Ⅱ 煉瓦造りの講堂
* * *
放課後、僕たちが図書館に迎えに行くと、ノーラは何冊も本を積み上げ、読書に没頭していた。
本に集中しているノーラの顔は、真剣そのものだったので、つい「へぇ、文字読めるんだ」と感心しそうになったが、そもそも普通に日本の義務教育を経て、高校まで卒業しているという話だったっけ。
ノーラに近づいて本の表紙が目に入った時、僕は改めて驚いた。どれもこれも英語の本じゃないか。
「すげぇノーラ、英語読めるの?」
これは普通に驚いても問題ないだろう。
僕は英語ができない。いや、授業は受けてるしヒアリングもあるけど、普通に書物を読もうかってレベルじゃない。
僕だけじゃなくて、ここの生徒の大半が僕と同レベルだろう。というか、わざわざ英語の塾や語学学校にでも通っていない限り、日本の学生の大半はそんなもんだろう、と僕は思っている。
三枝さんも驚いていたから、これは知らなかったらしい。
「――あ、おかえり。ねえねえ、しーちゃんの学校の図書館、蔵書がすごいねえ。明日もあたし、ここにいるわ」
にこにこしながらノーラが言う。しかし視線は一瞬三枝さんに向いただけで、あとはまた本に戻る。
「何を読んでたの?」
三枝さんが身を乗り出す。僕は積んである数冊の中に日本語の本もあることに気付いた。
「――ノルウェイ?」
そんな小説があったなぁ、という程度の認識しかない国の名前だった。あと、鮭が美味い。
ノーラは本から顔も上げずに答える。
「うん、ノルウェイ。もう少ししたら発つんだ。向こうで大学に行くの」
「え?」
「大学ぅ?」
思わず、三枝さんと僕は顔を見合わせる。
ただの野良猫かと思っていたノーラが、そこまですごい人だとは……
「向こうの大学、学費がタダなんだ。んで、あたしはヨーロッパの文化について勉強したいことがあって……だから、向こうで大学に通いながら、自分の調べたいことも同時に――あ、ごめん。もう帰る時間なの?」
ようやく顔を上げて、ノーラは微笑む。
どうしよう……今まで僕はノーラのことを散々猫扱いしてたのに、これじゃぁもう普通に、年上に対するように接しなきゃいけない気がする。
* * *
翌日ノーラは、朝から一日中図書館で過ごした。
昼食は一緒に食べたけど、その時に初めてノーラが『お姉さん』なんだということをきちんと理解できた気がする。
「馬子にも衣裳……」と言ったら殴られたけど。
すごくお洒落しているわけじゃない。ジーンズにタイトなノースリーブのニットを着ているだけだ。
でもさぁ、このタイトなニットってやつさぁ……アニメで観てたやつどころじゃなく、よりリアルでさぁ。
ハイネックなのにノースリーブってのもなかなか――うん、アレだ。おまけにジーンズはショートパンツだし。
「ってか、こんな格好で高校をうろついてたらさぁ、男子には目の毒だよ」
どこがどう、とは言えないけど。実際、僕も最初は驚いてまじまじと見ていたけど、段々見ていられなくなったし。
「え? そぉ? まぁ割とナンパされるカッコではあるけど。でもダボダボした服ってどっかに引っ掛けそうで邪魔だし、袖もジーンズも、長いのだとイマイチ動きづらいんだよね」
よくわからないけど、ノーラの服の基準は機動性重視らしい。
「ノーラ、あたしから見ても可愛いもの。ナンパされるのも無理はないわ」
三枝さんが何故か誇らしげに言う。
そうかなぁ。僕からしたら、三枝さんの方が可愛いと思うけどなぁ……
三枝さんがナンパされたら困るけど。
でもまぁ確かに、ノーラも身綺麗にしていれば可愛い方だと思う。
目は大きくてちょっとタレ目で、僕が年下だと思った程度に童顔だったし、髪の毛は明るめで、くせ毛なのかふわふわしている。脱色とかパーマじゃなく、これが自然の状態らしい。目にも少し色が入っているし。
「……あれ? ノーラって、ひょっとしてハーフなの? そういや名前も……」
今更、僕はそんな疑問を口にする。
「ハーフってか、多分クォーターくらいじゃないかな。髪も目も母親似って言われてるけど、目の色はあたしだけこんなで、お姉ちゃんは普通に日本人にしか見えないから」
つまり、母親がハーフってことか。
「お姉ちゃん、いるんだ?」
ノーラの家族のことも初めて聞いたなぁ、と思いながら僕がそう言うと、ノーラの表情が曇った。
「うん……いたんだ。もう何年も前に死んじゃったけど」
――しまった……
僕と三枝さんは困惑してしまう。
ってか、そんな顔するなら、お姉ちゃんとか言い出さなきゃいいじゃん――と思ったが、そのきっかけを作ったのは、やっぱり僕かぁ。
「ごめん」
「――あ、いや、ごめんごめん。あたしが勝手にしんみりしちゃって。タカシは悪くないよ」
ノーラは笑顔を作る。でもやっぱり寂しそうだった。
「そうそう、あたしってナンパもされんだけど、どうしてもなんか年下に見えるらしくて、ナメられんだよね。だからわざと大人っぽい格好してるってのもあるんだけどさ」
ノーラが突然話題を変えた。僕と三枝さんは、とりあえずうんうんとうなずきながら話を聞く。
「ノルウェイ行ったら、なおさら子ども扱いされそうじゃん? なんかいい方法ないかなぁ」
「あー」
「そうねぇ」
確かに、日本人はただでさえ幼く見えるらしいからなぁ。
「ナメられないように、ってんなら、金髪とかリーゼントとか……って、それじゃただのヤンキーだし、リーゼントは男だよなぁ」
つい、漫画のイメージで口にしてしまい、後半は言い訳になってしまった。
「あぁ、でも黒髪よりは脱色している方が、なんか強そうよね。ノーラは元々が茶髪だけど」
「脱色かぁ。それもアリだね。でもそれだけじゃイマイチ……もっと強そうに見えて欲しいんだけど」
ノーラはどうやら、可愛いというだけじゃ満足できないらしい。
まぁ、日本でもナメられるんなら、外国でどういう扱いされるのか、想像できなくもないような気がしなくもない。
やっぱリーゼントとか、いっそのことモヒカンとか……と、ふざけ半分に考えながら、昔の映画スターが櫛で髪型を整えるポーズのカッコよさを思い描いて、ふと思いついたことがあった。
「……あ、そうだ。ちょっと、こうやってみ?」
僕はそう言いながら、こめかみの部分に両手のひらを当てた。
「こう?」
ノーラはともかく、三枝さんまでこっち見て同じポーズを取る。可愛いなぁ。
「んで、こう引っ張ってぇ……」
そこで三枝さんは気付いたらしく、照れ笑いしながら手を放した。照れてるのも可愛いなぁ……じゃなく、今はノーラのことだった。
こめかみを持ち上げると、きゅっと目尻が吊り上がって、普段の表情よりキツめの印象になる。ノーラは目が大きいから、こうかはばつぐんだ。
これで例えば脱色して金髪とかにしてたら、日本人ならまず気軽にナンパをしようとは思わないだろう。
「あぁ、なるほどね。ノーラ、ちょっといい?」
三枝さんはポーチから櫛やブラシを取り出すと、きょとんとしているノーラの後ろに回り込み、二つ結びだった髪型を手早くまとめ上げて、高めのポニーテイルにした。
「――どう?」
「なんか慣れないな……でも、いいね、これ」
鏡を渡されて、右から左からと自分の姿を確認していたノーラは、やがてにんまりする。
「じゃあ今日、帰ったら自分で結えるように教えてあげる」
「ほんと? やったぁ。しーちゃんありがと」
女子二人は僕を置き去りにして、その後滅茶苦茶キャッキャしてた。
* * *
土曜日。僕たちは朝九時に駅前で待ち合わせた。
僕は初め、ここよりも大きな隣駅の街に、映画でも観に行こうかと考えていた。
でもノーラは「しーちゃんがこれから過ごす街を見て歩きたい」と言うので、僕にとっては住み慣れたこの街を色々案内することになった。
ちょっとした繁華街や、昔からあるけどリーズナブルなイタリアン。ゲーセンではプリクラを撮ったし、ノーラの勉強の参考になるかと思って、大学の構内にある図書館にも案内した。
「ここ、ドラマの撮影にも使われたことあるよね?」
大学の講堂を眺めて三枝さんが言う。
そういう噂は聞いたことあるけど、僕はそのドラマ自体を知らないので、三枝さんの浮かれっぷりにそんなに共感できなかった。
「えー? タカシくん知らないの? じゃあ今度あたしそのドラマレンタルするから、一緒に観ようよ」
そう言ってから、三枝さんは「あ……」と赤面した。
多分僕の顔も赤くなってただろう。
「そ、そういう意味じゃなくて……」
「あぁ、うん。大丈夫。ありがとう」
僕たち二人はよくわからないやり取りをして、ノーラは僕らを見てニヤニヤしていた。
夕方まであちこちうろうろして、オープンテラスのある駅前のカフェに入って、僕たちは一休みする。
ここは犬を連れて来ている人が多く、鎖に繋がれたままちょろちょろしているふわふわな生き物が、あちらこちらにいた。
「……ノーラ、大丈夫?」
オープンテラスに座りたいと言い出したのはノーラだったが、三枝さんは心配していた。僕もちょっと不安があった。
「だぁいじょうぶ。別に喧嘩するわけじゃないんだし」
自分で結ったというポニーテイルでそう言い切るノーラだったが、やる気満々にしか見えないのは何故だろう。
対する小動物たちも、ノーラが気になるのかしきりに鼻をひくひくさせているが、尻尾がヘタレている。
「なんかさぁ……犬は犬でわかるものがあるんだなぁ」
素直に感想を述べると、ノーラがにやりとする。
「あたしの経験だと、一番鈍いのは人間だね。まぁ、それに救われている部分もあるけどね」
――それは、僕のことを言っているんだろうか。
「それもあるけど」
と、三枝さんは笑いながら言った。
「ノーラ、疲れちゃうと……人の姿でいるの、つらいでしょ?」
――え……?
「あぁ、うん。大丈夫だよ。楽しいし、それに向こうに行ったら、ほとんど一日中ヒトでなきゃいけないだろうし。ルームメイトがいたらなおさら」
なんてことない、って感じでノーラは答える。
「ノーラ、その、僕が拾った時って――」
「あぁ、あん時は助かったよ。何しろ、しーちゃんの匂いと猫たちの噂だけを頼りにここまで来たからさ。そういや、お世話になったあの親子にもお礼してないなぁ……」
ノーラは快活にそう言いながら、テーブルの下で僕の手を少しつねった。余計なことは言うなという意味なのか。
そこでようやく、三枝さんが心配そうな表情をしているのに、僕も気付いた。
「あ、そかぁ。あの親子……キャットフードとかでも、いいかなぁ?」
「ん~、できれば住処を提供したげたいけど、あたしん家は遠いしねぇ?」
ノーラはそう言いながら僕をちらちら見る。
確かに僕の家は一軒家だし、ノーラを保護してた時の様子で、猫好きな一家だということもわかっているんだろうけどさぁ。
「で、でも、うちに来てくれるかどうか……」
「え? タカシんちで飼ってくれるって? きっと喜ぶよ。子猫たちを守りながらあの辺で暮らすのは結構大変らしいからさぁ」
……上手いこと誘導された気がするが、ノーラがそれで喜ぶなら――あの猫たちもそれを望むなら、いい提案かも知れない。
「え、いいなぁ。タカシくんちで猫飼うの?」
どうやら元々猫好きだったらしい三枝さんが、羨ましそうな顔をする。まぁ、ノーラを拾った(?)んだし、猫好きは当然だろう。
「じゃあしーちゃんも、タカシんちに猫触りにくればいいじゃん?」
さも当然のことのように言うノーラ。三枝さんと僕はお互い何故かあたふたしてしまう。
「さ、三枝さんがよければ、僕は……」
「あ、あたしもタカシくんがよければ」
ノーラって、ひょっとしたらいい奴なのかも知れない。