おとぎの国の鬼女たち
「この一夜で、私は君に恋をしてしまった。どうか結婚してくれないか」
「私のような町娘が、恐れ多いですわ」
「君は美しい。その美しさの前には、身分の差など問題にならないよ。君と一生を添い遂げたい。どうか結婚しておくれ。君の名前は」
「私…」
12時を告げる鐘の音が鳴り響いた。シンデレラはふいに王子の手をほどき、城の出口へと走り出した。12時を過ぎると、魔法が解け、みすぼらしい灰かぶりの娘に戻ってしまう。その姿だけは見られたくなかった。王子の呼び止める声も耳に入らず、シンデレラは一目散に階段を駆け下りた。
ふいに足がもつれた。日中降った雨は、例年より早く訪れた冬の冷たい空気に凍っていた。シンデレラはそのまま滑り落ちた。身体をあちこちに強く打ちつけながら、彼女は止まることなく茨の垣へ放り込まれた。茨の棘と夜空の星がぐるりと視界に入り、次の瞬間には川の中へと投げ込まれていた。凍るように冷たい川の水は、重たいドレスの裾をしっかりと掴んで離さなかった。
「…死神の手」
シンデレラはそう思った。そして愛されることもなく苦しいだけだった15年の命、たった一晩の夢に思いを馳せる間もなく、彼女の心臓は凍りついた。
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王子は、一目見た美しい娘に一生分の愛を囁いてしまうような、情熱的で衝動的な男だった。つまり、どこにでもいるごく一般的な男だった。
ごく一般的な男らしく、王子は、数か月は熱い眼差しでもってかの晩の乙女を探しはしたが、それも血気盛んな若い男の夢として美しく締め括り、けろりとした顔で許嫁の姫と結婚した。
そして王子は晴れて国王となった。王にはやがて娘が生まれ、その誕生を盛大に祝う祝儀が開かれた。
和やかな祝宴の最中、顔中が潰れたように醜い女が現れた。女には両脚がなく、腕で身体を引き摺っていた。着飾った客人たちは魔女のように醜い女に恐れおののき、王は衛兵に連れ出すよう命じようとした。
「お久しゅうございます、王子様。私は数年前冬の夜、舞踏会にお呼びいただきました娘でございます。あの夜は大変失礼をいたしました。あの夜私は凍るように冷たい川に落ち、必死の思いで川から上がりましたが、川の水の冷たさに全身の肌が毒され、このように醜くなってしまいました。靴は流され、雪の中を裸足で歩き続けたため、足を失ってしまいました。このような姿で王子様にお目にかかるのは恥ずかしいと、山奥にこもっておりましたが、『一生を添い遂げたい』と言ってくださった王子様をお待たせしては申し訳ないと、恥を忍んで参りました」
数年前まで美しい娘だったとは信じられないほど、女は身体のあちこちが曲がり、潰れ、老婆のようだった。女は目に涙を溜め、嗄れ声で話した。
「私は、私の名はシンデレラでございます。あの夜は寒うございましたわ。王子様のお着物も雪のように白く、シャンデリアに輝いておりましたわ。二人でワルツを踊り、そのあと、ほら、あの階段を昇って、突き当たりのテラスで…」
「私はこのような女を知らない」
そういった王の顔は青ざめていた。そうすると女の顔も青ざめて、ようやく言った。
「ですが一生を添い遂げたいと」
「言った覚えはない。このような醜い女に。私の妻はこの妃であり、美しい娘もいる。衛兵よ、すぐにこいつを連れ出すのだ」
王は妃をちらちらと気にしながらそう命じた。醜い女は縮れ残ったわずかな脚で城の床を踏みしめるようにし、恐ろしい声で叫んだ。
「王の娘は15歳になったとき、紡ぎ車の錘を刺し、死ぬだろう!」
衛兵が女を連れ出した。邪悪な呪いの叫びは祝宴の間に響いたままで、王を脅えさせた。
祝宴に招かれていた魔法使いの機転により、王女は死から守られ、美しく育った。国中の全ての男が王女の虜だった。15歳になった日、王女は呪いによって静かな眠りについた。誰より勇敢で頼もしい、心から愛してくれる王子の訪れを待って。
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「王女様、王女様、起きて下さいよ。恐ろしいドラゴンはもういませんから」
肩を揺すられ、眠りの姫は目覚めた。目の前には若く美しい王子がいた。
「キスで起こしてくれるのではないの」
「いやだなぁ。僕にはもう婚約している姫がいるんですよ。なのであなたと結婚するつもりはないんですが、次の王になるためにはあなたを助けなければならないと決められていて…これで国王様も僕らの結婚を認めて下さる」
「冗談じゃないわ。私は結婚してくれる王子を待っていたのに!その姫が憎いわ」
「憎んじゃいけませんよ。僕の婚約した姫は、あなたの実の妹の白雪姫ですよ」
眠り姫は美しかったが、白雪姫はもっと美しく育っていた。おまけに、姉の眠り姫が何年も寝ている間、白雪姫はしたたかに、付近の国で最も美しく有望で婿にふさわしい王子に言い寄っていた。いつの時代、どの国においても、妹とは世渡り上手なものである。
眠り姫は面白くなかった。美しい悲劇の姫として目覚めちやほやされるはずが、かえって妹のフィアンセを勇敢に見せるために利用され、妹の勝利を確実にしてしまったのだ。これからは行き遅れの姉として、妹たちの幸せを延々と見せつけられる人生だ。こんなことならばあと100年くらい寝かせてくれれば良かったのに。私だって美しいけれど、もっと若くて、寝る間も惜しんで髪を解いていた白雪姫には、勝てっこないわ。
眠り姫の嫉妬と怒りは日増しに激しくなり、それが「白雪姫を殺そう」という思いに変わるまで、そう長くはかからなかった。とはいえ、いくら憎くても白雪姫は実の妹だった。自分で手を下すのも気が引けるし、それで捕まっても余計に面白くない。眠り姫はこの国で二番目の美貌を利用し、腕っぷしの強そうな城の庭番と懇意になった。
「あなた、私のためならなんでもしてくださる?」
「はい、王女様のために私ができることなら」
「それなら白雪姫を殺してやってちょうだい」
庭番は素直だった。私も良い召使を抱えたものだわ。でも戻ったらあいつも始末しなくちゃならないかしら。白雪姫と庭番と、ほかに殺しておかなくちゃならない者はいたかしら。
ふと鏡を見ると、恐ろしい顔があった。血の味を覚えた鬼女の顔だった。眠り姫は悲鳴を上げた。なんと醜い顔なのだろう。耐えかねて振り上げた拳が、鏡を割り砕いた。白雪姫を殺しても、私は美しくなれない。永遠に白雪姫は超えられず、超えたいと願うほどに醜くなる。いつまでも、いつまでも。一番の美女にはなれない。衝動的に、最も大きく鋭い鏡の破片を掴むと、自分の喉につき立てた。
鮮血は床のタイルの継ぎ目に沿って、織り物のように流れた。
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庭番への命乞いがようやく通じ、白雪姫は森をさまよっていた。暗い森の中、どちらが帰り道なのか分からなかったが、まあなんとかなるだろう。愛する王子はすぐに探しに来る。泊めてくれる者もいくらでもいるはずだ。
ちょうど向こうから、小人が七人連れ立って来た。
「小人さんたち、どこか休める場所を知らない?」
小人の一人が面倒そうに答えた。
「悪いが案内はあとだ。わしらはちょっと物見に行くんでな」
「あら、何を見に行くっていうのよ」
「少し先にあるじいさんの家に、どっかの国のたいそう綺麗な姫さんが居候してるってんでなあ、見物に行くんじゃ」
こんな暗い森に迷い込むなんて、よほど頭の悪い王女なのだろうと、自分の境遇を忘れ白雪姫は思った。その王女本人にさほどの興味はない。ただ目の前にいるこの自分を差しおいて小人に美人と言わせる彼女が腹立たしかった。ついでに泊めてくれる場所を見つけられるかも知れないと、結局小人についていくこととなった。
みすぼらしい小さな家に、見物人が大勢詰め掛け、爪先立ちで窓から覗いている。白雪姫も一生懸命に覗き込み、ようやくその姫を見つけた。
激しい嫉妬に、白雪姫は目まいがした。その姫は本当に美しかった。いや、顔の美しさならば自分もなかなかだが、その姫は白雪姫には真似できないような、儚げで物憂い、えも言われぬ表情をしていた。
「かぐや姫っちゅう名前らしいよ」
見物人の一人がいうのが聞こえた。「かぐや」なんて名前は聞いたことがない。遠い国から来たのだろうか。だからあんな見たこともない美しい表情をするのだろうか。
「王子様が来たぞ!」
子どもの声が聞こえた。
「王子様が直々に求婚にいらっしゃるなんて、たいそうなことだねぇ」
「たまげたもんさ。まあわしらのような農民にゃ高嶺の花だね」
白雪姫は我が目と耳を疑った。自分と婚約し、もう来年にでも正式に婚礼を行うはずだったあの王子だった。うっとりとした表情で、かぐや姫の手をとり話しかけている。つい少し前まで、王子のあの美しいグリーンの瞳で見つめられるのは、そっと優しく手を握られるのは、自分だけだったのだ。白雪姫は苦しい衝動に耐え切れず、ぼろ家から離れ走り出した。
森の奥の奥の奥まで走り着き立ち止まった頃、白雪姫は、どうやって最も苦しい方法でかぐや姫の幸せを奪い取るかを考えていた。
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窓の外からの憧れの視線、連日絶えることのない求婚、笑いが止まらなくなりそうな快感だった。しかしかぐや姫は、そこで舞い上がっては台無しだと分かっていた。
男っていうのは、ミステリアスな女に惹かれるのよ。結婚だとか名声だとかには興味がないって態度でいなくちゃ。そういうことで騒ぐ俗な女だと思われないように、ため息しながら月でも見上げようじゃないの。
とうとう王子から求婚を受け、かぐや姫も一瞬声を上げそうになった。しかしここでそんなことをしては、辛抱の甲斐がない。
「私にはお世話になったこの父母を寂しがらせることなんてできませんわ。華やかなことには慣れておりませんし、お妃など務まりません。どうぞお引き取りを」
かぐや姫の思惑通り、王子はその後も毎日訪れた。そろそろかしら、という頃合いを見て、かぐや姫は求婚を受けた。式はすぐに行われ、二人は晴れて国王、女王となった。
結婚生活は問題なく送られた。女王・かぐやのほとんどのわがままは聞き入れられた。そしてかぐやはそれに舞い上がるそぶりは見せず、傍目には慎ましく、叶えられた望みを享受していた。
しかし数年の月日が流れ、かぐやは焦り始めた。国王との間に子どもができないのだ。といっても、国王含め周囲は皆、子どもがいなくたってこんなに幸せな生活が続くのなら良いじゃないか、といった調子で呑気だった。
必死なのはかぐや一人である。今のうちはそう言っているが、直に、やはり後継ぎが必要な時が来る。もし側室を置くなんて話が出たら、元々このあたりの王室の者でもないかぐやに居場所はない。
かぐやは不妊治療の本と薬をどっさり手に入れ、毎日様々な神に祈りを捧げた。食事管理やら冷え防止やら、ヒステリックになり、国王も呆れるほどであった。
物憂く月を眺めていた頃の面影はもうなかった。
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「かぐや女王、今度はついにカエルを漬けた酒を飲んだらしいよ」
「枕元にはひいらぎとタヌキの頭を供えているそうだ」
後継ぎが生まれない女王の醜聞は、森の小屋で暮らす白雪姫の元にも届いた。
放っといても、いずれかぐやの幸せは終わるわ。とどめを刺すのは私よ。
森に小屋を見つけて住み着いて以来、白雪姫は魔力の研究を続けてきた。今ではディナーのデザートに毒りんごを出すこともお手のものだった。
彼女はかごに瑞々しい紫キャベツを詰め、怪しげな黒いマントを羽織って、城へ向かった。
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衛兵が伝えた。
「女王様、遠い国から来た薬売りが、ぜひお目にかかりたいと」
「知らないわよ、忙しいんだから追っ払って」
しかし衛兵が続けた「不妊治療に詳しいらしい」という言葉に、女王は飛びついた。
「今すぐ呼びなさい」
現れた薬売りは、深く黒いマントをかぶっていた。女らしいが、妖しげでただならぬ雰囲気がただよっており、魔女のようだった。
「この紫キャベツさえ食べれば、すぐにでも子ができるといいます。森の奥、精霊の間だけに伝わる、強力で不思議な魔力を宿しているのです」
キャベツの神秘的な色と瑞々しさは、女王をすぐに信頼させた。
「買うわ。いくらなの」
「貴重なキャベツだ。お金では譲れません。引き換えに、女王様の一人目の子どもをいただきましょう」
「それはあんまりだわ!」
「二人目の子どもを後継ぎにすれば良いのです。後払いなら安心でしょう」
魔法の薬売りの声には、抗い難い不思議な力を感じた。しぶしぶ女王は同意した。
そしてやがて女王には娘が生まれたが、その晩すぐに薬売りがやって来て、連れて行ってしまった。
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息を荒げ小屋に飛び込んだ白雪姫は、すぐにマントを投げ捨て、獣のように目を爛々とさせながら、子どもを寝台に乗せた。子どもは何が起こっているかも知らずに寝ていた。
馬鹿なかぐや姫め、紫キャベツの魔力は、母体の力を奪う。二人目の子が生まれる前に、彼女は死ぬだろう。この子どもはどうしてやろう。茨で目を突き刺してやろうか。高い塔から突き落とそうか。いや、その高い塔に閉じ込めたまま、飢えと恐怖で殺してやろうか。
ふと心に冷たさを感じた。先ほどまでの興奮はすっかり冷めてしまった。
元はと言えば、王子の無責任で非情な心からこうなったのだ。かぐやとその娘を殺して今さら城に戻れるとしても、王子、いや、国王に愛情はない。城で贅の限りを尽くすのも虚しい。一度追われた城で、かぐやの凋落を見たあの城で、昔と同じように淡い夢など見られない。自分ももう若くない。もっと若く美しい姫はいるだろう。
新しい幸せの形があるだろうか。例えば、女王ではなく国王に復讐しようか。いや、復讐はやめ、国王なしで、私一人の力で幸せになれるだろうか。私は自分の力で魔法のキャベツさえ作れる。私一人の力で、「幸福な未来」と呼べる何かを作れるだろうか。
「未来」という言葉を連想した白雪姫は、連れてきた赤ん坊をもう一度見つめた。すやすやと眠っていた。ドレスの裾を折りたたんで、そっと床に膝をつき、子どもの額に柔らかく手を触れた。
この子を育てようか。嫉妬のために城を追われ、そして嫉妬のために鬼女になってしまった私と、未来の重圧に狂ってしまった彼女は、ともに被害者なのかもしれない。この子をこの森で大切に育てよう。他人との関係や比較の苦しみを与えず、のびのびと、そして私たちの新しい幸せを掴ませよう。
蝋燭の明かりがこどもの寝顔を照らしていた。白雪姫は恐る恐る囁いた。
「赤ちゃん」
子どもが目を開いた。その瞬間、白雪姫の心にまた激しい炎が灯った。
子どもの瞳は明るい緑色だった。私を見つめた王子の瞳。私が失ったもの。彼女によって奪われたもの。緑の瞳の子どもは、私の子どもであるはずだったのに。今もどこかに幸せな女がいるのだろう。シャンデリア、香水、ダイヤと真珠、ばらの花束。美しいともてはやされ、誰もから羨望と嫉妬の眼差しを受け、王子に手を取られにっこりと微笑んでいる。新しい幸せなんて。森の奥へと走り出した日のように、心が暗い暗い奥のほうへ落ちていくのを感じた。子どもに復讐をしなければならない。炎よりも熱く、氷よりも冷たく、死よりも恐ろしいものを与えなければならない。
夜はすっかり更けていた。蝋燭の明かりはいつのまにか消え、冷たい月が静かに照らしていた。
本当のハッピーエンドなんてあると信じていたの?馬鹿ね。
この子は殺さない。殺すよりもずっと惨めな思いをさせるわ。そうね、「嫉妬」なんてどうかしら。幸せを見せつけてやるわ。お前は、これは不条理だって歯ぎしりするのよ。
白雪姫は赤ん坊を寝かせたまま、美しく化粧を直すと、今度は白いマントを羽織って森へ出かけた。道に迷った旅人が凍えてしまいそうな寒さだった。
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「パトリシア、早く準備を済ませなさいな。馬車を待たせているんだから」
「はいお母様、今行きますわ。このドレス、背中のリボンどうかしら」
「ええ、ええ、かわいく結んでありますよ。王子様も見とれてしまうわね」
パトリシアは死んだ父親に似て、器量よしというわけではなかった。けれどドレスは一流の美しさで、幸福そうに見えた。今夜の舞踏会では、まあうまくやるだろう。
「ありがとう、お母様。ああ寒い。カボチャも芯まで凍るような寒さだわ」
「今日は寒いから、この毛皮をドレスの上に羽織っておきなさい…なにをぼうっと見ているんだい。お前はしっかり掃除をしておくんだよ!」
羨ましそうに見ていた灰かぶりの召使の娘に言いつけると、白雪姫は娘のパトリシアと共に馬車に乗り込んでしまった。
残された娘は、悲しい気持ちで箒を持つ手を止め、窓から夜空を見上げた。緑色の瞳に月が映り込んだ。
私も舞踏会に行きたかったわ。綺麗なドレスを着て、優しい王子様に会いたかった。
「夢が叶うことってあるのかしら」
そう呟いて、星の一つに願いをかけた。