じゃじゃ馬ならし
嘘をついた。それはそれは大きな。
僕は挙式で誓い合うときのように、母に向かい合い、そして溜まりきったうっぷんを吐き捨てた。
場違いにテレビが陽気な声ーーー母が言うところの「拙い番組」をのうのうと語っていたのが、この厳粛な空気を軽んじていたようにも。
助けてほしいーーー。どうしたらいいのーーー。
母の顔が曇天へ移っていくのを横目に、しゃがれた声は出せた、僕は安易な考えだったがそう理解した。
他方、神妙な顔で話を聞いていた彼女だが、ある瞬間ーーー僕が3度ほど『いじめ』という単語を呟いたのを境に、突如、前触れなしに、イヤイヤをする赤子のように強く、そして激しく拒絶した。
ただ、かとなくその拒みからおよそ数十秒たった頃だろうか。僕が唖然として口を噤んだのを皮切りに、彼女は喧騒にまみれた心の中を一度、深呼吸で更地にした。
その後には、多分。彼女を彼女たらしめる威厳を保ちたいはずだった。
そうだ。正にそうだった。彼女は先生が生徒に喝を入れるような格好を取ったのだ。
僕に威圧を加える動きともいえるものだった。
けれど、それでも、次に彼女が取った行動は、
あまりに、あまりにもあっけなかった。
「嘘」ーーー生徒が先生にバツの悪そうに話すときのように、ぼそぼそと、細々と、嫋々と呟かれた声。感情は、あまりこもっていなかった。
僕は母への失念とともにそれを受け取らなかった。きっと、僕が言おうとした返答も、ともに場外へ投げ捨てられたはずだ。
途端、今度は、急転直下、「そんな訳ないわ」と露骨に声を震えさせ、動揺させて。その仕草は、僕にわざと気づかせようとしたようにも見えるし、トースターから芳しい匂いと共に勢いよく飛び出したパンのように口が滑った、とも。
けれども、どちらとも、僕が彼女の心に揺さぶりをかけたことには変わりなかった。
それが。その事実が。
母への失念にまみれた僕の心に斜陽が差し込んで、
また、僕の嘘を眩しく照らし続けたのであった。
誰がいじめているのか。母がその声のままに問い質す。けれど、イエスともノーとも言わないーーー首を振り、諦めにも似た雰囲気を漂わせると、
彼女は困惑し、それから絶妙な諦めを含んだ表情で僕を見つめた。
束の間の沈黙。その間も、母は僕を見続けた。『困惑』が具現化したような表情で。
だが、次の瞬間、途端に母は逃げるように、目をつむり、僕から顔を背けた。
不自然。あまりに不自然だった。
顔だけを曲げていて、それに身体が伴わないままで。まるで、『アンパンマン』が新しい顔を受け取ったようにも。
そして、唐突な悲しみ。
僕は邁進、かすかな期待を胸に秘めつつ、それを押し殺し母親に迫った。母の少し濃いめの化粧。メロドラマに出てきそうな甘い香水。まじまじと近付いたので嫌になるほどよく分かった。
そして、母の翳り、そして焦燥。それすらも、そう、『喜劇的』に映っていた。
ねぇお母さん、どうすればいいの、僕分かんないよなんでいじめられるの、僕は嫌われてるの、そんなの嘘だよね……。
彼女の焦点がゆっくりと僕に合う。その目は、少し恨みを身ごもっていたように感じたのは尚早か。
そして、斜陽も相まって、彼女がアンニュイな雰囲気を身に着けているようにも。
いける。そう確信すると同時に、僕は先程の母のように顔を背け、目をつむり、口元を歪めた。
見よう見真似、単なる戯れ事。
玉の輿に乗る女性のようにーーー威風堂々と、未来に向けて輝く心で。
彼女は僕を俄然見たままだったが、かすかに目の光が弱くなった、と感じられた。
そうやって、母の弱みにつけこむ。
その行動が。そして、その応酬が。
僕を優越感に染み込ませた。
かすかな期待が、輝かしい顛末に。
膨らんで、増大して、溢れさせて。
僕の胸をずっと煌めかせ続けていた。
刹那、彼女の目が僕を捉えた。気が、緩み、緩みきっていた僕への懲罰ともいえるような。母が僕に対する目は、先程とはまったく、限りないほどに、違いが合った。
僕を獲物のようにーーー食らい尽くすように僕を。
何も言えない。怯み続ける僕を尻目に、目を逸らさずにただ一心に母は捉え続け、その状況が三秒ほどだったか、次の瞬間、彼女は僕を束縛から解放した。
窓から入り込み、彼女の首元近くにかかった斜陽が、先程とは、違う、彼女自身の強さ、そして彼女への畏怖を引き立たせるものに思えた。
彼女は依然僕を捉えていたが、もう先程の恐怖は綺麗サッパリーーーむしろ好意、愛情すら抱擁している目であった。
そして、まだ何も言えなかった僕。
いや、もしも、万が一の可能性で、僕が母に打ち勝ち、声を出せたとしても、多分、さっきより今の方が、余計なことは口にはしたくなかっただろう。彼女の笑みが、やはり、どこか図ったように、機械的にーーー小さな子供が、まだ微笑みがこなれていないがため、ぎこちない微笑を浮かべているように。
僕がずっと黙っていたためだろうか、母は動きがないと判断したのだろう。
彼女は露骨に眉をひそめながら、自分の足音を敢えて僕に聞かせるほどに露骨に近付き、そして、甘い言葉を囁き、仇めく、麗しい女優のように、僕に笑いながら、そして吐き捨てた。
あなたの演技は甘いの、だからすぐ見透かされる、本当にふがいないわ、情けない子ね……。
打ちひしがれる僕。執拗に僕が貶され、非難されても、そのとき、このときは何も感じぬまま。母に蹂躙しようとした、罵ろうとした、その全てが見透かされていたことへの諦観。それは、ある意味、母が僕に行った調教とも言える行為だった。
僕はうなずきよりも、居眠りする際に頭全体をこっくりこっくりと動かすような頼りないおもむきで首を縦に振った。彼女がただ恐ろしかった。自分の無力さが、いや逆だ。逆に気持ちがいいほどに自覚できた。
戻る瞬間、せめてもの僕の抵抗だーーー彼女を一度だけ振り返った。母の顔と彼女へ斜めから差し込む光が見えた。彼女に降り注ぐ斜陽は、先程僕に近づいたためにちょうど母の顔に被さっていた。
それが、その輝かしい光が、今はとても陰険な、悪意に満ちたものにしか思えなかった。