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現世と幽世 ~新しい住人2~

「――でよ、アタシの馬券が見事に当たったわけよっ!」

「へぇ、すごいじゃないっ!」

「だろ? いや~、あんときはスカッとしたもんよっ!」

「……警部殿。どうか……どうか、仕事に励んでほしいであります」

「おう、あとでなっ!」

「……うぅ……」

「今はやめときましょう、大倉さん。今の鬼島警部に何を言っても、無駄足です」

「押忍、先輩……」


 事件を解決してから数日後……我々はいつも通りの職場で、いつも通りに退屈な書類仕事に精を出していた。

 一名ほど、その仕事を朝から放棄している者がいるが、それもまた、いつもの光景だった……減俸処分を考えなければなるまい。

 とにかく、あの不可思議な呪術を取り巻く、陰惨な事件は幕を閉じた。犯人はすでにこの世にいないが、あの事件の生存者は今も存命であり、今後は同じような事件も起きないだろう。

 しかし、ここ数日は職場でいつもと違う変化を感じた。カチューシャだ。

 彼女と鬼島警部は、あの事件の後になぜか意気投合し、今もこうして鬼島警部の競馬の話にカチューシャが相槌を打っている……鬼島警部の競馬談議に花が咲くのは、カチューシャが聞き上手のせいもあるだろう。

 報告書の作成のためにパソコンの画面を睨みつつ、彼女達の様子を探るが、ここ数日はずっとあの調子だ。絶対に、鬼島警部には報告書を作成してもらわなければならない……絶対にっ!


「はぁ、今日も楽しかったわ! また来るわねっ!」

「おうっ!」


 そうして、ここ数日ですっかり当たり前となった挨拶をかわし、カチューシャは立ち去ろうとした。


「あ、そうだ。ファング?」


 だが、今日はなぜか私を呼び止める。私はキーボードを打つ手を止めて、カチューシャに目を向ける。


「今回の事件の事なんだけど……あの後現場を調査してみたけど、なんの痕跡も無かったわ」やはり……。

「どういうことですか?」話に興味があるのか、鳴海刑事が質問する。

「あのね。あの後、私はファングに頼まれてあの現場でもう一度調査してみたんだけど、物理的にも魔力的にも、なんの痕跡も見つからなかったの」

「はあ……?」


……鳴海刑事はいまいち理解できていないようなので、私はカチューシャの説明を補足することにした。

 狗神いぬがみとの死闘を終えてみんなと合流した後に、島谷宅は再度鑑識作業が行われたわけだが、その時には何の痕跡も残っていなかったそうだ。

 私が生意気な捜査員と共に島谷宅を出て、ほんの十数分ほど……そんなわずかな時間に、狗神との死闘の痕跡がすべて消えたのだ。自宅に帰って翌日に警視庁に登庁した時、私はそのことを協力的な捜査員から聞いた。

 考えられる可能性としては、なんらかの霊的な作用が働いたということだ。物理的にはありえない。

 では、誰がそれを実行したのか……タルホ、狗神、それとも狗神に関わって亡くなった者の霊達……あるいは『その者』……最後に残された選択肢が、今の私にとっては一番可能性が高い。だが、その理由はまったく不明だ。

 念のため、私はカチューシャにも現場検証を依頼した。もちろん、『その者』の存在は伏せたまま、充分に注意するように言ったうえでだ。

 結果、カチューシャによればなんの痕跡も無かったらしい……彼女の口ぶりからして、おそらく『その者』の存在を匂わすようなものも発見できなかったのだろう。

 だとすれば、ますますそのことが不可解で気がかりになる……一体、誰が手を回したのか……いずれにせよ、私はそのことを『その者』の存在を隠したまま鳴海刑事達に伝えた。


「はあ、そんなことがあったんですか……」

「大丈夫なのか?」


 鬼島警部がそう聞いてくるが、私は分からないとだけ答えた。それが事実だ。


「まぁ、私もここ数日ずっと警戒して過ごしたけれど、特にそれと関連するようなことは起きなかったわ。みんなは?」

「僕は特に」

「自分もであります」

「アタシは……お馬ちゃんで儲けられたことって、なんか関係あると思うか?」

「……それは、あなたの運の良さが原因だと思うわ」

「やっぱり!? うっわ、やべぇ……いくらぐらい儲けられんだ?」


……金勘定を始める鬼島警部は無視するとして、私はカチューシャと二人の刑事に対して、今後しばらく身の回りに警戒して、何もなければ気にする必要はないだろうとだけ伝えた。それが正しい選択なのかは分からないが、いつまでも気に病むことはないだろう。


「分かりました、気をつけます」

「うむ」

「そうね。私も、しばらくは研究と並行してそのことについて調べておくわ」


 私の話を聞いて、三人とも納得してくれた。今のところ、これがベストな選択であることを祈るばかりだ。


「それじゃあ、みんな。またねっ!」


 そう言って、カチューシャはこのオモイカネ機関本部の出入り口となる扉を出ていくのではなく、おびただしい書架のある階段を飛び降りて暗がりの中へ消えてしまう。いつもの転移術だ。


「……いつもながら、カチューシャ先生はどうやって帰宅しているのでありましょうか?」

「やめましょう、大倉さん。いくら僕達が考えても、仕方ない問題でしょうから」

「そ、そうでありますな。カチューシャ先生は暗がりに入れば家に帰れる……自分はそう結論するであります……」


……この二人は、初めてカチューシャが姿を消すのを見ると、大慌てでこの本部の隅々まで捜索したが、結局見つけることができずに意気消沈していた。

 だが、翌日にカチューシャが再び元気な姿を見せると、驚愕の表情を浮かべていた。以来、彼らはカチューシャが姿を消すことに対して慣れてしまっている……人間の慣れというのは恐ろしい。まぁ、この場合は余計な説明がいらないために助かってはいるが……。

 その後、あの手この手で書類仕事から逃れようとする鬼島警部を説得しつつ、この日の業務を終えた。


「じゃあな、神牙」


 結局、報告書の数行を書いて最後に退出した鬼島警部を見送り、しばらく残業に励んだ後に私も本部を退室する。

 無数の倉庫がある廊下を歩いて業務用エレベーターを使って警視庁一階のロビーに着いた。


「あ、おい」


 受付の前を通っていると、背後からそのように声をかけられた。振り向くと、そこには本郷警部と協力的な捜査員、生意気な捜査員の姿があった。彼らとは、本当にこのロビーでよく会う……待ち伏せされているのだろうか?


「どうだ、調子は?」


 まるで同じ部署にいる同僚に接するように、本郷警部が聞いてくる。私は、問題ないとだけ伝えた。


「そうか」

「あの……」その時、生意気な捜査員が声を上げた。

「あの時は、助けていただいてありがとうございました」そう言って、彼は深く頭を下げる。

「僕は、まだ魔物とか幽霊とか、そんな存在は信じられないですけど……助けてくれたこと、本当に感謝しています」


……意外と律義な人である。私は彼に、問題ないとだけ伝えた。その隣では、本郷警部や協力的な捜査員が後輩の成長を慈しむかのような視線を向けていた。


「それはそうと、お前に伝えておきたいことがある」


 そう言って、本郷警部は厳しい表情を浮かべる。まさか、お説教だろうか?


「あの時、お前らが儀式とやらを始めた後、俺達はあの家を包囲してたんだが、いつまで経っても出てこねぇから心配になって様子を見に行ったんだ。ところが、玄関のドアは開けねぇし、窓は締め切ってて黒い靄に包まれて何も見えなかった。家中の窓全部がそんな感じだったんだ。

 ガラスを割ろうとして何度も蹴ったりしてみたんだが、ビクともしやがらなかった。そんなわけでどうしたもんかと考えていたら、あのばあさんやおチビちゃんが道路の角からひょこッと姿を見せてな」


 本郷警部が言っているのはおそらく、矢島愛と矢島タエだろう。


「不思議に思って声をかけたんだが、彼女達は心ここにあらずって感じでな。そのままフラフラッとお前らがいる家に入ろうとしたんだ。ま、その後はお前らも見たとおりだったがな」


 まぁ、本郷警部の言っていることは本当だろう。カチューシャの調査によれば、彼女達からも魔力の痕跡は見つからなかったそうだが、あの時の状況を考えれば、彼女達はその時に狗神の支配下にあったのだろう。それも、今となっては不明であるが……。

 私は本郷警部に、矢島家の人間は全員無事か訊ねた。


「ああ、問題ねぇ。ただな」そう言って、本郷警部は声をひそめる。

「この事件……上は人間が精神錯乱したってことにしたいらしい」


……その言葉を聞いて、私は今回の事件に『その者』や『組織』が関わっていることを確信した。事件発生直後は分からないが、少なくとも事件の後始末には奴らがガッツリと関わっているのだろう。でなければ、捜査一課にそのような命令が下ることはない。

 私は本郷警部の忸怩じくじたる思いをくみ取り、後は我々に任せるように言った。


「ああ、任せたぞ」


……意外と、本郷警部はあっさりとそう言った。


「あの」


 私が本郷警部達と別れようとすると、不意に生意気な捜査員から声をかけられた。


「神牙さん達の部署……捜査五課って、どこにあるんですか?」


……私はその質問に、『秘密』とだけ答えてその場を立ち去った。

 そして、そのまま帰路につく……今回の事件は、難解というわけではなかったが、精神的にも肉体的にも疲れた……この何気ない日常でさえ、事件が解決してから数日経った今でも愛おしく思える。

 騒がしい都心から離れて、緑と静けさが両立している住宅街に入り、自宅の前に着く。

 車を車庫に入れて玄関から入り、一通りの家事と食事を済ませて風呂に入って心身をリフレッシュさせると、迷うことなく自室に入る。

 普段ならば、この辺りで読書や瞑想めいそうをするところだが、今回は違う。

 私は常日頃から使っているカバンから専用端末を取り出し、『その者』に連絡を取る。連絡事項はすでに決まっている。


『証拠を隠滅したのはお前か?』


 そのメッセージを送信してから数分ほど経過して、『その者』から返信が来た。


『私ではない。組織の別の部署がやった』


 奴は、特にごまかすこともせずにそう言ってのけた。


『おかげで、書類の作成や現場検証に支障をきたしている』

『その件なんだが、怪異について何か情報はないか?』


……ちょっと何を言っているか分からない。理解したうえで証拠の隠滅をはかったのではないのか?


『どういう意味だ?』

『言葉通りの意味だ。少なくとも、私の方では事件についても怪異についてもなんら詳しい情報が掴めなかった。結局、君が事件を解決したと情報が手に入ったと思ったら、それを検証することもなく組織内の何者かが工作したらしい』


……にわかには信じがたい。私の推測だが、『その者』は組織内でなんらかの情報部門に属しているはずだ。でなければ、普段からあれだけ精度の高い情報を提供することは出来ないだろう。

 そんな奴でさえ把握していないことがある……まぁ、奴の言うことが本当ならば、組織内の情報には詳しくないということになるが……信じるかどうかは別として、今は話を進めるほかないだろう。


『ならば、我々はどうしたらいい?』

『特に何かをする必要はない。いつも通りに報告書を作成し、書架にしまってくれ』

『本当にそれでいいのか?』

『私もそれが最善かどうかは分からないが、すでに事件に関わるあらゆる証拠が消えてしまった以上、それ以外にやることはないだろう』


 その言葉を聞いて、私は嫌な予感がした。


『まさか、矢島家やあの事件に関わった人間を殺すつもりじゃないよな?』

『それも、私には分からない。だが、その人達までどうにかしたいなら、証拠を消すのと同時期に対処していたと思うから、大丈夫だと思う』


 大丈夫だと思う……か。現場に出てないから仕方ないとはいえ、ずいぶんと他人行儀な言い方だ。それとも、私の性格が甘すぎるのだろうか?

 そんなことを考えて『その者』との通信の手を止めていると、メッセージが来た。


『それはそうと、いい加減に自宅の結界を解いたらどうだ? いつも行方不明になっていては、こちらも心配になるんだが?』


 奴が言っているのは、私がこの家全体に張り巡らせた結界の事を言っているのだろう。この結界は、赤外線などの物理的なセンサーや霊的、魔力的なセンサーを無力化することができる。

 つまり、ほとんどの人間や魔物にとっては、この家は常に空き家になっていることになる。もっとも、常時監視していれば、玄関や車庫の出入りを確認して在宅か否かを判断できるため、万能というわけではない。

 私がこのような措置を施しているのは簡単なこと……何者も信用していないからだ。酷な言い方になってしまうが、オモイカネ機関のメンバー達やカチューシャ、アシュリンなども全面的には信頼していない。

 彼らに対して疑念を抱いているわけではない。私に対して悪意を持つ何者かが、彼らを使って私になんらかの行動を起こすことを考えての事だ。ついでに言えば、『その者』や『組織』の事も信用していない。

 そういうわけで、私は私の根城ねじろであるこの自宅を物理的にも精神的にも要塞として管理している。そんなわけで、『その者』に対する返答も決まっている。


『断る』

『そうか。まぁ、こちらも君に無理やり何かするつもりはない。それでは』


 明らかに不満な様子を画面越しに醸し出して、『その者』は通信を切ってしまった。

 なぜ奴が結界の事で不満を感じるのかは不明だが、私と奴、そして『組織』との間に何かあった場合、この家は私が持っている有力なカードの一つだ。だが、それだけでは心もとない。

 私は端末をカバンにしまい、部屋の電気を消してカーテンを閉める。これで、外からはこちらの様子を光学的に見ることは出来ない。明かりがないのは少々不安だが、レースのカーテンを閉めてもなお漏れてくる月明かりが何とかしてくれるだろう。

 私は、隣室へとつながるドアを開ける。隣室は、私の自室と同じように月明かりで満たされていた。


「なんじゃ?」


 私が部屋に入ると、タルホがこちらに視線を向ける。私は彼女に、何か異常はなかったか訊ねた。


「いつも通りじゃ。なんもありゃせんよ」


 タルホはそう言って、座っていた座椅子から立ち上がる。


「それよりも、新しい入居者を紹介せんとな」


 見ると、タルホの隣にある暗闇で、何かがうごめいた。その横では、サキが窮屈そうに縮こまっている。


「紹介しよう。今日からこの家の新しい入居者となった、狗神いぬがみじゃ」


 タルホの声に反応すると、狗神は前に出る。すると、月明かりに照らされて狗神の全貌が露わになった。

 灰色と白色が混じる体毛に覆われた肉体は、人と動物のハイブリッドのようだが、ベースは人間らしい。その爪も、牙も、鋭さを失ってはいなかった。

 だが、その金色の瞳にはすでに憎悪や怨嗟のようなものはなく、ただジッと私を見つめてくる。

 良かった……心からそう思えた。

 事件が起きてから翌日、私は怪異の正体が狗神であることを知って早速矢島家の歴史を調べた。すると、矢島家は明治初期に突然不動産業や農業で成功した記録が見つかった。

 狗神は、方法は色々あるが、ほとんどは動物の犬に対して何らかの拷問や虐待をして死なせた後に、自分の家の守り神として使役する。おそらく、矢島家の成功もその効果によるものだろう。

 だが、同時に狗神は無念の死を遂げた犬の怨念そのものでもある。なぜそうなるのかは今もよくわかっていないが、ある日突然幸福をもたらしていた家の者を殺すことがある。

 そのため、私は矢島家の来歴を調べ上げ、矢島家の庭にある木の下を掘った。すると、白骨化した犬の頭部が見つかった。矢島家の人間は驚いていたが、私がなんとか対処することを告げると納得してくれた。一応、彼らには口止めをしてある。

 その後、箱とその中に入っていた小道具、そして頭部をお祓いし、しかるべき主の元へ帰した。狗神の首から数珠で垂れ下がっている頭部の骨と、茶色の毛皮の腰巻に麻ひもで括りつけられている木箱がその証だ。

 供養のおかげもあってか、狗神にはすでに怨恨めいた感情は感じられない。だからといって、油断はできない……狗神が守り神となるか死神となるかは、使役する人間しだいだ。


「ほれ、さっさと挨拶せい」


 そんな気難しい存在の背中をポンポンと叩いて、タルホはニコッと笑う。


「グルルッ……初めまして。私は狗神」


……声色から考えて、どうやらこの狗神は女性格のようだ。生前はメスの犬だったのだろう……よく見てみれば、その体躯たいくはどことなく女性のように見える。


「今後ともよろしく……」

「よしっ! 挨拶も済んだことじゃし、今宵は宴じゃっ!」


 そう言って、タルホはスッとその場から消えてしまう。部屋に残されたのは、私とサキと狗神だけだ。


「……」


……ジッと見つめあってもしょうがない。私は、狗神に自己紹介をした後に彼女の名前を訊ねた。


「……ハナ」


 しばらく逡巡した様子を見せた後、ハナはそう答えた。

 私はハナに、これからよろしくとだけ伝えた。


「……うん」


 月明かりに照らされて、犬の顔は微笑みを浮かべた。

 タルホにサキにハナ……この者達は、私が『その者』や『組織』と対立した時にこの自宅と共に私の有力なカードになりえる。もっとも、そう考えることに気が引けるのは事実だ。

 彼女達を、自分の揉め事に巻き込みたくない……冷徹な思考の荒海の中で、私の心の船は荒波にもまれながらもそう願っていた。

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