一瞬動きを止めて神経を研ぎ澄ます。すると、今度は別の方向からも悲鳴が上がる。これは……まずいわね。

 そうこうしている間も、足音は金属を引きずる音を鳴らしながら徐々に近づいてくる。やがて足音はバーへ続く扉まで来た。

 万事休す……私がそう考えていると、不意に私の視界の隅にあるものとが移った。刺身包丁だ。

 私がその包丁をアンナに手渡して自分のも確保している間も、足音は外のバーで聞こえてくる……やがて、足音は私たちがいるバーカウンター裏の倉庫の前で止まった。


「ここかぁ!?」男が叫ぶ。

「――ッ!」


 同時に扉が蹴破られ、ジャンが戦慄する――男の要望は最初に見た時よりもさらに凶悪になっていた。

 全身に自分か他人の血を身にまとい、抵抗に遭ったのか、ところどころけがをしていた。それでもなお、男の狂気に満ちた眼光は衰えず、獲物を求めているようだった。


「うおおぉぉぉっ!!」


――そして、私たちの視界は鮮血にまみれた。


                    ※


――私たちは男を殺害した後、船内を移動していた。目的地は医務室である。

 廊下にはあるとあらゆる場所に争ったような形跡と血しぶき、そして見たことのある顔をした死体達であふれかえっていた。その光景はまるで、この船自体が殺人鬼と化したかのようで、とても正気でいられるものではなかった。私たちはそんな中を進んでいき、何とか医務室にたどり着いた。しかし、中に入る前に異変に気づく。


「姉さん、中に誰かいるわ」

「ええ。……確かに、人の気配を感じる」


 私はドアノブを握ったまま立ち止まり、アンナに目配せをする。


「……開けるわ」

「ええ」……そして、ゆっくりと扉を開いた。

「――ひっ!?……」


 中にはかつて私達の取り調べを受けた船員のマシューとチーフシェフ、そしてごく少数の船員や乗客達がいた。


「……あ、あなたたちだったのね…大丈夫?」チーフシェフは質問してきた。

「ええ、なんとか。みなさんは?」

「私たちも、どうにかね」


 よかった……とりあえず、全員無事みたいね。


「あの男は? 会わなかったの?」


 彼女のその質問に、私たちはジャンが彼に殺されたことと、その男を私たちが殺害したことを伝えた。


「そ、そんなことが……なんてことなの……」彼女はそう言ってうずくまる。

「困っているところ悪いんだけど、生き残っているのはこれだけなの?」

「さぁ…僕たちも無我夢中でここに籠城しましたから……」


……それなら、探しに行くべきでしょうね。


「わかったわ。私は生存者を探しに行ってみるから、みんなは医務室を守っていてちょうだい。もうあの男はいないはずだから、全部見回るのにそれほど時間はかからないはずだわ」

「す、すみません、よろしくお願いします……」


 こうして、私たちは生存者に見送られて医務室を後にした。


「……誰もいないみたいね……」


 甲板に出てみても、人っ子一人見当たらない。まあ、あれだけの騒ぎがあったんだものね……。


「ええ、まぁ、さっきの人たちみたいにまだどこかに隠れているのかも……」


 アンナとそのような会話をしながら、甲板を進んでいく。


「……どうやら、残りの人たちは死んだか、隠れているようね。今のうちに急ぎましょう」

「わかったわ」


 私たちはそのまま下層甲板まで向かい、騒動のあった冷凍庫を通り過ぎて後部デッキに向かう。ここは、本来なら船員達が船外作業を行う場所だが、今は誰もいない。血痕や隠れている人がいないということは、ここには誰も来なかったみたいね。予想通りだわ。

 私はその場で魔法を使って隠してあったボートの封印を解き、アンナは後部デッキのハッチを開ける。


「…あの人たち、大丈夫かしら?」

「心配ないわ。ジャンが死んだ時にこの船の行き先をハワイ諸島にしておいたんだから」

「……そうね」


 アンナはそれでも心配な素振りを見せながら私が操縦するボートに乗り移る。


「行きましょう、姉さん」

「ええ」


 アンナの声を合図に、私はボートのエンジンをかける。そのままボートは後部デッキから出て、太平洋の海を疾走していく……この海域なら、ポリネシア辺りが一番近いかしら?

 そんなことを考えながらボートを走らせる私の隣で、アンナは不安げな視線を惨劇の舞台となった豪華客船に向けていた。

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