六十一話 エピローグ
件の騒動からわずか一日。とは言っても、せいぜい夜を越したくらいの話だ。念の為、医者からは安静にするように、と軽く軟禁状態にあった莉緒は、自室にしている離れのすぐ傍にある木の枝に足を引っ掛け、逆さまになった状態で軽い運動に勤しんでいた。
「安静にしてるように、って言われたんじゃなかったっけ?」
そんな莉緒の視界の外から声をかけるのは、昨夜莉緒があの戦いに介入する発端となった少女である蘭だった。昨夜とは異なり、その顔は悲観に暮れたものではなく、普段と同じどこか小悪魔を思わせる笑みを浮かべていた。
「安静にしてるよ。患部はね」
逆さまになりながら、包帯が巻かれた腕をぶらぶらと揺らして見せる莉緒。確かにひと際傷の大きい腕は使っていないが、それ以外にも少なからずダメージは存在している。そういったものをひっくるめて医者は休めと言ったのだろうが、どうやら莉緒には正しい意味で伝わっていなかった様子だ。そんな事はお構いなしに体を動かしている。
それっきり何も言ってこない蘭に対し、莉緒は首を傾げるもならば、と彼もまた、自分の時間に戻っていく。いつもみたいに部屋に居座るつもりだろう、そう思っていた彼の背中に、思わぬ言葉が投げかけられる。
「……ありがとうね。我儘聞いてくれて」
「んあ?」
手が止まる。いや、手は動かしてはいないが。
完全に予想外の言葉が蘭の口から出た為か、一切の反応がとれずに木の枝にぶら下がりながら呆然としていた莉緒。数秒後、ようやく我に返ると、木から降り、蘭の目の前までやって来ると、彼女の額に手を当てる。
「……何?」
「いや、熱でもあるのかなって……。もう夏だからってエアコンとかガンガンに効かせたりしてない? 風邪って意外と簡単になるもんだよ?」
「はぁ~……」
呆れたように溜息を吐く蘭。それもそうだろう。たまに礼など言ってみればこうだ。まぁ、これも普段の行いの結果だろう。
だが、同時に彼女にとって今の莉緒の距離感は喜ばしいものでもあった。以前までなら、あからさまに邪険にされる事は無くとも、一言も発さずにそのまま自室に籠る事が多かった莉緒が、今ではこうして触れ合うまでになった。連日彼の部屋に押し入っていたのが実を結んだのだろうか。
「ま、いっか」
「?? 何が?」
「別に~」
莉緒に笑いかける蘭と、それに少し困惑した表情を向ける莉緒。傍から見れば、まるで兄妹のように見えない事も無いだろう。
「あ、そうだ、言い忘れてた」
しばらく何も言わずに莉緒に周囲に付きまとっていた蘭だったが、ここでようやくここに来た本来の目的を思い出す。
「お父さんの誕生日、お兄さん強制参加だってさ」
「え? は? なんで?」
「さぁねぇ、何ででしょう」
父親の誕生日の為、ひいてはそれの為に準備していた沙羅の為と昨日は奔走させられた莉緒だが、ここに来てそれに巻き込まれるとは思っていなかったのだろう。あからさまに動揺しているのが分かる。
「それに伴って、お父さんに誕生日プレゼント選ぶから、それに付いて来て欲しいんだよね」
「……」
「そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃん。仕方ないでしょ、だってお姉ちゃんは沙羅に付きっ切りだし、お母さんはお母さんで仕事が忙しいし、一番お父さんに近い立淵さんはお父さんが仕事を早めに終わらせる為にそのフォローに入ってるし、消去法でお兄さんしかいないんだよ」
「えぇ……」
消去法で選ばれた、からではない。これまで真っ当に人を祝った事が無い莉緒にとって、彼女の提案はどうしようも無いものだ。人生経験の薄さが仇となったか。
「だからほら、早く着替える。ついでにシャワーも浴びてきてよ。デートに汗臭い状態で行くのはマナー違反!」
「でも、俺今日安静にしてろって……」
「そんなの、私と一緒なんだから問題無いに決まってるじゃん。ほら、早く早く」
「あぁぁぁぁぁ……」
軽く絶望したような表情を浮かべる莉緒の背中を、満面の笑みで押す蘭。十分の後、身だしなみを整えた莉緒と共に父親への誕生日プレゼントの選定という大義名分を掲げ、莉緒との休日デートを楽しむ蘭がそこにはいた。
莉緒にとっては厄日とも言えるような日ではあったが、それでも、こうしていられるのは、自身が己を曲げてまであの場に駆け付けたから、そのおかげで守られた平和がここにあると、ようやく自覚できるものだった。
こんな日がずっと続けばいい、なんて事は誰にでも言える。だが、本心から望むのは、かつて本当の地獄を体験した者だけだ。
蘭に振り回されながらも、莉緒は青く澄み切った空を見上げながら思う。
願わくば、この拳を振るうべきと、そんな事を思う日が、永久に来ない事を……。
莉緒の外出がバレ、皐月にこってりと絞られたのは、また別のお話。
一章 終
一章、終わりです。
次章は、別作品が完結次第執筆となるため、半年後くらいからの投稿となる予定です。




