94.引き千切られた契約の糸を手繰る
契約による繋がりは絶対だ。なぜなら悪魔は契約した相手を見失うわけにいかないのだから。契約を履行するため、そして契約後にその魂を回収するまで。決して切れない糸を繋ぐ。その糸が、無造作に引き千切られた。こんなことが出来る種族は限られている。
「ぐっ……カリ、ス……」
あの子に何かあった。隣の部屋で絵を描いていたはず。途中で眠いと口にした。だが何も異常はなかったのだ。強制的に断たれた繋がりの反動を引き寄せた。あの子にこんな痛みは似合わない。すべて我が身に引き受け、立ちあがろうとして膝から崩れた。
「陛下!? 何がっ!」
「カリス様に何かあったのですね?」
混乱したマルバスではなく、呟きを聞き取ったアガレスの腕を掴む。激痛に引き裂かれる心臓の上を押さえた手で、隣の部屋を示した。はっとした顔で立ち上がったアガレスは、珍しく足音を響かせ隣室へ駆け込む。
「カリス様? カリス様、お返事をしてください。アガレスです。カリス様!」
ああ、やはり。あの子が狙われたのか。激痛に痙攣する指先を噛みちぎる。床に垂れた血へ魔力を注ぎ、魔法陣を描いた。早くしなくては、あの子が泣いているだろう。寂しがっているはずだ。怖がっているかも知れない。駆けつけて、大丈夫だと抱き締めてやりたかった。
「バエル様、配下に招集をかけます」
状況を察したマルバスが動く。許可を与える頷きを確認すると、大急ぎで駆け出していった。外が慌ただしくなる。描き終えた魔法陣に両手を突いたが、堪え切れずに崩れ落ちた。
魔力が抜けていく。カリスとの間に強い契約を整えたからこそ、破られた時の反動は大きかった。承知で選んだ契約だ。本来なら契約者と悪魔が半分ずつ負担する痛みを、すべて引き受けた。
堕天したあの日を思い出す。純白の羽を折られ、手足を切り落とされた。肌を焼く激痛にのたうったあの日と、どちらが痛いか。比ぶべくもない。カリスと引き離された痛みが、この身を激しく罰していた。体より心が痛いと――分たれた魂を求めて泣き叫ぶ。
「陛下、お手伝いを」
アガレスが膝を突き、血で描かれた魔法陣に魔力を流す。崩れかけた魔法陣を構築し直し、改めてカリスの魂の情報を追加した。固定された座標は、魂の居場所だ。アガレスの瞳が赤く光った。狼の毛皮がぶわりと逆立つ。放出される魔力が魔法陣の印を固定し、俺とアガレスは一緒に空間を捻じ曲げた。
手を伸ばす。あと少しだ。傷ついて泣いていないか? 苦しいなら俺を呼べ。必ず助けてやる。カリス、お前は俺の宝なんだ。
「パパっ! 助けて! 怖いよ」
聞こえた! 届く!! 残った魔力を絞り出した。めいっぱい伸ばした指先に触れたのは、柔らかくて小さな温もり――カリス、大切な我が子。我が魂の拠り所よ、契約者である前に……そなたは我が一部だ。転がるように落ちた冷たい石の床で、俺は泣きじゃくるカリスを抱き締めた。