38.悪夢より残酷な地獄
ようやく眠ったか。腕の中から声がほとんど聞こえなくなり、寝息が規則正しく胸を動かす。カリスは純粋だ。何でも受け入れてしまう。それが自分に対する悪意でも関係なかった。
過去の厳しい環境を生き抜いて、歪まずにいられたのは純粋さのお陰だ。だがそれ故に逃げ出すことを知らなかった。哀れなほど傷だらけの心は、悲鳴をあげる。悪夢となって己を苛むのは、傷が治りつつあるからだ。塞がる瘡蓋が痒いのと同じ。掻きむしってしまえば、元に戻る。瘡蓋に触れようとする指を戒めるように、違うことへ興味を引いた。
名前が書けたと喜ぶカリスは、悪夢も見ずにぐっすり眠るだろう。その間に体は作り替えられる。我らとは違う過程を経て、同じ種族になるのだ。寿命が伸び、人より成長が遅くなるはずだった。
眠ったカリスをそっと抱き上げる。地下で行われる、この子を虐げた者らへの仕置きを確認しておくか。絶対にカリスには見せられない、聞かせられない光景だった。それでも手元から離す選択肢はない。だから幾重にも結界に包んで音も臭いも遮断した。
空間転移で降り立ったコキュートスの川は黒い水に彩られている。濁っているのではなく、水自体が黒かった。飲めば喉を焼き内臓を腐らせ、体を溶かす。猛毒の水しかない場所で、罪人は渇きと激痛の間を行き来する。ここは地獄と呼ばれるが、この程度は生ぬるい処置だった。
「これはこれは、我が君。手を下されますか?」
アガレスが勿体ぶった言い方で伺いを立てる。答えを知っているくせに、芝居がかった態度だ。くつりと喉を震わせて笑い、吐き捨てた。
「我が腕を振るう僥倖をこの者らに与えよと?」
問い返した俺に、満足そうにアガレスは頭を下げた。実力も残虐さも俺に並ぶくせに、自ら臣下に下る決断をした変わり者だ。いつも何かを確かめるようにこちらを試し、答えに満足して引き下がる。
「引き裂いておりましたが飽きましたので、潰してみました」
穏やかな笑みを浮かべてカリスに文字を教える姿が嘘のようだ。鋭い爪に垂れ下がるのは、引き裂いた女の肉だった。手を振るって捨てた肉を、数人の男が取り合う。口に入れて咀嚼し涎を垂らした。このコキュートスにいる限り死ぬことも出来ない。だが空腹は募り、渇きは止むことがない。激痛は積み重なり、気が狂う救いも望めなかった。
「うぁああ!」
化け物のような唸り声を上げる女の下半身が擦り潰されていく。それを冷めた目で見下ろしながら、アガレスが唇に指を押し当てた。迷うような仕草だ。
「思ったより楽しくありません。他の方法を試しましょう」
「他の罪人はどうなっている?」
「あちら側におりますよ」
アガレスが指差した先には、カリスの記憶と悪夢から辿って捕まえた罪人が食われていた。文字通り生きたまま食われていく。唸りを上げる魔物が噛みつき、千切った肉を咀嚼した。食われた場所から蘇生するため、魔物は最高の食糧を手放すことはない。
「こんなものか」
「もう少ししたら別の罰を与えます。人間は順応力が高い生き物ですからね。慣れてしまっては意味がありません」
気が狂うことがなくとも、同じ罰では痛みも感覚も麻痺する。そんな刑罰は意味がないと言い切ったアガレスの笑みに頷いた。その通りだ。この子は望まないだろう。それでも幼子を死の淵に追いやり、泣き叫ぶ様を愉しむような輩は許されない。
神を信じるこの子は、想像したこともないだろう。どんな救いも届かぬコキュートスに落とされる罪人は、その存在自体が呪いなのだ。いつか消滅を許されるまで、半永久的に苦しみ続けるがいい。
確認を終えた俺はカリスと部屋に戻る。体に付いた臭いを消し去り、柔らかな寝具でカリスを包んだ。愛らしい兎の着ぐるみを纏ったカリスは、僅かに口元が微笑んでいる。伝わる感情は柔らかく、何かを食べた夢なのか。口がモゴモゴと動いた。
「存分に楽しめ、夢とは本来……心を休める場所なのだから」