147.主を泣かせたのは不本意だ
全盛期とは程遠い、弱く小さな体で考える。カーテンと窓の間から見上げる月は細かった。鋭いナイフのような月を見て決意する。あの頃のように強い自分を取り戻さなくてはならない。
愛らしい主君は、誰にでも好かれる。だがそれは、敵が増える可能性を示唆していた。本人は敵のつもりがなく、ただ主を愛したと思うだろう。意思に反して連れ出し、どこかに監禁して愛そうとするかも知れない。魔皇帝の口ぶりでは、すでにそういった輩が出たようだ。
己が愛した存在が主を大切にするのが許せない、そう逆恨みする者も出る。そういった敵を排除するため、この身は不利だった。封印を破るために力を使い果たし、仔犬まで戻ったことで、ほとんどの力が使えない。これでは主を助けるどころか、足手纏いになる。主を呼び出すための餌にされる屈辱を味わう前に、ある程度の能力を取り戻さなくてはならなかった。
カーテンの内側に目をやれば、魔皇帝がちらりと見て主を抱き寄せた。これは見ないフリをしてやるという意思表示か? 気に食わない奴だが、主にとって大切な保護者だ。仕方ない。
ぺたぺたと短い足で歩き、とんとんと床を叩いた。魔法陣を呼び出して飛び込む。コキュートスへ繋がる道を迷いなく進み、餌場を見回した。久しぶりだが、獲物の数は増えている。質はどうか。
数人を追い回して足に噛み付く。蹴られそうになるが、その前に首を噛んで息の根を止めた。コキュートスでは罪人の死は、訪れない。それが通例だが、例外はどこにでもあるものだ。地獄の番犬が命の欠片も残さず食らった場合だった。ドラゴンも同様だが、今は愛息子を抱いて眠っているから降りてこないはず。
にたりと笑い、ひとまず血肉を補給する。引き裂いて食らい、生き返った獲物を再び絶命させる。その繰り返しの間にも肉は回復した。戻った意識と体で悲鳴をあげて逃げる獲物を、再び狩る。この繰り返しで、ぐんと成長した。
人間の絶望ほど美味い餌はない。コキュートスに落ちて間もない奴ほど、感情の揺れが激しくて美味いはず。じっくり選び、珍しい獲物を見つけた。
人間の……女? 柔らかく細く溢れんばかりの血を滴らせながら、絶叫するあの生き物がいる! 魔力の発動で赤くなった目を爛々と輝かせ、女を捕まえる。
大型犬サイズまで回復した体は、新たな餌を押さえつけた。尖った地面に叩きつけ、血を流して泣き叫ぶ喉を避けて肩を噛んだ。心地よい悲鳴ににたりと笑う。数回に分けて食べ、それでも残すのは回復させるためだった。
この餌の絶望は心地よい。
「あっ! もしかしてカリス様のベロ?」
「その名で呼ぶな、忌々しい女悪魔め」
封印の際に、腹を剣で地面に縫い付けた女悪魔だ。将軍だったか? 大層な肩書きがあったな。
「カリス様に言い付けるわよ」
「ぐっ……」
それは困る。仕方なく威嚇を収めると、足下で回復しかけの肉を指差された。
「それ、カリス様を傷つけた女よ。怒った陛下が連れてきたの。虐待してたんですって……だから自由にしていいけど、殺さないでね」
「わかった」
短く答える。ぐばっと開いた口から、牙と舌が覗く。涎がぽたりと女の顔に落ちた。悲鳴をあげて逃げようとする餌の首を噛んで千切る。殺さずに遊ぶ方法などいくらでもある。ここは地の底――コキュートスなのだからな。
一晩で回復させた体を縮め、主の望むサイズまで戻す。抱き上げてもらえる大きさか確かめてから、部屋に戻った。泣きながら抱き付かれ、状況がわからず困惑したが……ベロがいなくなったかと思ったと言われ、申し訳なさに尻尾も耳も垂れる。しばらく夜中の外出は控えるとしよう。
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