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御見送り ~解剖開始~

 翌日、我々は神明大学附属病院の駐車場に停められた車の中にいた。

 運転手の大倉刑事、助手席にいる鬼島警部、そして、後部座席ですし詰めになっている私と鳴海刑事とカチューシャ……今日は、この場にいる全員にとって気が滅入る作業が待っている。解剖の立ち合いだ。

 我々からすれば、もはや慣れたものと言いたいところだが、それでも目の前で人体が解体されていく様を見るのは気持ちがいいものではない。

 カチューシャに関しては、その解剖を行う相手と犬猿の仲だけあって、余計嫌な気分だろう。

――今日は頑張ろうね……そんな、私の気遣いの言葉にも、車内の人間達は誰一人反応してくれない。その代わりとばかりに、鬼島警部は無言で車を降りた。

 私達もそれに続いて車を降り、病院の正面出入り口に向かう。

 途中、カチューシャにあの絵は回収したか尋ねると、彼女は先ほどまでの不機嫌さなど感じさせない笑顔を見せた。


「ええ。私にとっても興味深い素材だもの。館の方でちゃんと保管してあるわ。それに」


 そこまで言って、彼女は私に耳打ちした。


「あなたが言っていたように、今日この場何かあっても大丈夫なようにちゃんと準備してきたから」


 私はその言葉に、力強く頷いた。

 よく見てみれば、彼女のミリタリー仕様の装いの隙間からは、杖や何かの呪術道具など、いかにもその世界に存在に通じそうな小道具が完全装備されていた。

 普段なら小言の一つでも言いたくなるが、私も今日は似たような装備で来ているので、文句はない。むしろ頼りがいがあるというものだ。

 私の予想が正しければ、今日、この病院であの家族と女性を解剖している間に、なんらかの怪奇現象に巻き込まれる可能性が高い。

 病院という場所もあるが、結局はあの遺体達にこの事件を解明するための鍵が隠されているような気がするのだ。絵は、その鍵を見つけるためのパスポートのようなものだと、今は考えている。

 私達が病院のロビーに入ると、中の雰囲気はいつも通りだった。ただ、少しピリついた空気が流れているようではあるが……それも当然か。ここは都内でも有数の総合病院。様々な人が日々通っている場所である。遺体解剖の日とはいえ平日だから人はそれほど多くはないが、やはりこういう日にも訪れる人はいるようだ。

 しかし、それなりに動きのあるロビーの壁際に設置されているソファには、微動だにしない白衣の女性がいた。彼女はこちらに気が付くと、立ち上がってツカツカと歩み寄ってくる。


「待ってたぞ」


 特徴のある低音の声が、耳に心地よく響いてくる。

 私が挨拶をすると、彼女はロビーの奥に見える廊下を指差した。


「早速だが、解剖に移ろう……ん?」


 彼女――アシュリン・クロフォードは、歩みを止めて改めて我々に目を向け、カチューシャの姿を確認すると、途端に眉間にシワを寄せる……まぁ、周囲が認識しているほど犬猿の仲の相手である。その顔になるのも無理はないか。

 カチューシャの方はどこ吹く風と言わんばかりの余裕っぷりで腕を組みながら笑っているが……彼女から殺気じみたものを感じるのは気のせいだろうか?

 とにかくこの二人は、お互いを嫌っている。それもまた道理ではある。なんせ……二人の立場は大きく違うのだから。

 この状況を見かねたのか、鬼島警部がアシュリンに声をかける。


「アシュリン先生……そっちの準備はもう終わってるのか? 出来れば急いでほしいだが?」

「……ああ」


 アシュリンはそれだけ言うと、再び歩き始めた。我々もそれに続き、解剖室へと向かう。その最中、カチューシャが口を開いた。


「ねぇ、ファング……」


 私は振り返らず、背中越しで返事をする。カチューシャは言った。


「今回の事件は、一体何が原因だと思う?」


 事件の原因……正直言って、それは未だに判然としないでいた。分かっているのは、人が四人亡くなっていることと、遺体が発見された場所がかなり特異な場所であることくらいだ。

 それと、あの和装と洋装の女性……昨日、帰り際にメンバー達にそれとなく質問してみたが、誰もその姿を認識していないとのことだった。

 だとしたら、あの二人は今のところ私だけが認識していることになる……だが、それが今回の事件とどうかかわってくるのだろうか?

 私は率直に言って分からないとカチューシャに伝えた。


「そう……」

「……ま、遺体を本格的に調べてみたら、何かわかるかもしれないぜ?」

「鬼島警部の言う通りだ。解剖は事件の真相に近づくためのこれ以上ない科学的アプローチと言っていい」


……鬼島警部がそこまでのことを意識して発言したかは不明だが、アシュリンとしてはカチューシャに釘を刺したかったのだろう。

 だが当のカチューシャは、そんな言葉など気にしていない様子で、うつむきながら何かを考えている。その様子を見て、アシュリンもこれ以上は言うまいと淡々と歩みを進める。

 受付を済ませて廊下の奥にあるエレベーターに乗り込み、地下の霊安室があるフロアに到着するまでの数分間……誰も言葉を発しなかった。

 これから起こる事態に備えているのか、単に話題がないのか……それは、私としてはどちらでも構わないが、私としてはこの時間がこれから起こる事態に対して精神的に備える最後の時間となるだろう。

 静かに精神統一をしていると、エレベーターは音を鳴らして止まり、扉がゆっくりと開く。エレベーターを降りると、一階とは違って人工的な明かりによって照らされたリノリウムの廊下が姿を見せた。数日前と同じ経路をたどって遺体安置所の扉を開ける。

 中に入ると、途端に消毒薬の匂いが立ち込めるのを感じた。部屋の真ん中に置かれた四つの無機質な金属製ストレッチャーには既に、四人の男女の遺体が見えた。


「まずは着替えてくれ」


 そう言って、アシュリンは隣の解剖室へつながるドアを指差した。

 数分後……それぞれ着替えを終えた我々は遺体安置所に戻ってくると、今度はアシュリンの指示で遺体が乗った四つのストレッチャーを隣の解剖室へ移動させる……どうやら、今回はこちらの解剖室を使うようだ。

 そのことに気が付いたのか、ストレッチャーを移動させながら鳴海刑事が問いかける。


「あれ? 今回はこの解剖室を使うんですか?」

「ああ。なんせ解剖する遺体の数が多いからな。普段使っている一階の場所は、研修医に指導をする教室としても使っているんだ」

「先生は、普段からこちらの解剖室を使っているのでありますか?」


 大倉刑事が質問すると、アシュリンは思い出すように話す。


「う~ん、研修医に指導したりする時や、解剖する遺体が少ない時は、一階の方を使っているが……確かに、まとめて遺体を解剖する時はこっちを使ったりしているな」


 その後、遺体の移動を終えると、いつの間にか解剖室にはアシュリン以外にもう一人、手術着姿の女性がいた。


「先生、こちらは?」

「私の助手だ」

「は、初めまして……」


 アシュリンに助手とだけ紹介された女性は、ペコペコと挨拶をする。見た感じでは二十代半ば……研修医だろうか?

 ヘアキャップから除く栗色の髪やマスクに隠れた彫りの深い顔から判断して、外国人か、そのミックスだろう。あまり気にする必要はなさそうだ。


「では、解剖を始める。時間……十一時ジャスト」


 そう言って、アシュリンは初めに中島健太の遺体を解剖し始めた。

 私はカチューシャと一緒に解剖台を挟み込むようにして立ち、鳴海刑事と大倉刑事も私達と同じようにそれぞれ遺体を挟んで反対側に立つ。鬼島警部は、遺体のつま先の前に仁王立ちだ。

 最初に行うのは、主に死因を調べるために胸部を開くこと……アシュリンは手袋をつけてメスを手に取り、切開箇所を慎重に探っていく。

 そして……その手は心臓の上で止まった。そのまま、アシュリンはカチャカチャと音を立てて解剖を進めていく。

 鳴海刑事はその様子を真剣に見つめていた。大倉刑事も珍しく同じように見守る中、カチューシャはまるで興味が無いといった様子で視線を落としている。

 私はというと、そんな二人とは対照的に、ただじっと遺体を見下ろして立っていた。

 やがて、解剖開始から十秒ほど経過した頃だろうか……突然、カチューシャが声を上げる。


「……待って!」

「どうした? 何かあったのか?」


 カチューシャの声に、アシュリンが反応した。彼女は解剖の手を止めてカチューシャに視線を向けた。


「……少し、違和感を覚えたの」

「……幽霊がどうとか言わないよな?」


 アシュリンが一オクターブ声を低くして問いかけると、カチューシャはマスク姿でニコッと笑った。


「あら、バレた?」

「……続けるぞ」

「待って。違和感があるのはホントよ」

「だったら、さっさと言ってくれ」


 アシュリンは明らかにイラついた様子で言った。隣に立つ助手は、そんなアシュリンの姿を横目でチラチラと見ながら緊張した様子を隠さない。

 だが、カチューシャはそんなアシュリンにも動じずに遺体の胸部を指差した。


「この遺体の胸元なんだけど……特に目立った外傷はないのに、妙に左の乳房が盛り上がっているような気がするのよね」


 カチューシャの言葉を聞いて、私は自分の目でも確認するために遺体を見やる……確かに、言われてみると他の三人と比べて、明らかに遺体の左の乳首が上に突き出していた。

 アシュリンも気付いたのだろう。中島健太の遺体と他の三人の遺体を見比べて口を開いた。


「それがどうかしたのか?」

「……私の記憶が正しければ、そういう症状が起きるのってがん……あるいは、ガン化による腫瘍形成しゅようけいせい……じゃないかしら?」

「……確かにな」


 カチューシャからいかにも科学的な単語が出てきて驚いたのか、あるいは自身も同じ考えに至っていたのか、とにかくアシュリンは静かに頷いてそう言った。


「つまり、この遺体は病死の可能性もあるってことか?」


 鬼島警部がアシュリンに問いかけると、彼女は首を横に振る。


「分からない。もう少し調べてみなければ……」

「その可能性はないと思うわ」


 歯切れの悪いアシュリンに代わって、カチューシャは断言した。


「これだけ症状が進んでいれば、苦痛や外見の変化で病院に行こうとするでしょ? でも、検視報告書にはそれらしい記述がなかったそうじゃない?

 ということは、この遺体の死因は報告書通り、間違いなく手足を骨折したことによるショック死よ」

「ふむ……確かにな。そうとも考えられる。だが、いずれにせよ、これだけの外見変化を伴う病は調べておく必要があるだろう」

「ま、それはそうね」

「あの……ちょっと、よろしいですか?」


 珍しくアシュリンとカチューシャの息があった会話が続いていたその時、遠慮がちに鳴海刑事が手を上げた。彼は全員の視線が集まるのを確認すると、ゆっくりと話し始める。


「今、お二人の会話に出てきたガンについて、詳しく知りたいんですが……」


 その言葉を聞いて、アシュリンはいたずらな笑みを浮かべる。


「なんだ? 医者でも目指しているのか?」

「いえ。ただ、こうして事件に深く関わっている遺体にそういった病気がある痕跡が見つかった以上、その病気についても深く知っておこうと思って……」

「ふぅん……」


 アシュリンは感心したように声を出すと、説明を始める。


「実は、『ガン細胞』と呼ばれる細胞は世界中に無数に存在するんだ」

「そうなんですか?」

「私も専門ではないからうろ覚えで申し訳ないが……確か、人間の身体を構成している細胞の約六割がガン細胞だと言われているはずだ」

「へぇ~、そうだったのでありますか」


 大倉刑事が感心するように相槌を打つ。一方で、鳴海刑事と鬼島警部は信じられないといった顔をしていた。


「話を戻そう。さっきも言った通り、人間は体内に無数の細胞を持っている。その中には、正常な働きをしているものと異常をきたしているものが存在するが、その中でも一番多いのが悪性腫瘍と呼ばれているもので、簡単に言えば人体にとって害をなす存在のことを指している」

「だったら、こいつが病死した可能性もあるだろ?」


 鬼島警部が口を挟むと、アシュリンは頷く。


「その可能性は高いと思うが……」

「なら決まりじゃねぇか。病死以外に考えられねぇだろう?」

「……あなた、手足の骨折について忘れているんじゃない?」

「あ……」


 アシュリンは諭されるように言われて、鬼島警部は思わず声を上げた。

 そう……中島健太の左胸部の件も気になるが、彼の死因は手足や関節の複雑骨折によるショック死……つまり、手足や関節がボロボロに骨折した痛みによってショックを起こし、死に至ったというものだ。この件も、しっかりと調査すべきだろう。


「まぁ、確かに死因がショック死以外にもあるかもしれないけどね」

「例えば?」


 すかさずアシュリンが口を挟むが、カチューシャも同じ速度で返す。


「毒物とか」

「毒殺ってことか?」

「ええ」

「そりゃあ無いんじゃないか? 仮に、本当に毒殺されたのだとしたら、何かしらの痕跡が残っているはずだぞ?」


 鬼島警部は遺体の周りを見ながら言った。だが、彼女の言葉を聞いたカチューシャは首を横に振って否定した。


「ええ、痕跡は必ず残っているはずよ――仮に死因が毒殺ならね。映画やドラマみたいに、都合よく痕跡を残さずに人を殺す毒薬なんてないわ」

「確かに。私もそのような毒薬の存在は聞いたことがない。それを解明するためにも、解剖を再開しよう」


 そう言って、アシュリンは再び解剖作業に取り掛かった。それが合図とばかりに、室内も静まり返る。

 だが、解剖作業を進めつつも、珍しくアシュリンはカチューシャに話しかけた。


「ところで、魔女さんはどうしてこの事件に関わろうとしているんだ?」


 アシュリンがカチューシャの事を魔女と言うには理由がある。私がそのように紹介したからだ。

 もっとも、本人はそのようなことなどまったく信じていないだろう。生粋の科学信奉者であるアシュリンは、あくまで皮肉としてその用語を使っているに過ぎない。


「どういう意味かしら?」

「だって、君がこの事件を解決しようとしているのは、どう見ても正義のためとは思えないからな。それに、ファングによれば、君はこの世界の住人じゃないのだろう?

 いや、正確に言えば、住人じゃなくなった、と言うべきか……まぁ、とにかく、何故わざわざこの世界に関わってくるのかなって思ってね」

「……」


 カチューシャはしばらく無言だった……アシュリンもチラチラと彼女に視線を向ける。彼女の中では、カチューシャに対する質問は単に雑談のつもりだったのだが、私からすればその質問はカチューシャにとって鬼門となるものだ。

 しばらく経ってもカチューシャが黙り込んでいるため、アシュリンは念を押すように言った。


「まぁ、あまり気にするな。この世界の人間でもないのに、何でそこまでして事件に関わっているのか不思議に思っただけだ」

「そうね。不思議に思っただけ……気にしないでおくわ」

「ああ。気にしなくていい。だが、自分が誰かに警戒されていることは忘れないほうがいいだろうな」


 返答がきて安心したのか、アシュリンはやや早口にそう言った。


「あら、どうして?」

「別に……そういう人間もいるかもしれないという推察だよ」


 その言葉を聞いて、アシュリンは大きくを息を吸ってあきれ果てたかのようにため息をついた。


「……あのねぇ、あなたは自分が医者であると同時に探偵だと思っているようだから教えてあげるけど、推理をする時に必要なものは、まず『情報』よ」

「ほう……?」

「そう……例えば、今回の事件で言えば、この遺体が病死なのか事故死なのか他殺なのか……その真相を知ることには豊富な解剖学的知識を備えたうえで慎重に作業することが求められるわ。それによって、様々な情報が得られる」

「なるほど……」


 カチューシャは納得するように呟いた後、「それで?」と聞いてきた。


「それでとは?」

「この遺体に関して、どんな情報を得たんだ?」


 気づけば、アシュリンはすでに遺体の大半を解体し終えていた。カチューシャはその遺体を頭からつま先まで、時には内臓類を手に取って隅々まで観察し、やがて納得がいったように頷いた。


「……彼の死因は手足や関節の粉砕骨折によるショック死で間違いないわ」

「その理由は?」

「まず、この胸部のふくらみは腫瘍形成によるものだけれど、死因とは関係ないわ。本人も何かしらの違和感は感じていたでしょうけれど、記録が見つからない以上、彼はその違和感を放置していた可能性が高いわ。

 次に臓器類だけど、見た感じでは特に異常は見られない。年相応の内臓をしているわ。毒殺の線は薄いわね。そして、これ」


 そう言って、カチューシャは血が付いた手袋を付けた手で遺体の口を開いて我々に見せた。


「舌が切り取られているけれど、これは被害者が生きた時に切り取られているわ。切断面が赤黒くなっているでしょう? これは、生きている時に舌が切り取られたことによる生体反応よ。次にこの歯を見て」


 カチューシャに言われて、その場にいる全員が遺体の歯に目を向ける。


「ここ……黄ばんでいる部分と真っ白な部分があるでしょ?」

「はい、見えます」


 鳴海刑事がそう言うと、カチューシャは説明を続ける。


「詳しいことはもっと専門的な調査をしてみないと分からないけれど、これは強い歯ぎしりによって歯が欠けた証拠だと思うの。

 手足や関節のうっ血から判断して、この被害者は生きたまま舌を切り取られて手足や関節の骨を砕かれた。その苦痛でショック死した。これが私の診断よ」


 そう言って彼女は、アシュリンに目を向ける……少し経って、アシュリンもカチューシャに目を向けた。


「……見事だ。私もそう判断する」


 その言葉は、私も同じだった。てっきり、アシュリンは怪異の専門家と考えていたが、医学的知識も持ち合わせているとは思わなかった。


「ありがとっ!」

「だが、それでも一つ、謎がある」

「ええ。抵抗や捕縛の痕がないことね?」

「ああ、そうだ」

「ど、どういうことでありますか?」


 納得した様子の二人とは違って、大倉刑事はさっぱり分からないといった調子で質問した。


「さっきも言ったけど、この被害者は生きたまま舌を切り取られたり手足や関節を砕かれてるのよ?

 クマちゃんがそんな目に遭ったらどうする?」

「じ、自分は、決してそのような目には――」


 その場面を想像したのか、大倉刑事は慌て始める。


「仮定の話だ。気にするな」


 アシュリンに諭されて落ち着きを取り戻した大倉刑事は、ゆっくりと口を開く。


「か、仮定……そ、そうでありますね……そりゃあ、自分なら思いっきり抵抗して……あっ!」

「気づいたか?」

「そう、生きたままそんなことされたら、誰だって抵抗するわ。当然、身体にはその痕跡が残る。もちろん、そうしないように縄なんかで縛られても、痕は残るわ。この歯みたいにね」

「ところが、この遺体にはそれらしい痕跡が一つも見当たらない……考えられる理由はただ一つ――」

「脳よ」

「はぁ……」


 アシュリンとカチューシャに代わる代わる説明を受けるが、大倉刑事は彼なりにうまく物事を消化しているのだろう。

 そこで、アシュリンは再び解剖作業に戻った。開頭作業に取り組むなか、カチューシャはアシュリンに話しかける。


「ちなみに、事件捜査の鉄則なんだけど……」

「ふむ?」

「それは聞き込みよ」

「聞き込み?」


 聞きなれた単語のためか、オモイカネ機関のメンバー達の表情に変化があった。


「そう、聞き込み……といっても、ただ単に質問攻めにするわけではないわ。あくまでも自然な形で、さりげなく聞くのよ」

「自然に、ねぇ……」


 言うは易く行うは難し……アシュリンからはそのような気配を感じる。その様子を見て、鬼島警部は口を開く。


「だったら、アタシ達に任せな。全員その道のプロなんだからよ。なぁ?」

「押忍、その通りでありますっ!」

「まぁ、そうですね」


 鬼島警部の後に鳴海刑事と大倉刑事が続くのを見て、カチューシャはニコッと笑った。


「あら……それじゃ、その時はお任せしようかしら?」

「ああ……任せておけっ!」


 鬼島警部は胸を張って自信満々に言った。

 その後、開頭作業を終えて中島健太の脳組織を調査するが、めぼしい発見はなかった。


「ふむ……分からんな」

「とりあえずこの遺体はここまでにして、他の遺体の解剖に取り掛かりましょ」

「ああ、そうだな」


 もはや息ピッタリの様子で、二人は助手と共に次の解剖作業に取り掛かる。

 中島健太の遺体を解剖台からどかし、その代わりに台に載ったのは妻である中島裕子だ。

 相手が女性のためか、大倉刑事は一瞬視線をそらせる……あまり触れないでおこう。


「遺体は中島裕子。死因は気道熱傷か……では、始めよう」


 そう言って、アシュリンは解剖作業に移った。


「まずは頸部を切開して頸動脈と静脈を確認して……っと、なるほど……外傷性大動脈瘤破裂による出血が見られるな」

「うわっ!?」


 突然、鳴海刑事が素頓狂な声を上げた。


「どうした?」


 アシュリンが尋ねると、彼は慌てて答える。


「あ、いえ、いきなり血が出てきたもので……」

「そうか……」


何かあったのかと思ったが、そういうわけでもないようだ。


「次は腹部だ」

「はい」

「メスで腹膜を切って中を開く。内臓が見えたところで、その下の筋肉と脂肪層を切開する」

「はい」

「そして、下大静脈を確認する。上大静脈の位置も確認して……よし、ここが心臓だ」

「はい……って、あれ?」

「どうした?」


 それまで調子よく返事をしていた助手の異変に、アシュリンは素早く気付いた。


「あ、あの……血管が見えません」

「何?」

「あら、本当ね」

「これは一体……」


 解剖室にいる全員が、遺体の胸部に目を向ける。だが、我々にはそれを見ただけではよくわからなかった。


「……ふむ。疑問は後回しにして、解剖を続けよう。血管は……見つからないが、あぁ、おそらくこれが心嚢しんのうだろう。ということは、この先に心臓があるはずだ」

「と、ということは、普通の状態なのでありますか?」

「……いや、まったく。この器官が心嚢なのは間違いないだろう……だが、妙だな」

「え? どこがです?」

「普通なら、ここに弁や弁輪といったものがあるはずなのだが……」

「べ、べんりん?」


 大倉刑事は首を傾げるが、鳴海刑事はすぐに反応する。


「あっ! 聞いたことがあります……確か、血液が逆流しないようにするための仕組みですよね?」

「ああ」

「それがないと……」

「この先にあるはずの心室壁を貫いて、直接肺へと血液が流れ込んでしまう……」

「そ、それだとダメなんでしょうか?」

「ああ……もしそうなったら、呼吸困難に陥っているだろう。しかし、そんな様子は見られない……」

「ちょっと切開してみますか?」

「ああ、頼む」

「分かりました」


 アシュリンの助手は、早速準備を始める。


「どうぞ」

「ああ、ありがとう」


 助手が準備を整えて、アシュリンはまず左前胸部を開いていく。


「ここは胸骨のすぐ下にあるため、肋骨の前面が露出しやすい場所でもある」

「へぇ~」


 鳴海刑事は感嘆の声を上げる。それに調子を良くしたのか、アシュリンは授業を行う先生のように饒舌じょうぜつになる。


「ちなみに、ここに横隔膜があり、その下には胃と腸の一部が入っている」

「そうなんですか」


 さらに、アシュリンは助手に指示を出す。


「まずはここから切開していく。縦に切り開いて、胸腔内の空気を抜くんだ」

「はい」

「それから、腹膜を切り開く。腹直筋と腹斜筋の間にあるのが腹膜だ」

「はい」

「次に、胸膜を左右に開く。胸膜の中央に、心臓を覆うようにして存在するのが心膜だ」

「はい」

「これで心臓の周りの臓器が露わになったわけだが……んっ!?」

「どうしたの?」


 カチューシャに問われて、アシュリンは胸部からメスをどける。


「見てみろ」


 アシュリンに言われて、カチューシャは胸部に目を向けた。私達も同じようにする。


「これって……?」


 私達の視界に入ったのは異様な光景だった。

 何故なら、心膜を開けた瞬間に見えてきたのだ―――心臓の表面にびっしりと生えている黒い塊を……。


「ど、どういうことでありますか?」


 大倉刑事が、うろたえた様子でアシュリンに問いかける。


「もしかして……血管腫かしら?」


……どうやら、カチューシャはこの黒い塊に見覚えがあるようだ。


「けっかんしゅ?……ああ、そういえば前に何かで読んだことがあるな。確か、良性の腫瘍だと言っていたが……」


 鬼島警部がそう言うと、カチューシャは頷く。


「ええ。ただ、心臓の中にできるとは知らなかったけれど……」

「……」


 アシュリンは血管腫と思われる黒い塊から目を離さずに沈黙している……どうやら、これは予想外の事態らしい。

 私はアシュリンに、他に気になる点はないか訊ねた。


「いや、特には……確かに心臓の内部に出来るという報告は聞いたことはないが、まったくあり得ないことでもないだろう」


 彼女はそれだけ言って、助手とカチューシャと共に遺体の解剖を再開する。

……被害者である中島裕子の死因は気道熱傷によるもの。

 しかし、彼女の頸部からは大量の血痕が発見された。アシュリン曰く、外傷性大動脈瘤破裂による出血らしい。名前だけ聞けば、外傷を負って動脈が傷ついて出血したということだろうか?

 しかし、ナイフで頸動脈を切り裂くのとは違って、外傷らしいものは見当たらなかったが……。

 そして、現場には争った形跡はなく、家中の鍵もかかっていたことから考えて、被害者達は今のところ無理心中ということで警察の方は動いているはずだ。

 私も、それに近い考えを持っている。ただし、そこに怪異が絡んでいる点は別だ。被害者達は、怪異のなんらかの力の作用によって、殺されたという可能性が最も高いと思う。

 では、彼らが殺された理由は何だろうか?

 考えられる可能性としては2つ。1つは自殺。もう1つが他殺である。

 まず、前者の可能性についてはほぼないと言っていいだろう。もしも、彼らが自ら命を絶とうとするならば、必ず遺書を書くはずである。しかし、現場にはそういった物は一切なかった。となると、後者の方が可能性が高いと言えるだろう。これまで捜査で怪異の存在を否が応でも見せつけられている以上、この点はゆるぎない。

 そして、この家族の無理心中に見せかけた殺害には、あの死絵と異形の大菊牡丹紋、そして和室の床下から発見されたという若い白人女性が大きく関わっている可能性が高い。

 そこまで考えて、私は不意にアシュリンの声で思考の海から戻ってきた。


「――ファング? 何か意見はあるか?」


 私はアシュリンにそう問われて、死因は報告書通り気道熱傷で間違いないかと訊ねた。


「ああ、それは間違いない。どうしてこうなったのかは分からないがな」

「と、言いますと?」


 大倉刑事が質問すると、アシュリンは該当部位を指差しながら答える。


「まず、身体の内部はこれほどの熱傷を負っているにも関わらず、被害者の外側にはなんらそれらしい痕跡がない。普通、肺や気道がこのような状態になれば外側には何らかの痕跡が残っているはずだ」

「被害者の口に管でも突っ込んで、煙を吸わせたりバーナーで焼いたりしたらいいんじゃないか?」


 鬼島警部が言うと、アシュリンとカチューシャは首を横に振る。


「仮にそうした場合、被害者の口の周辺や口腔内にそれらしい痕跡が残るでしょうし、そもそもこの気道の熱傷と肺の炭化は不自然なのよ」

「ああ、そうだ」

「どういうことですか?」


 鳴海刑事が質問すると、アシュリンは該当部位を指し示しながら話す。


「この気道熱傷は、屋内や森林での火災に巻き込まれた人物に良く起こる傷だ。死亡原因の一位か二位を争うほどありふれた傷でもある。これほどの損傷具合なら、死因は気道熱傷で間違いないだろう。

 だがこっち……この肺の炭化は、気道熱傷とは釣り合わない。肺がこのようになるには、タバコを一日に数箱消費する生活を数十年にわたって継続する必要がある」

「だったら、彼女は喫煙者――あ、そうか。口腔か」

「そう。もし彼女が喫煙者ならば、口腔や気道にその証拠がある。しかし、それらしい痕跡は見当たらない。それに、この大動脈瘤の破裂も気になる点だな。見た感じでは、かなり大きな動脈瘤だったはずだ。首に何らかの違和感を感じてもおかしくはないだろう」

「でも結局、彼女はそれを放置していた……」


 アシュリンとカチューシャの推理が終わると、大倉刑事がため息交じりに言った。


「……結局、この遺体も不自然な点がある、ということですな……」

「ああ、不甲斐ないが……その点は認めざるを得ない」

「で、でもっ!」


 鳴海刑事が声を上げると、その場にいる全員が彼に注目した。


「その……魔術的な何かだったら、こうすることも……ねぇ?」


 鳴海刑事に視線を向けられて、カチューシャは微笑む。


「ええ。もちろん可能よ」

「くだらん」

「ただその場合、魔力残滓まりょくざんしと言って、術を施した痕跡が残るわ。でも残念ながら……これらの遺体からは何かしらの魔力を感じるんだけれど、それが彼らを死に追いやったものかは分からないわね」

「そ、そうなんですか……」

「満足か? 次の遺体に取り掛かろう」


 これ以上は聞きたくない……そんな調子で、アシュリンは助手と大倉刑事に遺体の片付けと搬送を命じて手袋を新しいのに替える。

 新たな遺体――中島家の長男である中島翔太の遺体が解剖台の上に載せられると、アシュリンは遺体の前に立つ。


「検体、中島翔太。死因は頸部圧迫による窒息死か……見た感じ、その通りだな」


 しかし、何があるかは分からない……アシュリンからはそのような気配が感じ取れた。

 そして、アシュリンは解剖を始める。


「――さて、始めよう」


 そう言って、アシュリンはメスを手に取った。


「まずは喉元から切開していくぞ」


 アシュリンはそう宣言すると、胸部中央付近から腹部まで一気に切り開く。

……案の定、大倉刑事は目を背ける。鳴海刑事は、なんとか持ちこたえている感じだ。鬼島警部は慣れているのか、平然としている。

 そして、私は……別の理由で目が離せなかった。

 これが、中島家の最後の遺体……この遺体に事件に関する何らかの手掛かりがないとすると、必然的にあの若い身元不明の白人女性がますます怪しくなってくる。

 アシュリンは胸骨下部の肋骨に沿ってメスを入れていく。そこから下腹にかけて縦一直線の傷をつけた。その後も皮膚や筋肉、脂肪や内臓を切り分けながらさらに奥へ進んでいく。

 鳴海刑事はとうとう見ていられなくなったのか、顔を手で覆っていた。鬼島警部は特に何も言わずに、その様子を見ている。

 その後も解剖作業は続けられ、あらかた解剖し終えるとアシュリンは『ふ~』と息をついた。よく見てみれば、その額には汗が浮かんでいる。

 助手がその汗をぬぐうと、アシュリンは『ありがとう』と言ってメスを置いた。


「結論から言うと、この遺体の死因は首を絞められたことによる窒息死だ。しかも、もっとも不可解な点が少ない遺体だな」

「と、言いますと?」

「この遺体には、他の遺体と同様に抵抗した痕がない。それ以外はいたって普通の、というと語弊があるが、まぁ、普通の遺体だ」

「となると、残りは一人だけだな」

「ああ、さっそく取り掛かろう」


 アシュリンがそう言うと、もはや当たり前のように助手と大倉刑事が遺体を解剖台から降ろす。

 そして……その代わりに台の上に載せられたのは、身元不明の若い白人女性だった。

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