外伝2−2.主の小さい温かな手に救われた
折角の天使との戦、活躍の場と気合を入れて出向いた。俺が契約した大切な主カリスのために、片っ端から天使に噛み付く。仔犬姿では不便なので、現在使用できる魔力をすべて解放した。全盛期の6割ほどか。
「貴様! ケルベロスか」
にたりと二つの頭で笑う。言い終わった天使ではなく、隣で背を向けた天使の翼を噛みちぎった。どうせなら数が欲しい。片方ずつ削っていく。すべて根本から千切り、悲鳴を上げて逃げる天使を見送った。口に充満する血の匂いも、絶望の悲鳴も懐かしい。
地獄の番犬ケルベロスと呼ばれた俺の強さを、見直してくれるだろうか。いつも笑顔を絶やさず、優しい小さな手で撫でてくれる主は、現在神と対峙している。きっと高慢ちきな神の鼻をへし折ってくれるはず。大量の戦利品を並べ、カリスの帰りを待つ。
天使の頂点に立ったルシフェルは、堕天してバエルと名乗った。その男は我が主の義父となり、今も同行している。俺が魔犬でなければ、天界の神の座までお供したのだが。悔しいことに、この身は上級天使と違い神の光に耐え切れぬ。
主カリスの危機ならば身を捨てても守るが、俺が死んだら泣くであろう幼子を思い浮かべ、立ち止まるしかなかった。バエルが守るはず、そう信じて獲物を並べ直す。より美しく、より見事に見えるように。
あの日、封印から解放された俺は無力なただの仔犬だった。魔力もなく、きゃんきゃん鳴くだけの動物だ。気配も能力も落ちた状態に絶望した俺に、酔っ払いが絡んだ。捕まえようと伸ばされた手に噛み付いた途端、腹を蹴られる。避けたつもりが短い足はついてこなかった。もつれて倒れ吹き飛ぶ。背中を壁に打ちつけ、きゃうんと哀れな声が漏れた。
このケルベロスに何をする! 唸って威嚇するが、すぐに激痛で動けなくなった。足が折れておかしな方向を向き、踏み躙られた肉と皮が千切れる。痛い、苦しい、こんなのおかしい。誰か……そこで初めて助けを求めた。
体を踏まれ、蹴られ、掴んで投げ飛ばされる。壁に当たり、地面にぶつかり、全身はあっという間に激痛の温床となった。あの日、我を助けたのは小さな手――主となったカリスの白い手だ。咄嗟に唸ってしまったが、触れた指先に噛みつこうとは思わなかった。
温かく優しく、壊れ物のように抱き上げられた。懐かしいゲーティアの空気に触れて、ほっとする。だが、魔力は戻らず、地上の仔犬だと勘違いされたまま。忌々しい天使の治療を受けた。主カリスが俺に「ケルベロス」と名づけたことで、魔犬に戻れたが……手の込んだ封印だったな。今になれば、カリスに出会うための試練と思えるから不思議だ。
早く帰ってこい。そして俺を褒めて撫でてくれ。ただの仔犬のように、ケルベロスとしての矜持を捨ててもいい。あの手が俺を生かした。ならば、あの手の持ち主のために命を懸ける。
「ベロ」
短く呼ぶ愛らしい声に、嬉しくなる。主よ、あなたが望むなら天使に尻尾も振ろう。そう思ったが……まさか神を連れ帰るとは! 絶句する。犬である俺に当てつけるように、傲慢で図々しい子猫は「にゃーん」と愛想を振り撒く。
当初は目の上のたんこぶと認識したが、俺が子猫の首を咥えて歩くとカリスが喜んだ。舐めて毛繕いしたり、食事の際に支えてもやった。トイレを譲り、一緒に眠る。この小さな温もりは悪くない。中身が神なのは承知だが、ほとんどの能力は眠っていた。ならばただの子猫同然。
いいだろう、俺が面倒を見てやる。もしかしたら小さな手のカリスが俺を拾った時も、同じように思ったのか。擽ったい気持ちで、目の前の子猫の毛繕いを始めた。