29.悪夢ではない地獄の底
こんなのは夢、最悪の悪夢だわ。そう叫んだ女の口も、今は悲鳴と吐息しか漏らさない。眠りを深くする魔法を掛けて結界で保護したカリスを抱いて、コキュートスの石を踏む。ここは地の果て、人間の言う地獄だった。
炎が燃え盛っていたり、鋭い棘が生えていたりはしない。どこにでもありそうな地下水脈と洞窟に思える。だがここは悪魔によって堕とされた、最悪の罪人達の住処だった。久しぶりの女を見つけて喜ぶ囚人も、アガレスや俺に近づく勇気はない。いずれ打ち捨てられる女を心待ちにしながら、取り囲んでいた。
「お聞きした限りの再現はしておきましたよ」
アガレスがにやりと笑う。狼の頭と人の体を持つ彼は、その鋭い爪を振るった。傷ついた肌は赤く染まり、それが一瞬で修復される。そう、治療ではなく修復なのだ。見た目だけ直すが、痛みは残る。このコキュートスの川に掛けられた呪いだった。
狂えないよう精神を固定された女は、悲鳴を上げて逃げ回る。追いかけるマルバスが獣の姿になった。四つ足で走る足元の砂利は音を立てない。しなやかな動きで近づき、腕を振り回して半狂乱の女の肩を噛みちぎった。激痛に泣き喚く姿に、苛立ちが募った。
幼子を傷つけ虐げた者が、この程度の痛みに騒ぐのか。声を殺して泣き、笑顔を見せたら殴られたこの子より、お前の方が被害者の顔をするのは許せない。
「絶対に殺すな」
「適度に直しながら遊びます」
機嫌よく笑うアガレスは、女の傷が消えたのを確認し、爪を食い込ませる。このまま悪魔達の気が済むまで遊ばれ、最後にコキュートスの囚人へ下げ渡される。珍しい女の罪人が堕ちたと大喜びする彼らが、この女をどのように扱うか。
腕の中でカリスが身じろぐ。これ以上は魔法の負荷が大きすぎる。腕の中で眠る幼子は痩せすぎ、体力がなかった。魔法に耐える力が足りず、不安定なのだ。
「アガレス、先に戻る」
俺の視線の向かう先を確認し、事情を察した部下は一礼した。
寝室に戻りすぐに魔法を解く。すぐに目を覚ましたカリスは、ほわりと笑った。
「ずっと、一緒?」
「そうだ。一緒だ、おいで」
怠い腕を伸ばす幼子が愛おしい。この身が堕ちてから、これほど豊かな感情を抱いたのは初めてだった。呼ばれた気配に反応しなければ、この子は失われた。あの日、気まぐれを起こさなければ……。
ぎゅっと抱きつき、黒髪を掴んで嬉しそうな子どもの銀髪に口付ける。擽ったいと笑うが、幸せそうに目を閉じた。目蓋、頬、額、順番にキスをして抱き締める。まだ腕は胸元で抱き込まれたまま。俺の背に回す余裕はなかった。いずれ、この手が我が背を抱くとき……この子の傷は癒えているだろうか。
「僕ね、パパが好き」
怖がりながら告げる声の震えが消えたとき、この子はあの女の影から解放されるのだ。
「ああ、俺もカリスが大好きだ」
今はただ、ヒビ割れ傷付いたこの子の心を守りたい。伝わってくる痛みを分かち合うことが出来るなら、すべて引き受けたいと願った。