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蒼穹の崖(そうきゅうのはて)  作者: 沖田秀仁
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伊藤博文の半生記。

                  蒼穹(そうきゅう)(はて)

              沖田 秀仁

 私は小高い丘の上に立っている。

丘は背後の北西から伸びてきた山稜が谷間に突き出た南東端にあった。

谷間はそれほど高くないなだらかな山稜に囲まれ、僅かな谷に沿った平地があり、その平地は東と北から伸びて来て、西へと下って西の端で南北から伸びてきた山稜によって巾着のように狭められている。そしてその谷底にはそれぞれ小川がくねりながら流れ下り、この地に暮らす人たちの生活を潤している。

ここはかつて周防国熊毛郡束荷村字田尻村と呼ばれていた。当時の記録によると戸数は二十を僅かに欠けた。昔日と同じくなだらかな山並の山麓、平坦地の南寄りを島田川に注ぐ支流の束荷川が東から西へと比較的緩やかに流れている。その川幅二間あまりの小川から山裾へと巧みに畦を巡らせて、棚田が緻密な絵模様のように重なっていた。それは江戸初期から戦前に到るまで、生真面目に自らの肉体を酷使して少しずつ開墾されたものだ。

 聚落の東の峠から下ってきた道は杣道そのままに束荷川の土手道となり、聚落を抜けて西南のへと山中を下っていく。山陽道と異なりその道は聚落になにがしか用のある者でない限り通らない里道だった。その小川に沿った道を下れば、村の外れで岩田から田布施・平生を経て商都柳井へ到る道と、束荷川が流れ込む島田川沿いに熊毛郡三丘から光市三井、浅江を通り抜けて瀬戸内海に到る土手道の二手に分かれている。逆に北へと登り道を辿れば小周防村を経て山陽道の鄙びた宿場町の呼坂に到る。各地へ抜けられる要路だが、自動車の通りはそれほど多くない。

 丘の頂の広く平らな地にある人物を祀った社がかつて建っていた。現在は社があったと思われる基礎の長石が長方形に置かれていることから窺えるだけだ。

菅原道真がそうであるように、その神社に神として祀られた人物も非業の死に仆れた。明治四十二年十月二十六日に異郷のハルビン駅頭で凶弾に仆れた。享年六十九歳だった。

その死を悼み、郷里の人々は彼の生家の裏山に神社を建てた。歳月が過ぎ去りその人物を知る人たちも亡くなり、そして敗戦で明治以来の史観が一変すると神社は放置された。檜皮葺の屋根の葺き替えもできなくなり、昭和三十四年に地域の氏神を祭る束荷神社に合祀された。今では丘の上の神社の建屋はすっかり取り払われ、青天井のもと明治憲法を発布する堂々たる銅像だけが鎮座している。ただ丘の麓には藁葺の小さな生家が再現され、見物客に開放されている。

 私は丘の麓の百姓家に生まれた男の前半生を描こうとしている。その人物は幼名を林利助といった。束荷村ではそれほど目立つ子供ではなかったようで、幼少期の逸話に特筆すべきものは殆どない。彼が世間の注目を浴びだしたのは萩へ出てからのことだ。成長期と軌を一にするかのように栗原良蔵や高杉晋作などの邂逅が彼の人生を大きく変えたが、藩内ですら二十歳過ぎまで彼はそれほど名を知られる存在ではなかった。長州藩ですら彼の名が広く知られるようになったのは維新前夜のことだ。遅咲きといえばまさしく遅咲きだが、彼自身がそうした節がある。幕末から維新まで名を知られることは命を狙われることでもあった。明治維新後に彼は名を伊藤博文と名乗り、初代内閣総理大臣になった。

林利助は山口県光市大字束荷字野尻と呼ばれるこの地で天保十二年九月二日(西暦一八四一年十月十六日)に自作農の一人息子として生まれた。周防束荷村は藩都・萩から遠く、山陽道の街道筋からも外れた辺鄙な山村だった。身分制度の厳しい江戸時代にあって、林利助はこの村で自作農夫として一生を終えるはずだった。しかし数奇な運命により彼も長州藩の若者たちと同様に時代の奔流に巻き込まれることになる。多くの若者たちが時代に翻弄され途半ばで命を落としたが、彼は明治の御代まで生き抜き元勲の一人に数えられた。

維新以後の彼で特筆すべきは多くの元勲たちが権謀術数を得意として新政府の仕組みを構築する実務を苦手としたのと異なり、伊藤博文は大久保利通と並んで明治新政府の実務家として双璧をなす数少ない政治家だった。

維新後の政界で伊藤博文が第一線に立つのは政治の実権を握っていた大久保利通が暗殺により明治十一年に没してからだ。二番手に甘んじていた伊藤博文が明治日本を他国から侵略されない国家とするために、欧米列強かと伍すべく近代化に邁進した。今日、彼の評価は近隣諸国との関係からか大きく割り引かれているが、それは彼にとってだけでなく日本にとっても不幸なことだ。近代日本史に疎く日本国民としての国家観を持たない人々の言辞は無視するとしても、簡単な理屈さえ理解できない多くの文化人や政治家には慨嘆するしかない。伊藤博文は間違いなく明治日本を欧米列強に伍す先進国へと躍進させた第一線級の功労者だ。その広い見識と慧眼は日本のことのみならず、極東に押し寄せる欧米の動静をも的確に見ていた。たとえば伊藤博文が日本政府全権として日清戦争の戦後処理として清国の全権・李鴻章と交渉し、締結した「下関条約」を一読すれば、彼が朝鮮半島の独立を願っていたのは明らかだ。

それでも伊藤博文が晩年に朝鮮総督に就任したことから「半島経営」を目論んでいたと批判する人がいる。しかし立場が異なるとものの見方も異なるのは当然だろう。たとえばジョージ・ワシントンは米国では建国の父であるが、英国では国家叛乱の首謀者として教えられている。日本の国益を考えて行動できるのは他でもない日本国民だけだ。そうした分かりきった事実すら失念して、外国政府に阿る日本人の多さには驚くばかりだ。だが明治日本の先人たちはそうしたことを十分に承知していた。承知した上で貧弱な資源しか持たない日本の現実を踏まえた上で、帝国主義全盛期の弱肉強者の世界へ門戸を開き大海原へと乗り出した。現代よりもはるかに苛酷な状況の中で、先人たちは敢然と日本国の名誉と日本国民の利益のために死力を尽くした。

 伊藤博文の生きた時代は日本にとって有史以来経験したことのない一大変革期だった。いや幕藩体制を打破して明治維新を成し遂げたのは変革というより鎌倉幕府開闢以来の幕藩体制を覆す革命だった。しかもそれは私たちにとって想像を絶するほど遠い過去の出来事ではない。ペリー来航を幕末の始まりとすれば、たかだか嘉永六年(一八五三年)から明治元年(一八六七年)までのことだ。今から二百年にも満たない過去のことだ。江戸時代そのものの二百六十余年間よりも短く、さらに幕末から今日までの方がはるかに短い。

 私に限っていえば曾祖父は江戸時代末期の慶応二年(一八六六年)に生まれている。間違いなく伊藤博文の活躍した時代を私の曾祖父は暮らした。私は生前の曾祖父には会えなかったが、先年八十四才で亡くなった父は彼の祖父を良く記憶していた。折に触れて逸話を聞かされ、私にとって江戸時代は手を伸ばせば届きそうなほど身近な過去だ。それは私に限った個人的な述懐ではなく、当時の豊富な写真や文献や史料が残っていることからも幕末は十分に検証可能な近代史だ。ましてや明治以降は社会風俗や政治体制からいっても今の私たちに直接連なる現代史といえよう。

 幕末期、長州藩は討幕運動の坩堝となった。多くの犠牲を払いながら維新を迎えるや幕藩体制から脱却し、集権国家体制へ移行すべく政治・経済・社会などの大変革に先人たちは全力で奔走した。そして徳川幕府の外交に無知な幕閣を相手に、西洋列強が騙すようにして締結した不平等条約の撤廃と国民国家建設に立ち向かった。当時の世界状況を考え合わせるなら、明治の日本人は破落戸のような欧米諸国と伍すべく、健気にも全力を傾けて欧米化へ邁進したといえる。十五世紀から始まった大航海時代とでもいうべき帝国主義というグローバル化に対抗して、日本を欧米列強のグローバル化の嵐から守り、結果としてこの国と国民の自主独立を守り、欧米と肩を並べるほどの国へと変貌させた。その先人たちの刻苦精励に、今を生きる日本国民として心から賛辞を送るべきだろう。

 幕末から明治維新にかけて私たちの先人は国際感覚を短期間に身につけ、この国のあるべき姿と進むべき方向を的確に見通したといえる。評論家の中には猿真似をしただけではないかと先人を貶める論を吐く人もいるが、日本国内の各種制度の西洋化と西洋の猿模倣とでは明らかに異なる。制度としての経済や政治を導入することは、そうした制度を支える常識や慣習までも導入することであり、社会そのものを移植するのと同程度の困難を伴うだろう。

 私たちが想像するほど封建制度から明治の民主制度への移行は簡単なものではなかった。推理小説の犯人を知ってから小説を読んだ場合、隠されたトリックを見破るのは余りに簡単だ。しかし明治政府の要人たちが欧米列強の国家体制を最初から知っていたわけではない。先人たちは短期間に先進諸国からすべてを学び、すべてを理解しすべてを国内社会で実践し、速やかに国民へ敷衍しなければならなかった。それがいかに難事業であったか想像に難くない。

 しかも伊藤博文は高杉晋作のように生れながらの由緒正しい累代の藩士ではなかったし、長州藩城下町萩に確たる地位が用意されていたわけでもなかった。まさしく艱難辛苦の末に明治政府の要人となった。苦労人伊藤博文の困難は生れ落ちたときから始まっていた。それは地理的なものと身分的なのものと、二重の意味での困難だった。


彼が生まれた束荷つかり村野尻は長州本藩支配の周防熊毛郡に属していた。束荷村の神社はかつて粟屋神社と呼ばれ、束荷神社の由来は粟屋権現に由来するとの説と、石城山から分祀された金毘羅オオヤマツミノ神で「綿摘」を意味する女神との二説ある。束荷という地名は綿の荷を束ねていたことに由来するのだろうか。綿の栽培適地は温暖で日当たりの良い水捌けの良い砂地とされている。水稲栽培に適さない地だったことは地形から容易に想像できるが、この地に移り住んだ人たちは懸命に開墾し川から水を引いた。

 地図で見ると周防国のほぼ中央、海岸線から遠く離れた内陸部に位置しているが、嶮峻な山々に閉ざされた辺鄙な山里でもなかった。元々周防国にそれほど高い山はなく、瀬戸内海に面した山並みは概してなだらかだった。束荷村野尻も低くなだらかな山々に囲まれ、水路のような小川に沿って切り開かれた聚落だった。当時、戸数は二十に満たなかった。

 伊藤博文は幼少期「林利助」と名乗っていた。利助が生まれた折、父林十蔵は二十九才で母琴は二十四才だった。人別帳に記された姓は林だが、誰も十蔵を「林十蔵」とは呼ばなかった。村人たちは彼のことを『柳の十蔵』と呼んだ。束荷村には総林と呼ばれるほど林姓の家が多かったため、村人はお互いを屋号で呼び合った。屋号とは様々な由来や由緒から名付けられ、不動寺、稲荷、新家、茶屋などが屋号として代々受け継がれた。それは現在に至るまで残り、田舎では未だに屋号で呼び合っている。林十蔵の屋号が『柳』だったのは屋敷に柳の巨木があったためなのか、由来は定かでない。

十代で婚姻・出産するのも珍しくない当時で、林利助が授かった父母の年齢が二十九歳と二十四歳は「高齢出産」といえる。その原因は婚姻より三年を経ても子宝に恵まれなかったからだ。そのためため琴は村の鎮守の天満宮へ日参し、願い叶って子を授かったとの言い伝えがある。世は天保四年から九年にかけて断続的に見舞われた大飢饉の痛手から、やっと立ち直りを見せはじめた頃だった。


 元々林一族は伊豫の豪族河野家の末裔だといわれている。彼らの祖先は戦国時代末期に四国の覇者・長宗我部氏に領地を奪われ、命からがら瀬戸内海を渡って毛利氏を頼った。当時の毛利氏は毛利元就が当主で、乱世を武力と策略を駆使して一代にして中国地方一円を制覇し武威を誇っていた。毛利氏の庇護を受けた林一族は士分として処遇され、それ相応の領地も得て暮らしていた。しかし平穏な暮らしは長くは続かなかった。

 慶長五年(一六○○)関ヶ原の合戦で毛利氏当主の毛利輝元は豊臣の西軍の総大将に推された。当初は優勢に戦っていたが、分家の吉川広家が徳川方に内通し小早川秀秋が寝返ると形勢は逆転した。徳川方の東軍に撃破され、毛利輝元は敗走した。

領地に逃げ帰ったものの最悪の場合、毛利輝元は捕らえられて領地没収の上切腹を賜る沙汰もありうる。もちろん累代の家臣は禄を失い浪人となるしかない。林一族も再び流浪の暮らしを覚悟せざるを得なかった。

徳川家康が毛利輝元に下した沙汰は毛利氏の支配地域中国十二カ国と領地百二十万石のすべてを召し上げる代わりに、徳川方勝利に功績のあった吉川広家に防長二州三十六万九千石を与えるとした。しかし吉川広家は本家が無禄になるにも拘らず、自分が本家を差し置いて領地を戴くのは筋違いとして、徳川家康に周防と長門の二州を本家毛利輝元に与えるように願い出た。徳川家康はその願いを聞き入れ、毛利輝元に長州藩三十六万九千石を与えることにした。敵方に回った武将に決して温情を掛けることなく、徹底した厳罰で臨んだ徳川家康にしては、毛利輝元に対する処分は他の西軍武将への処分と比べれば特別に寛大なものだったといえる。

だが切腹を免れたどころか改易追放までも免れて領地を安堵された破格の対処といえども、中国地方百二十万石の所領を周防・長門の二州のみ三十六万九千石に減封された現実は重かった。毛利輝元は中間や足軽はいうに及ばず、累代の重臣にさえ暇を出さなければならないほど追い詰められた。現実問題として領地が四分の一に削減されれば、従前通りに扶持を与えることはできないばかりか、家臣の四人に三人に暇を与えなければ藩財政は立ち行かなくなる。やむなく毛利輝元は累代の家臣たちに解き放ちを言い渡したが「無禄にても宜しゅうございます」と、ほとんどすべての者が防長二州へ付き従ってきた。

零落した武将が家臣から慕われるとは、当主としては栄誉なことだが、毛利長州藩が立ち行かなくなるのは目に見えている。家臣の暮らしを安堵できない者に当主の資格はないと、毛利輝元は領地返上を昵懇の黒田如水を通して徳川幕府に申し出た。それは毛利輝元本人が浪人するも覚悟の上、との悲壮な決意表明だったが、徳川家康は一瞥しただけでフンと鼻先で笑って無視した。追討の軍勢を差し向けるまでもなく、毛利長州藩は困窮のうちに滅亡するであろうと考えた。

江戸時代の殆どの期間を、長州藩は藩主のみならず家臣の一卒に到るまで窮乏に喘いだ。岩国市徴古館に展示されている長州支藩の一つ吉川岩国藩の史料に、藩士の家禄を記した表向きの石高の下に実際に支給した石高が記された書面が遺されている。それによると扶持が四分の一以下に減石されている例も珍しくなく、家老などの上級藩士ほど減石の割合が高くなっている。家臣たちは艱難辛苦を覚悟の上で君主に従って防長二州に移り住んだのが良く分かる。

 周防国束荷村に移り住んだ林一族が禄を離れて、刀槍の代わりに鋤鍬を手にしたとしても何ら不思議なことではない。そうした例は長州藩においては枚挙に暇がないほどごく普通にありえた。萩城下に暮らす名のある藩士ですら、下級士族においては畑で泥と汗にまみれることを日常としていた。実質的な暮し向きは百姓と大差なかった。

 徳川家康は家訓として西方の外様大名に用心せよと言い残した。彦根に譜代大名の井伊氏を置いたり、名古屋城に御三家の一つを配したり、何重にも西方の外様大名長州藩と薩摩藩に備える布陣を敷いた。

まさしく徳川家康が予見した通り、長州藩は江戸時代を通して存亡の危機に喘いだ。だが幕末期に突如として長州藩は潤沢な軍資金を蓄え、倒幕運動の先頭に立って活躍することになる。が、そうした劇的な変貌を遂げるのは天保八年四月以降のことだ。

天保八年四月、十八歳で十三代長州藩主に就いた青年がいる。当然のことながら、その若者は望んで藩主に就いたわけではなかったし、元々本家筋でないため本来なら藩主になれる血筋でもなかった。しかし破綻寸前の藩財政に恐れをなして藩主になるべき適格者が相次いで辞退したため、その青年に藩主のお鉢が回ってきた。


藩のお歴々は藩主に就いた若者を気の毒がった。当時藩が抱える借財は実に年貢収入の二十二年分にも達し、長州藩は破綻寸前というよりもとっくの昔に破綻していた。自ら懲罰でも受けるように、長州藩の藩主に就任した若者は名を毛利敬親といった。

長身痩躯の青年は藩主に就任するや、すぐさま一人の老人を政務役に抜擢した。毛利敬親は先年江戸用談役の男が提出した「藩政改革書」を知っていた。建白書を著した男は藩公明倫館教授だったが、定年後に江戸用談役という閑職に追いやられていた。既に年齢は五十六歳と、当時としては老人に属する。家格は二十五石の郡奉行格という下級藩士だった。藩重役たちは江戸用談役が建白した「藩政改革書」など見向きもせず、何年も未決済箱で埃にまみれていた。しかし毛利敬親は用談役の老人を政務役に抜擢した。その男は名を村田静風といった。

藩政で前例のない驚愕すべき人事を断行したにも拘らず、藩重役は誰も異議を申し立てなかった。もちろん藩重役たちは村田静風を知らなかったし、若い藩主の手腕にも期待していなかった。元明倫館教授を政務役に抜擢していかなる藩政改革を行おうとも、たちまち頓挫して水泡に帰すだろう、と考えていた。これまで自分たちの手に負えなかった藩財政の立て直しに誰がいかなる手腕を揮ったところで、いささかなりとも好転するとは思えなかった。

毛利敬親は天保八年四月に藩主に就いてから明治四年に没するまで、激動の幕末期を藩主として君臨した。激変する時代の渦に呑み込まれなかっただけでも偉業というべきだが、藩主を全うしただけでなく毛利敬親は長州藩を雄藩の一つに変貌させた。明治維新という国家事業に長州藩の名が燦然と輝くのはすべて毛利敬親の業績といっても過言ではない。財政改革を断行して潤沢な黄金で金蔵を満たしていなければ倒幕は出来なかっただろうし、毛利敬親が藩主でなければ藩そのものを消滅させる明治維新などという偉業はなし遂げられなかっただろう。他藩であれば倒幕の精神的な支えとなった思想家・吉田寅次郎や革命軍を率いた高杉晋作でさえも、活躍の場に躍り出る前に「藩に背く者」として死を賜っていただろう。

毛利敬親は痩身長躯の青年だったが年毎に肥満し、晩年には歩行さえも困難であったという。後に『そうせい侯』と陰口を叩かれるほど藩政を家臣に委ねた暗君と評する向きもあるが、愚者に幕末の長州藩主は勤まらなかっただろう。

 ともあれ、文久から元治慶応へと毛利長州藩は火の玉となって藩の存亡を賭けて倒幕に驀進することになる。積年の宿願を果たすかのように薩摩藩と力を併せて倒幕に立ち上がり、さしもの徳川幕府も家康から数えて十五代をもって瓦解せざるを得ないことになる。

 しかし、林利助が束荷村に生を受けた天保十二年当時、長州藩は毛利敬親が村田清と共に三十七万貫の借財に立ち向かい始めたばかりで、藩政改革の目鼻も付きかねていた。いまだ長州藩は困窮のどん底にあって、奥の日々の費えにさえ事欠いていた。武家諸法度の御定法で定められた参勤交代ですら、借銭を当てにして国許を発ったものの当てにしていた大坂鴻池屋に用立てを断られて、藩主以下大名行列が一月にわたり大坂で足止めを喰らって満天下に恥をさらしたりしていた。


 一、萩へ

 林利助の生家は束荷村野尻の東南に面した山麓に建っていた。

 隣の家とは一町ばかり離れ、南には農家には不釣り合いな広い広場があった。

 父は名を十蔵といって、村で代々畔頭の役目を勤める百姓だった。畔頭とは年貢米の取り纏めを主な役目とする、束荷村では本家の庄屋林惣左衛門に次ぐ家柄だった。林家に耕作地は五反歩の田と二反歩の畑、それに山が六反歩ばかりあった。五反百姓は家族が少なければ年貢を供出しても何とか一家が糊塗できるが、係累が多ければ多少なりとも他人の田地を小作しなければ暮らせない。

 愚かなと同義語に『戯け』という言葉がある。戯けの語源はつまりタワケ、田分けということだ。財産分与として田を分ければ自作農は成り立たなくなる。嫡子相続が定法だったとはいえ、子を沢山なせば何かと災いの種となる。それを意識したわけでもないだろうが利助に兄弟はなかった。

 利助の記憶にある限り、両親は一日中働いていた。昼間、母は父と共に田畑で働き、夜になると土間に面した三畳ほどの板の間に座り糸を紡ぎ木綿を織った。父も夜は同じ部屋で筵を織ったり草鞋を作ったりした。夜なべ仕事の手伝いはまだ出来ないまでも一つ明かりの下、利助はその傍に書見台を置いて寺子屋の復習などをしていた。

 林十蔵の勤める畔頭の重要な仕事は秋の収穫時に、聚落の家々から供出された年貢米を取りまとめることだった。検地により定められた石高に応じた年貢米を徴収し郡代官の役人に検納するのを役目とした。

 ある年、林十蔵は畔頭の役目を果たす上で重大な失態を犯した。村の家々から納められた年貢米の量目が郡代官役人の検査で不足していることが発覚したのだ。それも相当な量目に達していて、とうてい許されるものではなかった。

 不足した量目は引負(使い込み)とされ畔頭が責めを負うことになる。量目不足の原因が何であれ、弁済しなければ林十蔵は郡代官所の牢に繋がれ執拗な譴責を受ける。村で暮すことが適わなくなるばかりか、罪人として捕らわれかねない事態に追い詰められた。

 林十蔵は生まれついての畔頭のため、家の格式と系譜を幼い頃から言い聞かされて育った。自ずと家柄に対する矜持が林十蔵に備わり、人に頭を下げるのを潔としなかった。

 しかし、背に腹はかえられないとばかりに、林十蔵は額を土間に擦り付けた。莫大な引負をしでかしたのは紛れもない事実だ。放置すれば郡代官所の役人から重い咎めを受ける。林十蔵は必死の形相で岳父秋山長兵衛と親戚の林儀兵衛を頼り、三人で庄屋を勤める本家林惣左衛門に頼み込んだ。林利助が三才のときの出来事だった。

 本家から米を融通してもらって、林十蔵はなんとか危機を乗り越えた。畔頭としての面目は保たれ、一家に平穏な暮しが甦ったかに見えた。

 だが、人の性癖は容易に直らないものだ。喉元過ぐれば熱さを忘れるとの諺もある。一度目の引負騒動を引き起こしてから三年目、林利助が六才の折にふたたび十蔵は引負を抱え込んでしまった。その量目は十二石にも達したという。帖付けを行う畔頭としては万死に値する。村人が運び込んだ年貢米の量目を検査し帖付けして、役人に引き渡すまで保管するのが畔頭の役責だ。量目不足はいかなる言い訳も通らない。しかも、二度目ともなると本家を頼ることもできなかった。

 とるべき道は一つしか残されていなかった。それだけは思い止まれと林儀兵衛が口を酸っぱくして意見したが遂に聞き入れず、十蔵は断腸の思いで家屋敷から田畑に至るまですべてを売り払って不足した量目を補填した。

 二度にわたる引負は十蔵の性格が放埒だったためとの説がある。几帳面な帳付けを厭い、量目の計測も他人に任せ切りだったために引負を仕出かした、とするものだ。しかし彼自身はいたって大人しく謹厳実直な性格で声を荒げて人と口論すらできなかった。むしろ代々畔頭の役目を勤める家系に醸成された、村の旦那として育った者に特有な人の良さに原因があったといえよう。

引負を背負い込まされたのは年貢米の収納時の計量にあったと考える方が順当だ。米の計量は一升桝に摺り切り一杯が正式な計量だが、一升桝に山と積み上げた米を擂粉木で撫でて計量すべきところを、擂粉木で桝に盛った米を撫でず、こっそりと手抜きするのを見逃したのではないか。庭に運び込まれる年貢米が膨大なため、計量不足が積もり積もって嵩み、ついには膨大な量目に達することは十分にあり得る。林十蔵は目の前で村人が自分の目の前で計量を誤魔化しているのを指摘できない性格だったようだ。

 しかし、それでは畔頭は勤まらない。いや畔頭が勤まらないだけではない。誰もが農業で生きてゆくのが大変な江戸時代では、林十蔵は百姓として生きて行くことすらかなわない。百姓が自分に不向きならどうすべきか。そこまで考えた上でもないだろうが、十蔵は命よりも大切な田畑を売り払った。束荷村で百姓として生きてゆく糧のすべて失い、十蔵は文字通り無一物の裸一貫になってしまった。

自らが暮らしを立て妻子を養うにはどうすれば良いか。残された選択肢は二つに一つだ。村にとどまり他人の田を耕す小作農として困窮に耐えるか、村を出て百姓以外の職を探すか。その二択以外に方途はなかった。

 弘化三年(一八四六)初冬、林十蔵は人目を忍んでひっそりと旅立った。

 家屋敷から田畑山にいたるまで先祖から受け継いだ財産をそっくり売り払って、十蔵は引負を弁済した。そして、残った銀百三十匁のみを懐に束荷村から萩城下へ向かった。

 田舎でしくじった者が逃げ込むのはいつの時代でも都会だ。萩は長州本藩の城下町だった。ちなみに幕末期の萩の人口は約四万五千人で全国でも十一位の大都会だった。赤間ヶ関(現・下関)は一万八千人の港町に過ぎず、山口も戦国大内氏時代に十五万人を数えた都会も徳川幕府の政策により城を置くことを許されず衰退して、幕末期には一万人前後になっていた。

そうした大都会・萩へ職を求めて林十蔵は郷里を旅立った。しかし農地を手放し在所を捨てるのは武士が脱藩するのと同じく、当時としては一人前の人として扱われない浮浪人になることだ。身分制度の厳しい当時としては百姓が村を離れることすら咎められかねないことだった。

 ただ萩には妻の叔父が暮らしていた。恵運と名乗って萩の新堀町金刀比羅神社社坊法光院の神主になっていた。恵運は琴の母の弟に当たる男で十蔵とは一面識もなかった。しかし藁にもすがる思いで、紹介状を手に顔も知らぬ義理の叔父を頼って萩へと向かった。

 妻と子は萩での暮らしの目処がつくまで、琴の実家に預けられることになった。

 残された妻子は妻の実家に預けられた。しかし村人の暮らしに余裕はない。食客を置けるほど豊かではないのは琴の実家とて同じだ。実家へ身を寄せたとはいえ、琴は下女同然に働いた。泥と汗にまみれて農作業に精出すことはもとより、夜なべ仕事も休むことはなかった。日当たりの良い丘の家から秋山家の物置小屋の片隅に居を移したが、林利助にとっても住む場所が変わっただけでは済まなかった。物心ついた頃から大人の顔色を窺って生きる毎日を強いられた。しかも、ともすれば気が沈みがちになる母をも励まさなければならなかった。父がいなくなって幼い林利助が背負込んだのは自分一人の悲しみだけではなかった。

 林十蔵の頼った男は妻の母の弟に過ぎない。しかも遠戚に連なる男が萩で神主をしているという理由だけで林十蔵が強引に頼った。だが恵運は義理の甥に当たるというだけで村を捨てて逃げてきた男になにくれとなく仕事を世話し面倒を見た。

 本来、仕事を世話するのは口入れ屋だが、鑑札を必要とする口入れ屋は帳外者に仕事を世話してはならない決まりになっている。村を逃散して萩へ逃れてきた者は紛れもなく人別を外れた帳外者だ。つまり、十蔵が萩で頼れる者は恵運ただ一人だけだった。十蔵は恵運の口利きで児玉糺や木原源右衛門などの屋敷へ奉公に上がった。

 しかし当然のことながら、帳外者の林十蔵に与えられる仕事は雑用や手間仕事に過ぎない。菜園の農作業や米搗、それに木樵や若党といった日雇いのため、生計を立てる目途になるようなものではなかった。たつきの方途を見付けるべく萩へ出て来たものの、なかなか妻子を呼び寄せられる安定した仕事にはありつけなかった。しかしそれでも林十蔵は日雇い仕事を黙々と懸命に働いた。故郷に置いてきた妻や子を一日でも早く呼び寄せるために、与えられた仕事が何であろうと一心に身を粉にして働いた。

 そうした雑役に汗する日々が三年近く続いた。

 ある日、恵運の許に願ってもない働き口が持ち込まれた。林十蔵の勤勉な働きぶりを見込んだ者がいた。萩は狭い町だ。それは地理的な狭さもさることながら、口の端にのぼる情報の伝播力も町を狭くしていた。持ち掛けられた働き口は中間の代勤だった。

 代勤とは当主が早世して跡継ぎの嗣子が幼い場合、継いだ当主の代わりに公の役目を果たす代理の者のことをいう。そのため誰でも良いというわけにはいかない。当主になり代わって役目を勤めるのであれば、いい加減な男に頼むわけにはいかない。林十蔵に代勤の依頼が舞い込んだのは彼の仕事振りが誰の目から見ても実直だったことに他ならない。

 代勤の仕事を申し込んで来たのは伊藤武兵衛という男だった。彼は若い頃に見習い奉公として蔵元付きの中間水井家の屋敷に上がった。実直な仕事ぶりから水井家では重く用いられ、亡くなった先代の側役を勤めていった。突然の先代の逝去により幼い嗣子の代わりに中嗣養子となって代勤を務めることになった。よって藩に届けられた武兵衛の正式名は伊藤武兵衛ではなく水井武兵衛ということになる。しかし中間に定まった禄はなく、非番で役目が果たせなければ俸給は頂戴出来ない。それのみならず御役御免となれば水井家は途絶することになる。

元々伊藤武兵衛は中間の出自で、佐波郡桐畑村にかなりの田畑を持っていた。本来なら伊藤家当主が死去した時点で永井家を辞し、中間伊藤家を継ぐべきであった。しかし 水井家の中嗣養子となったため伊藤武兵衛が中間伊藤家を継ぐことはできなかった。途絶えてしまった伊藤家を気にかけつつ齢を重ねてきたが、それだけが心の一点のシミとなっていた。いずれの日にか伊藤の家名再興を願いつつ、伊藤武兵衛はひたすら忠勤に励んだ。しかし、寄る年波には抗らえず代勤仕事に耐えられなくなった。ついに自分が挿み箱を担いで共揃いに付き従うのを諦めざるを得なくなり、代勤を誰かに任せて自身は永井家の勘定全般の管理を行うことにした。

 恵運から紹介された仕事を林十蔵は一も二もなく引き受けた。すぐさま水井家の屋敷へ赴き、伊藤武兵衛にその旨を申し出た。

 林十蔵は元来が百姓だ。上背はそれほどではないが肩幅の広い骨太で頑健な体付きをしていた。中間の仕事は頭脳労働ではない。使役に耐える体力さえあれば後は柔順な性格が必須なだけだ。伊藤武兵衛は林十蔵を面通しして即座に気に入った。

 翌朝、水井武右衛門の代勤として蔵元付中間組頭へ林十蔵の名が届けられた。昼下がりに組頭は林十蔵を伴って登城し、大手門脇の長屋で蔵元付中間とひきあわせた。ここにして林十蔵は長州藩の武家社会の序列最下位とはいえ、定まった身分とお役目を頂戴し、月々に水井家から俸給を手にする身となった。浮浪人でしかなかった帳外者から脱して、まともな武家社会の一員になれた。しかも仕事といえば勘定方役人の供揃いの一員として挟み箱を肩に担いで歩くことに他ならない。数々の屋敷奉公で経てきた体を酷使する雑役と比べれば格段に楽な嘘のような仕事だった。屈辱にまみれて束荷村を旅立ってから三年有余にして萩での暮らしに目処がついた。さっそく萩城下町の外れ土原に有地九郎の長屋の一軒を借りると、岳父に預けてきた琴と利助を呼び寄せることにした。


 嘉永二年(一八四九年)旧暦三月七日早朝、三人づれが束荷村野尻を旅立った。

 その三人連れともつれるようにして、秋山家から三人が二町ばかり丘を下った束荷川の土手道まで付き添った。年老いた白髪髷の男は琴の父親秋山長兵衛で、残る二人は琴の兄夫婦だった。琴の母は孫を溺愛していたため別れの辛さに耐え切れず、見送りには出られなかった。

 村を出た彼らが向かう先は長州藩の城下町萩だった。当時、長州藩の人口は五十七万人弱でしかなく、日本全国でも三千万人に満たなかった。長州藩で四万五千人もの人口を擁する町は藩主毛利藩城下町の萩だけだった。

 三人連れは瀬戸内海へと続く南へ下る方角とは反対の北西へと向かい、村を囲むなだらかな山々の山麓を巡るようにして峠を二つばかり越えて、山陽街道の呼坂宿をめざした。

山陽街道に出ると街道を西へと向かい、瀬戸内海に出て今は防府市の郊外となっている宮市まで行き、その後は御成道を内陸へと向かって険しい勝坂の峠を越えて山口に到り、中国山地越えの萩往還路を歩いて萩城下へ到る旅路だった。

 一行は六十に近い小柄な老爺と三十過ぎの琴とその子・利助だった。琴が先に立って利助の手を引き、肩幅ばかりの杣道を歩いた。腰の曲がった老爺は百姓女の実家秋山長兵衛の屋敷の下男で名を安蔵といった。五日前に主人から萩まで女の荷物を運ぶように言い付けられていた。琴は瓜実顔に勝ち気そうなはっきりとした目鼻立ちをし、さぞかし娘の頃には村の若者たちの目を惹きつけただろうと思われた。その眼差しにはいまもつややかな娘時代の面影を留めていた。五尺足らずと小柄だが、骨組みは華奢ではない。働き者の証のように体の割には大きな手をしていた。十三年前に秋山から林十蔵の許へ嫁いでいた。

 束荷村野尻は総林といわれ村の多くの家々は縁戚関係にあった。普段は『ユイ』や『コウ』を通じて仲間として肩を寄せ合い強固な団結を示すが、反面そうした地域社会はしくじった者に残酷なほど陰に籠もった棘を向けるものだ。

 琴は三年に及ぶ実家での肩身の狭い暮らしを終えて旅立った。一子利助の手を引いて夫の待つ萩城下へと向かう門出に安堵感を覚えながらも、琴の心中に重い澱のような不安がないではない。萩は束荷村から余りに遠く、いかなる暮らしが待ち受けているのか想像すらつかなかった。

 琴に手を引かれて歩く少年は九歳になった利助だった。目鼻立ちは父親似の容貌に顎の張った顔付きをしていた。小さな草鞋を履いた足を懸命に運び、村境の杣道を登った。丈の短い幾度となく水を潜り縞目の薄くなった柳井絣を着ていた。道に張り出た木の根を越えるつど、着物の裾が割れ兵児帯の結び端が忙しく揺れた。

 本来なら、林利助は束荷村の庄屋に次ぐ畔頭の倅のはずだった。村人の中でも誇り高い自作農の子として同年輩の子供たちの羨望の眼差しを受けるはずだった。しかし三年前、父の林十蔵が不始末をしでかし田畑から家屋敷まで売り払うはめになった。そのため、林十蔵は妻子を妻の実家に預けて夜逃げ同然に村を立ち退いた。

 林利助は眉間に皺を寄せ目を細くして振り返った。一見、怒ったような表情だが、目元に涙が滲んでいた。口元をキッと引き締め、可愛げのない強情そうな張った顎が少年の容貌に遣る瀬ない寂しさを加味していた。色あせた丈の短い単衣の絣の裾が風を孕んで割れた。村を流れる小川が蛇のようにうねって北から西へと白く輝く。朝が早いため山から吹き下ろす風は冬の名残をとどめて冷たかった。

 利助は生れてから九才までを束荷村で過ごした。いまは山口県光市大字束荷字野尻となっているその地に、彼にまつわる逸話がいくつか残されている。

 幼い頃、利助は体が弱かった。友達と遊ぶ年頃になってからも『瓢箪瓢箪青瓢箪、酒飲んで赤ぅなれ』と囃された。だが、成長するにつれて丈夫になり、村の寺小屋で手習いを学ぶ頃には餓鬼大将になっていた。

 寺小屋の師匠は浪人者で名を三隅勘五郎といった。利助も近所の子供たちと同様に寺子屋へ通ったが、手習よりも戦ごっこをして遊ぶ方が好きだった。戦ごっことは子供たちが二手に分かれ、大将の采配のもと棒切れを振り回して敵の陣地を取る遊びだ。

 利助は必ず一方の大将になった。ある日、利助の率いる軍勢が相手に圧されて負けそうになった時、利助は相手の軍を葦原に誘い込んで風上から火をつけた。忽ち利助の軍は勝に転じたが着物を焦がした子供もいて、その夜祖父から酷く叱られた。

 ある雨の日、雨水が溝を流れるのを堤を作って堰き止める遊びをしたという。他の子供達は水が堤を越えそうになると更に高く泥を積み上げ、ついには堤が決壊してしまった。だが、利助は堤に小さな孔を穿ち、水が堤を越えそうになるとその孔から水を出し、少なくなるとまた穴を塞いだ。他の子供達は利助をなじったが、しかし、そうしなければ堤は必ず崩れるものだ、と言って利助は平然と笑ったという。

 またある日、鎮守の森で遊んでいるうち、仲間の誰かが山車を床下から引っ張り出して遊ぶことを思い付いた。村の鎮守の神殿の床下に、祭りで使う山車の台車が仕舞ってあった。他の子供たちはすぐにその話に飛びついたが、利助にはその遊びが面白いとは思えなかった。何だか幼稚に思えた。父がいなくなってから、利助は素直に遊びに没頭することが出来なくなっていた。やがて山車を床下から引っ張り出して子供たちは祭りを真似て騒ぎ出した。その様子を見ていた神主が木の陰から飛び出して一喝すると、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。だが一人利助だけは逃げなかった。その場に立ったまま、神主が大股に駆けて来るのを待った。

「コラ、お前が子供たちの大将か」

 神主がそう言って怒鳴った。しかし、利助は眉一つ動かさず神主を見上げた。

「いいや、オラは山車で遊ぶのに反対したんじゃ。じゃが、皆が遊ぶからここにおっただけじゃ」

 そう言うと、利助は平然と一礼してその場を去った。

 神主は子供の胆力と冷静さに驚き二の句が継げなかった。後日、神主は村人にその時の様子を話して、利助は行く末大泥棒になるか大人物になるかのいずれかだろうと語ったという。

 しかし、束荷に伝わっている逸話のどれ一つとして、刮目すべき内容を含んでいない。秋山家で厄介になっていた三年間も、村の寺子屋に通い百姓の子として読み書き程度の学問を修めたが、それとても学業優秀な子供とは言い難かった。遊び好きな子としての逸話はいくつかあるものの、目覚ましい学才の片鱗を見せたとの伝承はない。後に伊藤博文として日本の近代史に足跡を残す人物の幼年期はごく普通の、活発な少年だったということなのだろう。

 川沿いの道を上流へと辿ると村外れで左へ折れ土手道と別れて山へと分け入る杣道との分岐点がある。土手道はそこから右に大きく湾曲して峠越えの山道となり玖珂郡高森村へと続いている。琴たち一行が向かうのは土手道ではなく、そこから杣道へ分け入って山陽街道の呼坂宿を目指す。その分かれ道で三人は立ち止まり、豆粒ほどに小さくなった人影に向かって頭を下げた。そこが集落を後にする者たちが別れを惜しむ最後の場所だった。

 芽吹いたばかりの新緑の木立から木漏れ日が山懐を縫うように続く杣道に降り注いでいる。三人は一言も言葉を交わさず、露に濡れた柔らかい草を踏み拉いた。

 先を行く安蔵の背負子には柳行李が一つ括りつけられ前屈みに杖を突いた。安蔵の後を琴と利助が一間と遅れずに続いた。琴の背中にも風呂敷に包まれた重そうな荷物があった。

 若い草の匂いが濃かった。長いなだらかな坂道を登って来た三人の首筋には早くも汗が浮いた。利助は琴に手を曳かれ、道に張り出した木の根や雨水で抉れた窪みを飛び越えた。そのつど確実に歩みを刻む牛のようなたゆみない大人の足運びに、子供の軽やかで不規則な足音が入り混ざった。ふと足を止めると曳かれる手に力を入れて、利助は母を見上げた。

 新緑の木漏れ日が降り注ぐ杣道は大きく左に折れて山肌の陰に姿を消している。振り返って束荷村の聚落を目にすることができるのはこの切り通しが最後だった。

「利助、疲れたんかぃのう。まだ家を出たぱかりじゃが」

 琴は声を掛けた。利助はその問い掛けには応えず、後ろを振り向こうとした。

「先を急ぐけえ、立ち止まりんさんな」

 琴は瞬時も歩みを止めず、利助の手を曳いた。利助は振り返るのを止めて母の歩みに合わせた。母から言われれば、抗うことはできなかった。再び琴の横顔を盗み見て跳びはねるように歩みを速めた。

 彼らが歩む杣道は聚落から山懐へと伸びている。振り返ればなだらかな低い緑の山々が住み慣れた地を取り囲んでいる。生まれてから九才まで暮した日々が眼下の山里にあった。楽しかった日々も、悔しさで顔を上げることのできなかった辛い日々も、すべてその地に刻まれている。利助は束荷村の風景を記憶に焼き付けるように見詰めた。

 背後の木立の陰に束荷村が消えて目の前に山肌が迫ってきた。

 傾斜面に取り付いた胸突き坂に杣道はうねり、やがて束荷村境の峠に出た。下り道に差し掛かればそこはすでに小周防村だ。押し潰すように重くのしかかっていた束荷村を後にすることがこんなにも容易だったのか、と子供心ながらも調子抜けするものがあった。数々の楽しい思い出も辛酸も屈辱も、そっくりあの村に置いてきたような気がした。それは余りにもあっけなかった。

 山道を下り終えて平坦地に出ると安蔵と琴の足取りは一段と捗った。島田川本流にかかる木橋を渡るとそこは小周防村八幡所だ。かつて見たこともない広大な圃場に目を見張りつつ、利助も懸命に足を運んだ。そこから呼坂宿まではほぼ半里の道のりだった。

 束荷から萩まで三人は二泊三日をかけて歩くつもりだった。壮年男子の足なら二十里の道のりは一泊二日で歩けなくもない。その場合はまだ暗いうちから提灯で足下を照らしながら出立し、日暮まで歩き続けて山口に宿を取る。次の日も辺りが暗いうちに七ツ発ちをして、萩への往還路をひたすら歩き通すことになる。しかし、女子供連れではそれほどの強行旅程は踏破できない。琴たちは一日目の宿を宮市に取ることにした。今では防府市と呼ばれる町の中心部から外れた東部の鄙びた一地域となっているが、当時は天満宮の門前町として最も開けた土地だった。

 呼坂宿で一休みして草鞋を履き替え、昼近くになって徳山の遠石八幡宮に到った。

 徳山は長州四支藩の一つ徳山藩の城下町だ。遠石八幡宮の参道階段下の街道には茶店が街道の北側に並び、南側は低い石垣となり瀬戸内海が初夏の光りに輝いていた。利助たちは門前に並ぶ茶店の軒先に腰を下ろして、夜も明けないうちから琴が握ったむすびを頬張った。醤油の醸造場が近くにあるのか大気に独特な匂いが混ざり、眼前に広がる海には風待ちの千石船や五百石船が数隻停泊していた。

 茶店で四半刻も休むと元気を取り戻し、琴たち一行は縁台から腰を上げた。まだまだ先は長い。旅人の流れに身を任すように三人は黙々と街道を歩きだした。足下の石垣には瀬戸内海の潮が押し寄せ、波音がさざめいていた。

 西空が茜色に染まり出した頃、三人は椿峠を越えた。眼下には絵のような遠浅の入り江と引き絞った弓なりに湾曲した砂浜と疎らな聚落が望めた。その地を富海といった。

 子供連れとはいえ、余りにもはかがゆかない足取りに琴は内心不安を覚えた。明日の山口まではそれほどの道のりではない。勝坂の峠を越えれば山口までは比較的平坦な道だ。まだ日の高いうちに着けるだろう。しかし、難関はその先だった。山口と萩との間は中国山地を越える往還路を行くことになる。往還路は別名御成り道といって藩主が参勤交代の折に通る道で山陰の萩から山口、勝坂を経て瀬戸内の三田尻まで続いていた。距離は十一里三十四町。道幅はおおむね四間に保たれている。歩き易いように難所は切り開かれ、足場の悪い湿地には石畳が敷かれていた。

 江戸時代、長州藩には大道が三本通っていた。小瀬から高森、野上、宮市、小郡、船木を経て赤間関に至る三十六里の山陽道と、石見国境の野坂から徳佐、山口を経て小郡に至る十二里二十八町の石州街道、それと萩往還路だった。大道の管理は厳格に保たれて街道松が植えられ、駕籠場所、番所、一里塚などが設けられていた。

 三日目の払暁、三人は山口竪小路の宿を出立した。

 山口は西の京といわれている。大内氏が京を擬して町造りをしただけあって条理制らしき辻と町名がここかしこに見受けられた。八坂神社の大鳥居の前を通り過ぎ伊勢大路との交差を真っ直ぐに北進し、やがて天花の集落に到った。この里まで来ると条理の町並みは消え失せて道は稲の植わった若い緑の棚田に溶け込み遠慮がちに山懐へと迫ってゆく。左手の低い尾根越しに瑠璃光寺の五重塔の頂がわずかに見えた。

 天花の集落を過ぎると道は急勾配となって山肌にとりかかる。参勤交代を駕籠で行く藩主も坂の険しさゆえに降りたといわれるほどの急峻さだ。その地を一の坂といった。それからもいくつもの峠を越えて中国山地を横断しなければならない。大人の足をしても難路であった。

 山間を縫う街道にしては、往還路に人通りは絶えなかった。早馬こそ駆け抜けないものの馬子に曳かれ荷駄を積んだ馬や大風呂敷を担いだ行商人、それに挟み箱を肩に担いだ飛脚などが行き交った。

 山口から萩までほぼ五里。途中、佐々並に御茶屋があり明木に宿場があった。しかし、琴たちは宿に泊まるつもりはなかった。一日にして踏破する心つもりだった。

 最初のうちこそ利助は懸命に歩いたが、佐々並の茶屋で昼を使うとさすがに歩けぬと駄々をこねた。九才の子に不憫との思いはあったが、疲れているのは大人たちも同じことだ。石清水で喉を潤し四半刻ばかり足を冷やしてやると、利助は健気にも歩き出した。しかし、登り下りの激しい山道のため、明木まで来た頃にはへばってしまった。やむなく安蔵の負う背負子の荷を一つ琴が引き受けて、利助を柳行李の上に座らせて落ちないように背負子に括り付けた。

 日が西に傾きだした頃、三人はやっと倅坂峠を越えた。萩の基点唐樋の札場から一里を示す一里塚が路傍にあってさらに坂道を少し下ると眺望がひらけた。日差しにきらめく阿武川とその河口に広がる萩の町を林利助は安蔵の肩越しに見た。

 萩は長州藩主の暮らす城下町である。名の由来はその地に萩浦という集落があったためとも、椿の群生地であったためともいわれている。土地の名を単に椿と呼んでいたものが、椿ツバキのツを取り去るとバキとなり、言いなすうちにハギとなったというのだ。今も菊ガ浜を挟んで指月山と向き合う海に突き出た小さな休火山笠山の麓には椿の自然林がある。萩と椿には深い縁があるようだが、名の由来ほどに萩は風雅な土地ではなかった。

 防長二州(現山口県)に封じられた当初、毛利氏は居城を小郡か三田尻のいずれか気候温暖な瀬戸内の山陽道沿いに構えたかった。しかし戦略的な見地から徳川幕府はいずれも許さなかった。それなら少々不便だが、せめては内陸の山口に藩庁を置きたいと願い出た。だがそれすらも許されず、毛利長州藩は日本海に面した辺鄙な萩に押し込められた。

 江戸初期、萩は見渡すかぎり一面に芦原の広がる阿武川河口の湿地帯だった。寒漁村ともいうべき集落が河口の東の丘陵に疎らに見られる他、人の住まない荒涼とした荒地が広がっているだけだった。河口西の岸には指月山と呼ばれる小高い丘が波打ち際に離れ小島のように聳えている他、芦原に迫る芒々とした日本海が広がるのみだった。

 まず湿地帯の西端の海岸に突き出た小高い指月山に城を構えると、阿武川を上流の川島で開削して川筋を左右に分けた。広大な湿原を干拓する手始めとして、河口湿原を三角州となす土木工事を施した。阿武川は三角州によって左右に分けられ、日本海へ向かって東を流れる川を松本川、西を橋本川と名付けた。

 城下町を形成すべく一面の湿原を人の住める土地にするため、毛利家々臣は上下を問わず藩の存亡をかけて干拓した。三角州の沖積地に特有な泥沼地の水抜きと水運をかねて、橋本川の平安古ひやこから松本川の浜崎にかけて新堀川を開削した。そして、その上流にも三角州の用水と水運のために溝を掘り割った。その溝の名は味気なくも大溝と呼び習わされていたが、明治の一時期に溝の流水を利用して藍染めが盛んに行われたため、いまでは藍場川と情緒豊かな名で呼ばれている。

 日本海に突き出た小島に築城された萩城は別名指月城と呼ばれた。日本海と松本川を天然の堀とし、開削した堀川によって城郭と城下町とを画した。そして、城に近い町割りから順次石高の高い者から低い者へと武家屋敷を整然と配した。身分の上下は住む場所によって一目瞭然に分かるようになっていた。

 西の空に残照があるうちに、三人は萩の町外れにたどり着いた。そこから橋本橋を渡ると御成り道を真っ直ぐに北東へ進み、御成道の基点を示す唐樋町札場に辿りついた。そこが林十蔵と待ち合わせていた場所だった。

林十蔵は待ちかねたように三人を家並みの軒下に引き入れると、無言のまま安蔵が背負子を降ろすのを手伝った。三年ぶりに会う父親と母子だった。安蔵がひとこと「萩は遠いもんでありますィのぅ」とだけ言った。林十蔵は黙ったまま安蔵に深々と頭を下げた。

 利助は面目を失ったように悄然と背負子から降り立ち、遠慮がちに路傍に立ち尽くした。林十蔵は九才になった倅をそれほど見詰めることもなく、安蔵の背負子を無理に引き受けて琴の荷も奪い取るようにしてその上に積み上げた。

「いや、わしが背負いますけえ」

 と安蔵は言ったが林十蔵は首を横に振ると、軽々と背に負い腰を屈めて先を歩き出した。琴は利助の手を引き安蔵がその後に続いた。

 林十蔵が借りた長屋は唐樋町からは東の方角、二町ばかりの道のりだった。林十蔵は肩にのしかかる荷に歯を食い縛った。家を潰してしまった責任と放擲してきた家族の重みを改めてひしひしと感じた。涙があふれて頬を伝った。


 一晩ゆっくり休むと、翌朝早く利助は両親に連れられて新堀町の法光院へ上がった。

 土原の長屋からは西へ五町ばかりの道のりだった。現在は法光院という名を地図上に見付けることは出来ない。その場所には真言宗円政寺という寺の名が記されている。明治時代に神仏混交の策により山口にあった円政寺と併わされて改称された。

法光院は町人町から城へと伸びる御成道には面してなく、南へ路地を半町ばかり入った場所にあった。そこは昨日林十蔵と待ち合わせていた唐樋の札場よりも更に西、城に近い武家町の中ほどだった。同じ路地の並びには桂小五郎の質素な生家が建っている。ちなみに法光院の裏手筋が高杉晋作の生家のある菊屋町だ。方位からいえば法光院の裏筋にあたるが、城を中心として町割がなされていたから高杉の屋敷こそが表通りある。萩に来るや偶然にも、林利助は高杉晋作や桂小五郎の暮らす町に足を踏み入れたこととなった。そこに林利助の運命めいたものを感じないでもない。

 目にすると威圧するばかりの法光院の大伽藍だった。村ではついぞ見たことのない物置小屋の屋根ほどの屋根付き門を潜った。続く参道には巨大な松が三本並び立ち、威圧する天を突くかと見紛うほどの瓦屋根の聳える神殿の手前の社務所の裏へ回った。そして出て来た下働きの男に神主との面会を求めた。

 貧農の家に生れた次三男の例にもれず、恵運も幼少の折りに口減らしのために野尻の家を出された。ただ江戸や大坂といった大都市と異なり、長州藩領内では百姓の小倅の奉公先は限られている。およそ地方の素封家の下男奉公か町の大店の小僧奉公より他にない。そうすると下男奉公から財を築いて素封家になることは望むべくもないし、大店奉公の小僧から身を起こして暖簾分けで新店舗を構えて金看板を上げることも叶わぬ夢だ。

しかし唯一、寺や神社への奉公なら身を粉にして励めば出世も叶わないわけではない。勤勉の上に学才が備わっていれば神官や法主となって、然るべき地位に就き尊敬を集めることも出来ないことではない。

この時代、田舎の百姓の子が学問をする場所は寺社に限られた。恵運は幼少の砌に秋山家から萩の神社へ奉公に出された。親の願い通りに学問を積む傍ら、神社勤めも懸命に果たして、恵運という名を頂戴するほどの出世を遂げた。そして故郷を遠く離れた異郷の地で人々の信任を得て法光院の神主にまで出世を果たしていた。

 林親子は庫裏の勝手口から上り六畳の板の間に通された。待つほどもなく狩衣姿の恵運が姿を現した。裾を靡かせて座るのを待ち、

「お陰様で、束荷村から妻と子を呼び寄せることができました」

 林十蔵は大仰な仕草で蛙のように平伏した。

 恵運は琴がそうであるように小柄な男だった。年は十蔵より二十歳近くも上ですでに老齢というに相応しい。頬骨の張った顔立ちに落ち窪んだ眼窩に鋭い眼差しがあった。

「利助とやら、年は幾つじゃ」

 十蔵の挨拶には見向きもしないで、恵運はその背後に蹲る少年に視線を落とした。

 概して長州人は社交辞令を省く傾向がある。本質的な用向きを告げればそれ以上の言を弄しない。恵運が十蔵の言葉を無視したのも不機嫌だというのではなく、それが取り立てて言うに及ばない事柄だったというに過ぎなかった。それよりも、少年の顎の張った勝ち気そうな面差しと負けん気の眼差しが彼の関心を呼び覚ました。

「はい、九才でございます」

 利助は物怖じしない口吻で答えた。それに「うむ」と頷き、恵運は琴を見詰めた。

「屋敷奉公の口を見付けてはあるが、萩では何よりも学問が大切じゃ。田舎でどの程度勉学を積んだか、それを知りたい。しばらくここに置いてみんか、掛かりはわしが見るが」

 恵運は念押しするように十蔵に言った。

 『掛かり』とは生活全般の費用のことだ。恵運は林利助を手元に置いて彼の学才を見極めてみたいと思った。当然まだ十歳にも満たない利助の意を聞く必要はないとされた。それは鉢植えの松を仕立てるのに松の意志が問われないのとなんら変わらない。

 唐突な申し出に十蔵と琴は言葉を失った。一子利助の学問に恵運が興味を持つとは思いも寄らなかった。確かに束荷村では近所の寺子屋へ通わせたが、それほど子供の学問に意を払っていたわけではない。年が到れば子に読み書きを習得させるべく寺子屋へ通わせるのは世間の親として普通のことだとして祖父の秋山儀兵衛が通わせた。だが恵運のいう学問とは世間並みの「読み書き」ではなかった。ここは長州藩城下町の萩だ。当然恵運の言う学問とは「読み書き」ではなく、武家の素養たる四書五経のことだ。それらの手解きを仕込もうと、利助の面構えを見て瞬時に考えた。恵運が研鑽を積んで神官として認められたように、利助も事と次第ではモノになるやかも知れぬ、との期待を抱いた。

 十蔵と琴にすれば恵運が利助を預かると言い出したのに異存のあろう筈はない。養う口が一つ減るのは願ったり叶ったりだった。法光院に置いてもらえると素直に喜び、十蔵と琴はすぐさま相好を崩して床板に額を擦り付けた。

 だが恵運が特別に子供の教育に熱心だったというのではない。当時、長州藩では熱病に取り憑かれたように学問熱が蔓延していた。ことに萩城下には奨学の気風が漲っていた。身分の低い者が立身出世するには学問こそが唯一だ、との信仰に似た思い込みがあった。林利助にとって幸運だったのはそうした時代に巡りあったことだった。

 事実、幕末期の長州藩は全藩を挙げて教育熱にとり憑かれていた。その様は尋常ではない。長州藩に奨学の気風をもたらした発端は就任して間もない若い藩主の政策だった。

 本来なら藩主は家臣団に担がれる神輿のように、藩政を藩政組織に一任して安穏と御座を暖めていれば良い。むしろ、藩政に対して藩主が確固たる意思を持たない方が治世はうまくいくとさえいわれた。しかし、毛利敬親にはそれが許されない事情があった。

 藩主に就任するや財政破綻の厳しい現実が待ち受けていた。藩の借財は年貢収入の二十二年分にも達し、三十六万九千石の領地から上がる年貢だけでは早晩行き詰まるのは明白だった。官僚組織に堕して久しい家臣団は明快な改善策を見出せないまま、若い藩主が何をしでかそうとも直接自分の身分に関わりない限り嘴を挟まなかった。それほどまでにも長州藩は改革を断行しなければ抜き差しならない状況にあったといえる。

 毛利敬親は藩主に就任する六年前に一通の藩政建直しの建白書が上申されたことを知っていた。それは当時江戸当役用談役にあった四十九才の男が記した藩政改革基本綱領だった。極めて実務的で明快に論述した改革基本要綱を、藩の重臣たちは下級藩士が提出した建白だとの理由だけで一顧だにせず、和綴じの冊子は江戸桜田の上屋敷の文箱で埃に塗れていた。毛利敬親はそれを取り上げて彼に藩政改革を託した。重臣たちにとっては青天の霹靂だった。しかし重臣たち誰一人としては若い藩主の決断に異を唱えなかった。彼らは一様に藩政改革は一年と経たずして失敗して無に帰すと確信していた。

 天保九年、毛利敬親は五十六才になっていた村田清風を政務役に抜擢して、破綻の危機に瀕していた藩財政の立て直しを命じた。三百諸侯が厳しい身分制度を敷き、依然として門閥家柄による行政を執行していた世にあって、長州藩は家禄わずか二十五石の家格でしかない下級藩士に藩政を委ねた。それは若い藩主のすさまじいまでの決断だった。

 村田清風は速やかに諸制度の改革、とりわけ財政改革に果敢に着手した。藩の借財は銀八万貫に達していた。もはや一刻の猶予もならない深刻な事態だった。

 村田清風は御用商人を集めると借金の三十七年間棚上げを一方的に宣言した。そして、極端な緊縮財政を断行した。江戸藩邸奥向きの浪費を削減するために、藩主に木綿の着物を着用するように求めた。毛利敬親は村田清風の進言を素直に聞き入れ、進んで木綿の着物を着たという。倹約令は奥向きや家臣はもとより領地の庶民にいたるまで徹底された。しかし、その程度の緊縮財政策は同じように財政危機に見舞われていた他藩でも試みられている。緊縮策だけで藩財政を立て直すことが到底かなわないのは明白だった。

 村田清風の改革の真髄は商業振興にあった。

彼は北前船による交易が莫大な利益を上げていたのに目をつけ、藩内領民に対して四白(米、塩、紙、蝋)政策を推奨した。具体的には農地の干拓開墾を進めて米の増産を図り、瀬戸内海沿岸に広大な塩田を造り、晴天に恵まれた瀬戸内の気候を利用して塩の生産を奨励した。同時にそれほど高くない中国山地に楮や三ツ又それに黄櫨の植林を督励して紙や蝋の生産振興に努力した。それら米や塩や紙や蝋がすべて白いことから「四白政策」と呼ばれた。殖産興業を奨励して交易産品を作らせただけでなく、物産の売買に対しては上ノ関、中ノ関、下関の三関といわれた交易港に会所を設けて廻船交易を藩が独占した。毛利敬親の藩政改革は藩財政の基軸を年貢中心の重農主義経済から、産業殖産と交易流通の商業経済へと転換させた。それは明治時代に行われた産業近代化の先駆けといえるものだった。

一年も経たず藩政改革は水泡に帰すと考えていた重臣たちは若い藩主の手並みに驚いた。ことに豪商と組んでいた重臣たちは借入金三十七年間棚上げ策に噛みついた。そして交易権を取り上げられた商人たちは重臣たちを唆せて村田静風の改革策に異を唱えだした。

 門閥出の重臣たちは「我らはまるで商人ではないか」と色をなし、藩の御用商人と結託して執拗に妨害を繰り返した。時には刀を引き抜いて清風の悪口を家の前で放言し、門柱に切りつけたという。しかし、村田清風は藩主の確固たる後ろ盾を得て、持ち掛けられた妥協策をすべて排して果敢に改革を断行した。そして、政務役への登用から六年にして藩政改革が軌道に乗ると何の未練もなく、さっさと職を退いて郷里三隅の陋屋に隠居してしまった。役職に恋々としない出所進退の潔さは鮮やかという他ない。

 村田清風が断行した改革の特筆すべき点は交易による莫大な利益を一般会計に繰り入れず、撫育局という特別会計に積み立てたことだった。表向き天変地異に備えるためのものだが、長州藩は撫育局の積み立てにより短期間に豊富な黄金を手にすることができた。幕末には実質百万石といわれるほどの財政力を有する雄藩に長州藩を押し上げていた。

 維新回天の偉業を成し遂げるには大衆を惹き付け、人心を一つにまとめる思想を必要とする。しかし、それも資金の裏付けがあってのことだ。潤沢な資金がなければ新式元込銃の一丁すら買えない。雄藩として幕末から明治維新に到る長州藩の活躍は村田清風の登場によって財政面で可能となった。あとは稀有な思想家の登場を待つばかりだが、やがて舞台装置の整った長州藩萩に吉田寅次郎が登場することになる。

 ただ村田清風の藩政改革の効果は財政面のみに止まらなかった。村田清風を抜擢した若い藩主ですら、思いも寄らない絶大な副産物があったことに気づかなかった。しかし、以後の歴史を考えるならその副産物の方が長州藩に真の藩政改革をもたらしたといえる。

それは優れた者は登用される、との前例が公になったことだ。ことに微禄な下級藩士たちは目を剥いた。なにしろ僅か二十五石郡奉行格の下級藩士が政務役に抜擢されて藩政改革を断行したのだ。厳格な身分制度の世にあって、長州藩毛利敬親の治世では能力さえあれば政務役に登用される、との希望の明りが下級藩士たちに灯った。

 事実、若い藩主はことのほか藩士子弟に学問を奨励した。萩在中の折りには週に一度は藩校明倫館に足を運んで参観し、年に一度秋には自ら詩作の課題を与えて試験を実施した。そして優秀な若者は家柄に関わらず抜擢した。後に長州藩が開明的な施策を次々と打ち出して、いち早く軍備を洋式化できたのも彼等、藩主によって登用された下級階層の者たちの働きによるところが大きい。

藩主の奨学の気風は疫病のようにまたたくまに長州藩全土に行き渡った。村田清風の引退後十年を経過した当時でさえも、重臣たちは競うように領地に私塾を開き、長州藩は萩城下のみならず山間僻地に到るまで教育熱が熱病のように充満していた。

 明くる日から林利助は法光院に住み込み、苛烈な学問修行が始まった。

 江戸時代の武家の学問は漢籍だ。四書五経から唐詩選に到り教養として詩作をものにする学問だ。ただ林利助は当然のことながら束荷村の寺子屋で往来物と称される手習をしていたに過ぎない。江戸の手習指南所では六諭衍義大意を教えることもあったが、田舎では専ら生活に必要な読み書きのみに終始した。束荷村で利助の成績が奮わなかったのも、寺子屋の学問に興味が持てなかったことに因ると思われる。

 恵運はいきなり九才の林利助に武士の学問とされる漢籍の入門編を課した。その方法は文章の意味や解釈を教えずに頭から読み下していくものだった。要領は祝詞を覚えるのと大差ない。方法は乱暴だが効果的な学習といえなくもなかった。例えば、算数の九九は経文のように理屈抜きで覚えた方が早い。林利助はそうした方法で三字経、実語経、学子経と次々と読破した。同時に、恵運は林利助に武家勤めの作法と心構えについてとことん教え込むことも忘れなかった。林利助を法光院で預かったのは実の処そこに眼目があった。

毛利長州藩城下町萩は武士の町だ。割の良い奉公先は武家に限られる。これからこの地で生きてゆくためには何よりも武家の学問と躾を身につけなければならない。そうでない限り、生涯を武家の下働きで牛馬のように使役されて人生を過ごすしかない。

 恵運による厳格な躾の下、学問漬けの一年が経った。

 その間、恵運は彼の持てる知識を利助に注ぎ込んだ。漢籍の入門編が一段落すると講義は四書五経に入った。驚異的な進捗といえる。だがそれ以後、恵運が教えるのは夜だけに限られ昼間は屋敷奉公へ出るようになった。いつまでも手許に置いて学問を教えた処で離農した浮浪人の倅に過ぎない利助が明倫館の教授になれるわけではない。学問で藩に認められるには藩校明倫館で優秀な成績を挙げなければならないが、明倫館へ通えるのは藩士の子弟に限られている。利助がいかに秀でようとも学問で藩政に登用される道は閉ざされていた。

 林利助が奉公で最初に上がった屋敷は福島家だった。利助はそこで小若党として奉公に励んだ。しかし、言いつけられる役目といえば賄方の小間使や留守番といった軽い用向きでしかなかった。若党は屋敷の雑用全般を勤める役目であるが、林利助のような子供の新参者に重要な仕事が回って来るはずもなかった。年上の累代の若党が主人の登城に挟箱を肩に付き従って行くのを門前で寂しく見送った。

 林利助が十二才の折、十蔵は仕事で福島家の近所まで来た。ふと十蔵が格子窓から覗くと留守番をしていた利助が見付けた。突然父が訪れたため林利助は嬉しくなり、顔を歪めて泣きだして父に縋ろうとした。すると十蔵は利助を跳ね付けて叱った。

「留守番という大役を言い付かっているというのに、泣き出すとは何事じゃ」

 それだけ言うと、林十蔵は後を振り向きもせずにその場を立ち去ったという。

 林利助の奉公先は二年の間に三度変わっている。それは林利助に瑕疵があったためではない。雇われの小若党は人手が足りればすぐに御払い箱となる。いきおい次々と奉公先を探さなければならないことになる。福島家の次に上がったのは児玉家だった。

 十蔵がかつて奉公に上がったことのある児玉糺の屋敷へ、利助は十蔵のつてで奉公に上がった。ここでも小若党の利助に与えられる仕事は賄方の買い物の走り使いだった。しかし、利助は仕事を几帳面に果たした。すぐに萩の町筋を覚え、児玉家の取引先の商家を覚えた。利助の才覚は下女に重宝がられ、やがて勘定まで任されるようになった。

 利助の勘定は手早い上に間違いがなかった。可愛い小若党の利発さはたちまち評判になった。賄方の下女の話を信じなかった当主児玉糺は試みに目の前で賄方の当日の勘定を利助にさせた。そして、その早サトウ一文の狂いもないのに改めて驚いた。

 利助の評判は両親の耳にも聞こえた。嬉しいと思う反面、飛んでもない失敗をしでかしはしないかと心配でならなかった。

 児玉糺が用向きで出掛けた帰りに雪に見舞われた。冬の萩は天気が変りやすい。日本海から吹き付ける季節風が強くなると空は鉛色の雲に覆われ、たちまち横殴りの雪が降り頻る。出先の屋敷で雪下駄を勧められ、それを履いて帰ってきた。家に着くと利助に履物を返して来るように命じた。利助は夕闇の迫る町へ出掛けた。手には主人が借りた雪下駄があった。頬を嬲る風は切るように痛く、雪道を歩く草鞋は濡れて氷のように冷たかった。

 当時、家は松本川を渡った松本村の外れ、金鑄原に一軒家を借りていた。三十坪ほどの敷地に十五坪ばかりの粗末な家が建っていた。僅かばかりだが菜園もあり、庭木と石を配した前庭があった。そのありようは萩の下級藩士の住まう家といったものだった。

 用向きを済ませ、主人が置いて帰った草履を手に帰路についた頃には横殴りの風に雪が混じった。寒風に首を竦めて背を丸めて雪の泥道に足を取られないように歩いた。気が付くといつしか帰路から逸れ、利助は無意識のうちに金鑄原の家へと足が向かっていた。日暮れた雪道に里心が出たのではなかったが、利助の脳裏に母親の笑顔と暖かい火の温もりがあった。

 実家は大通りから二筋ほど裏路地へ入った所にあった。利助は家の腰高油障子に明りが差しているのを見付けると矢も盾も堪らずに駆け出した。泣き声こそ立てなかったものの両の目からは涙が頬に伝った。

 油障子を引き開けると入り小口の土間で母が近所の子供達に餅を焼いていた。母はしゃがんだまま顔を上げて利助を見上げた。一瞬喜びに目尻を下げたがすぐに立ち上がり、

「何用で帰って来たんじゃ」

 と、厳しい声で突き放すように言った。

 利助は障子を引き開けたまま立ち竦み、呆然と母親の咎めるような眼差しを見詰めた。

「別に用はないけえ、ご主人様の御用で出掛けた帰りに寄っただけじゃ」

 利助は消え入るような声でそう言い、手にした草履を見せた。

「だったら、真直にお帰りなさい。ご主人様の御用も果たさぬうちに、寒さに負けて親の家に寄り道するとは何事ですか。一刻も早く御用を済ますのがお役目というもの」

 母の厳しく窘める声に、利助は首をうなだれて泣き出しそうに顔を歪めた。

 利助の唇は紫色に変わり細い体は小刻みに震えていた。濡れそぼった体を火で暖めてやり白湯の一杯なり飲ませてやりたいとの労りの言葉が喉元まで出掛かっていた。しかし、「寒くはないか、辛くはないか」と、優しい言葉を掛けてやりたい気持ちとは裏腹に、つっけんどんな冷たい言葉が琴の口をついて出た。

 七厘の回りに集まって餅が膨れるのを待っていた近所の子供達も、つい先刻まで楽しそうに笑っていた琴のわが子に対する剣幕に驚いた。はしゃいでいた声を潜めてことの成り行きを見守った。

 利助は黙ったまま油障子を閉めて雪混じりの風が吹きつける泥道を帰って行った。利助の去った障子を見詰めて琴は言い知れぬいとおしさに胸が詰まった。わが子を抱き締めてやりたいと思う気持ちが体に湧上り、すぐにも後を追いかけたいとの思いにかられた。だが、すぐに別の思いが琴の足を釘付にした。

 故郷の田畑を失ってしまい百姓に戻れない以上、利助には武士としての魂と心構えをしっかりと身に付けさせるしかない。そのために琴は心を鬼にした。屋敷奉公に上がった利助が一日も早く武家の水に慣れて武家社会で認められることを願った。

 その日以来、利助は学問と屋敷奉公に一層身を入れるようになった。

 甘えを許さぬ両親の我が身に注ぐ熱い期待は口で言われなくても痛いほどに分かっていた。両親に認めて貰って喜んでもらうには精励刻苦する以外に方法はなかった。主人の他出に供で随行した時ですら、玄関先で待たされている間にも指で地面に字を書き手習を繰り返したという。林利助は奉公に励むかたわら、寸暇を惜しんで勉学に精進した。

 嘉永六年(一八五三)が明けて間もない日、恵運は林十蔵を法光院に呼んだ。

 怪訝な面持ちで見上げる十蔵に、恵運はいきなり利助を学塾へ通わせるように強く勧めた。いや、勧めるというよりも、それはむしろ命じるような口吻だった。

 すでに利助の学問は恵運の手に余った。漢籍の素読までは教えられても、その内容や解釈となると正式に武家の学問を習ったことのない恵運には手出しができなかった。眉間に皺を寄せた恵運から決め付けるように睨まれると、十蔵はそうするしかなかった。家にゆとりはないが、十三才になった利助を萩でも評判の久保五郎左衛門の私塾に通わせることにした。ただ、利助の通う私塾を久保五郎左衛門の塾と決めたのも恵運だった。

 久保五郎左衛門の私塾は後に吉田寅次郎が再興することになる松下村塾の前身に当たる。場所は萩郊外、松本村にあった。利助は通学の途中の通心寺境内の天神社へ日参し、学問手習の上達を祈願したという。

 厳格な久保五郎左衛門の教え方が良かったのか、それとも正式な私塾で学ぶことが性に合っていたのか、利助の成績は群を抜き門下生七、八十人の中で筆頭から五番までの者が任じられる番頭に洩れたことは一度もなかった。とりわけ能書は優れ、塾の主席を外れることはなかったという。


 癸丑以来(きっちゅういらい)、という言葉がある。

 正確には癸丑甲寅の年のことで、つまり嘉永六年のことだ。

 筋金入りの志士を表すのに『癸丑以来国事に携わっている』というのである。薩摩藩の海江田信義は「自分は癸丑以来国事に携わっているが、大村益次郎は俄か志士の新参者だ」と蔑んだ。そのように嘉永六年は徳川幕府にとって終焉の始まりの年であった。

 その年、徳川幕府にとって屋台骨を揺るがす未曾有の出来事が持ち上がった。

 嘉永六年六月三日、突如四隻の米国艦隊が浦賀に来航するや幕府に開国を迫った。

 徳川幕府は三代将軍家光の御世に外国との交易を制限し、国を閉ざして二百年余の太平の眠りの中にあった。海に浮かぶ要塞とでもいうべき蒸気機関を備えた巨大艦隊の出現により、幕閣はただただ狼狽して応対を浦賀奉行に一任した。そして慌てて海防軍備として品川沖の臺場建設に着手し、江戸湾沿岸及び房州相州の海岸防備力の増強を急遽決定した。

 だが、徳川幕府が夷国艦船の脅威にさらされたのはこれが最初ではなかった。実のところ、夷国艦船の出没は長崎奉行所から数十年も前からもたらされていた。ペリー来航の四十五年も前、英国軍艦フェートン号が蘭国旗を掲げて長崎港へ侵入し蘭国商館員を拉致した。そして、人質をたてに食糧や薪水を求めた。この不埒な振舞いに長崎奉行や防備にあたっていた佐賀藩はなすすべがなく要求に応じるしかなかった。そのため後日、長崎奉行は切腹し佐賀藩主は隠居する事態を招いた。さらにはペリー来航の十六年前、米国商船モリソン号が七名の日本人漂流民を乗せて浦賀沖に現れた。不埒な振舞いに及んだ英国軍艦と違って米国商船は友好的に接してきたが、幕府首脳部にはフェートン号事件が記憶にしみついていたため、大砲を撃ち掛けて追い払ってしまった。

幕府には当時の国際社会における英国と米国の立場の相違も、この国との交易をいかなる理由から必要としているのか、との分析資料も対応能力も持ち合わせていなかった。

江戸時代中期から日本近海にもひんぱんに露国艦が姿を現すようになり、その対応策が政治課題になって久しかった。様々な意見具申もなされていたが、幕閣は江戸湾に米国艦隊が侵入するまで具体的な防衛策を講じてなかった。

事実、国を閉ざすと宣言した江戸時代初期の徳川幕府は西洋諸国の艦船の襲来に対応でき得る強力な軍事力を保有していた。そのためキリシタンを弾圧し宣教師を処刑してもスペインやポルトガルは昂然と徳川幕府に宣戦布告しなかった。当時の世界史を見る限り、後進諸国を侵略する先遣隊の役割を宣教師が果たし、その虐殺が侵略戦争の口実となって侵略された国や地域は数知れない。しかし、創建当時の徳川幕府は戦国時代を勝ち抜いた軍事大国で世界的な水準からしても強力な軍隊を擁していた。国を閉ざすにはそうした軍備が必要であり、ただ『国を閉ざす』と宣言すれば実行できるものではない。

 しかし歳月は開府当初より二百数十年も経っている。戦国時代から一歩も進んでない軍備で欧米列強と対峙することは敵わない。遅ればせながら幕府は江戸を守るべく軍事的対応策を下したものの、江戸湾の要衝に派遣する軍事力を事実上、手元に持っていなかった。確かに、江戸府下には俗に旗本八万騎といわれる武士団がいる。しかし、譜代の家臣は長く続く太平の世に慣れて、軍事力としてはすでに無用の長物と化していた。ペリー提督の率いる米国艦隊の来航によって江戸市中は混乱し、古道具屋は武具甲冑を買い求める旗本御家人で底払したという。

 徳川幕府は米国大統領の開国要請親書に対する取り扱いに窮し、朝廷の存在を持ち出して返答を先延ばしにした。一年の猶予をもらい朝廷に諮った上で返答するとして、ひとまず嘉永六年の黒船来航に対処した。窮余の策とはいえ、それにより徳川幕府は当事者能力を放棄したことになる。徳川幕府開府以来二百数十年間、政治権力としては飾り物でしかなかった朝廷の存在が幕閣の眼前にくっきりと浮かび上がってきた。

 黒船来航の影響は長州藩にも及んだ。

 嘉永六年十一月十四日、徳川幕府は江戸湾の要衝地相州警備にあった譜代の彦根藩を羽根田(東京都蒲田)に転じ、こともあろうに外様の長州藩にその後任を命じた。当時、長州藩は幕府に柔順なごく普通の藩の一つに過ぎなかった。

 幕府の命により、長州藩は鎌倉腰越より浦賀に至る相州沿岸の一帯を受け持つことになった。六十九ヶ村二万六百余石に及ぶ広大な幕府直轄地を警護することになり、長州藩は相南三浦郡上宮田に御備場総奉行を置き軍政を敷いた。長州藩宮田陣営の図は現在も萩博物館に残されている。それは戦を前提とした陣構えになっていて、藩士たちの暮らす兵営も陣内に配置されていた。

長州藩は幕府の命に従って、翌安政元年三月にとりあえず江戸藩邸の藩兵二百を当地に駐屯させ、初代総奉行に益田越中を以って任じた。藩主毛利敬親も江戸桜田藩邸にあって幕命の遂行に尽力した。

 長州藩が相州警護の任に当たってから、その地域の風紀が粛正されたという。彦根藩が警護に当たっていた当座は江戸から女達を呼び寄せ歌舞音曲に明け暮れていたといわれている。当地の漁師も彦根藩が警備をしていた当時は魚が面白いように売れたが、長州藩になってからは商売にならなくなったとこぼした、と記録にある。

 江戸から遠く離れた萩では当然のことながら、黒船の来航はそれほど深刻には受け取られなかった。ただ萩城下に攘夷を声高に叫ぶ一群の若者たちがいた。長州藩と境を接する石州藩津和野にも平田篤胤の学問の流れを汲む一派が棲み、平田神道を信奉していた。平田篤胤は古事記を研究した本居宣長の成果を基に、彼の国粋的ともいえる論理を展開した国学者だ。その影響は長州藩にも及び、『神道凝り』といわれるほどに熱心な平田神道の信奉者が藩内の各地に点在していた。それも庄屋、豪農といった地域の実力者に多かったという。それが後の高杉功山寺決起に際して吉城郡などの各地で庄屋同盟が出来て高杉軍を支援する礎になるが、当時は酔狂な学問好きの域を出ない。

 黒船来航が長州藩にもたらした影響は『攘夷』意識の高揚だった。ことに、平田神道を信奉する者たちは敏感に反応した。幕藩体制下、歴史を本格的に研究する風潮は江戸時代を通じて乏しく、僅かに水戸光圀の『日本史』と頼山陽の『日本外史』などが例外的に業績として存在するだけだった。幕末期には上から下までこの国は神代以来延々と国を閉ざしていたと思う人が一般的だった。後年、尊王攘夷思想で京都の町を疾走する志士ですら、鎖国が徳川幕府の政策として実施されたものであることを知らない者がほとんどだった。それゆえ、攘夷の思いは必然的に国粋主義的になり、狭隘な排斥主義の虜となった。

 黒船来航は林利助の身辺に何ら変化をもたらさなかった。いつもと変わらず久保五郎左衛門の塾へ通い、懸命に学問の研鑽を積む日々の繰り返しに明け暮れた。萩で国難を憂いて騒ぐのは一部の藩士、それも若くして明倫館の教授に就いていた吉田寅次郎とその仲間たちに限られていた。


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