Ⅰ ポップアートなTシャツ
「いいから大人しくしろってぇ!」
僕は手近にあった自転車用のロープを両手で掴み、ノーラににじり寄った。
子供の頃によくベルトを二つ折りにしてピシッピシッと鳴らして遊んだなぁ……なんて頭の隅の方で思い出しながらロープを引っ張ってみる。しかしゴムの入ったロープはびよびよと伸び縮みするだけで、緊迫感も何もなかった。
別にこれで縛り上げようってわけじゃない。ただ、ノーラがこれ以上うろちょろしないように……
えっと、そもそも僕がロープを持ってる意味ってなんだったっけ?
改めてノーラを見ると、
「いーやーだー! 戻りたくないもん!」
と、廊下の突き当りの壁をがりがりと引っ掻いて抵抗している。これじゃまるで僕が悪者みたいじゃないか。
でも学校に潜り込んだノーラが悪いんだ。こんなとこにこんな格好でいるのを誰かに見咎められる前に、さっさと捕まえとかないと……
そう思って一歩踏み出した時に、ドアが開いた。
「……タカシくん?」
僕も、何故かノーラも動きを止めて声に振り返る。
そこには隣のクラスの三枝さんが、ただでさえ大きな目をもっと見開いて固まっていた。
途端にどっと冷や汗が出て来る。半裸の女の子を壁際に追い詰めて、手にはロープ……これじゃ一人前の誘拐犯か変態じゃないか。
「い……いやあの、これには海より深い事情が……」
裏返った声で言い訳するも、ますます怪しく見えるだけだろう。あぁ……三枝さんは僕の憧れだったのに……
僕はロープを持って片足を踏み出した形のまま、がっくりとうなだれる。
「ノーラなの? ノーラったら、こんな所にいたの?」
「しーちゃん? まさかと思ったけど、やっぱしーちゃん?」
……へ?
「心配したのよノーラ。勝手にどっか行っちゃったって……」
「だって、しーちゃんち探そうと思ったんだもん」
何故か、三枝さんとノーラは二人の世界を作り始めてしまって、僕は蚊帳の外だった。
「あ、あの……三枝さん、そいつ……」
ベタベタいちゃいちゃしている二人に向かっておそるおそる声を掛けると、三枝さんはようやく僕の存在を思い出したらしい。
「あぁ、タカシくん。この子、ノーラっていって……」
「ええ、知ってます。今僕んちに居候してますから。ってかそいつって」
「まぁノーラったら、タカシくんのおうちにいたの? そのままの格好で?」
「いや、それは僕の服ですけど、こいつ元は……えっと」
――いや待てよ。ひょっとして三枝さんはこいつの正体知らないかも?
「……タカシくん、あなたまさか」
急に三枝さんの目つきが悪――いや鋭くなる。え、やっぱり誤解されてる? でもどうやって説明したら。
「しーちゃん、あたしさぁ、捨て猫だと思って連れて帰られたの。タカシに」
「ちょ、ノーラそれ……」
僕は慌てる。そんな説明じゃ、女の子を捨て猫呼ばわりするような奴だと思われちゃうじゃん!
と、思ったら、三枝さんの表情がぱっと明るくなった。
「そうだったの? じゃあタカシくんも知ってるのね?」
……あれれ?
「うん、だいじょーぶ。でもタカシのうち、女の子の服がなくて」
「そういうことなら、あたしがどうにかするわ。とにかく、タカシくん」
「え、あ、はい?」
「ノーラを拾ってくれて……ううん、保護してくれて、ありがとう。タカシくんって優しいのね」
お礼を言われて、手に自転車のロープを握ったまま、僕は照れた。
「……ところでタカシくん、何故そんなものを?」
「あ、えっと……これは……」
――海より深い事情が――
* * *
結局、僕も三枝さんもまだ家に戻ることはできないので、ノーラは三枝さんの体操着を借りることになった。
ってか、まさか、女子って体操着の時にスポブ……げふんげふん、いや、とにかく用意周到な三枝さんには重ね重ね頭が上がらない。
ぼさぼさのままだったノーラの髪も、三枝さんが二つ分けにして結んでくれた。
そして僕らは三人で――この数え方が正しいかどうか、僕にはイマイチ自信がないが――学食のすみっこで昼食を摂っている。
「じゃあ、ノーラは電車にも乗らず、ここまで自力で歩いて来たってこと?」
三枝さんが目を丸くする。
話によると、三枝さんの自宅は数週間前に引っ越したらしい。今は学校まで徒歩十分程度だけど、それまでは電車通学で、毎朝一時間以上も掛かってたらしい。
そんなこと、僕は今日初めて知った。
おまけに、部活もやってるから、帰りは自宅到着が八時を過ぎることもあるらしい。大変だったんだな。
で、引っ越し準備のために連日ばたばたしている時、ノーラが家に寄りつかなくなってしまい、そのまま引っ越し当日になってしまった――という顛末らしい。
ちなみに僕の家は、学校から駅を挟んで反対側にあるので、自転車通学だ。
駅から学校まで徒歩だと十五分くらいだという話なので、まぁ歩いても三十分くらいなのかも知れないけど、わざわざ歩こうかという人は少ないんじゃないかなぁ。
――いや、ノーラは今日、その道のりを歩いて来たんだった。
僕が部屋着にしていた、今はノーラが部屋着にしているカラフルなシルクスクリーンイラストのTシャツと、ハイビスカス柄のショートパンツに、僕のビーチサンダルで……
しかも、僕から逃げる間にショートパンツの紐が緩んで脱げちゃうし……当然、女物の下着なんてものはうちにないから、ほんと、色んな意味で危険だったよ。
「――で、タカシに会った時、しーちゃんのニオイがしたんだ」
「え? 僕?」
僕がぼやっと回想している間に、三枝さんとノーラは今までの経緯を話し合っていたらしい。突然名前が出て来て、僕は焦った。
「確かその日って……ああ、合同体育の時にタカシくんと一緒に準備運動したけど……」
「そういや、体操着を持ち帰ってたなぁ」
「ううん、カバンじゃなくてタカシからニオイしたよ?」
「え、ちょっと、そういう言い方はさぁ、誤解されるからやめてくれよ……三枝さんにも悪いし」
僕は何故だか顔が熱くなるのを感じた。
準備運動は男女関係なく組まされるし、それなりにお互い身体が触れ合うわけだけど――先生たちは、年頃の男女を密着させることについての危険性をまったく考慮してないと思うんだよな。
案の定、三枝さんもノーラの言葉を聞いて、ほんのり赤面してる。僕なんかのせいで……
「そ、それで安心して僕に拾われたってのはわかったけど、今日はどうして学校まで来たんだ? やっぱり三枝さんに会いに?」
「うん、そう」
オニオン抜きにしてもらったミックスサンドを美味そうに食べながら、ノーラはにっこりする。
「最後にしーちゃんに会っておきたくてさぁ」
「最後?」
「なに? 最後って」
僕と三枝さんは同時に驚いた。それじゃまるで、ノーラがどっかに行ってしまうような言い方じゃないか。
「あたし、自分ちに帰ろうかと思ってさぁ」
「え? お前、家なんてあったんだ?」
「それ、どこ?」
また同時に、僕と三枝さんは驚いた――いや待て、三枝さんはちょっと反応が違うぞ?
「ちょっと遠いけどね、国内だよ」
「そうなんだ……やっと帰る決心がついたのね」
どうやら、三枝さんとノーラは以前にもノーラの実家について話し合ったことがあるらしい。
僕は嫉妬した。どっちに対してなのかわからないけど、嫉妬してた。そりゃぁ、僕のうちにいるのはほんの少しの間だけど……
「ノーラは、三枝さんとこに結構長いこといたんだ?」
僕はなるべくさり気ない風に質問する。
「うん、初めて会ったのは、春休みだったよね」
「うん、桜が咲いてた」
もうすぐ夏休みだ。ってことは、約四ヶ月前。僕のうちにいたのが先月末からだから、まぁ知らなくてもしょうがないかなぁ。そう考えて、僕はやっと落ち着く。
「じゃあなに、ノーラは春休みに家出したってこと?」
――そもそも、ノーラに春休みなんてものがあるのかどうかわからないけど……
「春休みっていうか、もう高校は卒業してるけどねー。今、絶賛ニート中?」
「……えぇ?」
顎が外れるかと思った。
だって、どう見ても僕より年下みたいな――身長や体型はともかく、言動も顔つきもせいぜい中学生くらいにしか見えなかった――ノーラが、年上だなんて。おまけに、普通に学校に通って卒業までしていたなんて。
うんうんとうなずいているので、三枝さんは知っていたみたいだけど……
「三枝さんは色々知ってるのに、なんで僕には教えてくれなかったんだよぉ」
つい、そんな言葉が出て来る。
でもノーラはきょとんとしていた。
「なんでって、タカシはなんも訊かなかったじゃん?」
「……っ」
そういうことか。確かに何も訊かなかったけど、そりゃぁこんなやつが、普通に学校行ってるとか思わないだろ。特に、ゲームやラノベやアニメっていうサブカルジャンルに慣れ切ってるなら、なおさらさぁ。
で、ふと湧き上がった疑問を、僕は口にする。
「でもそれってさぁ――人間の学校? どんぐりや山猫やらの学校じゃなく?」
* * *
午後の授業は美術が二時間だ。ちなみに選択授業なので二クラス合同になる。同じく美術を選択している三枝さんは、さり気なく僕の隣に席を取った。
「ねえ、もういい加減笑うの止まらないかなぁ……」
さすがに僕も憮然とする。だって、あれからずっとくすくす思い出し笑いを続けているんだよ。三枝さんが隣にいるのは嬉しいけど、やっぱ恥ずかしい。
「だって……まさかタカシくんがそんな童話みたいなメルヘン……」
三枝さんはそこでまた思い出したらしく、新たにくすくすと笑い始める。
この二十一世紀に稀有なメルヘン思考ってわけじゃなく、ラノベなら学校って概念がそもそもないから、思い当たるのがその程度しかなかったってだけでさぁ……
「だってあいつ、あんな状態でどうやって十二年間学校に通ってたんだか、僕には想像できないよ」
「そうかも知れないけど……でも、どんぐり……」
くすくす笑いは続く。笑ってるせいで上気した頬がほんのり赤くて、髪がさらさら揺れて、そのたびにいい匂いがする。困ったなぁ、なんだかむずむずするよ……
「それよりもさぁ、あいつ、放っといて大丈夫なの?」
僕は無理矢理話題を変えた。
「大丈夫よ。図書館なら誰も何も訊かないもの。授業が終わる時間も伝えたし」
さすが図書委員。保健室登校ってのは聞いたことあるけど、図書館登校もあるだなんて僕は知らなかった。しかもうちの図書館は、IDカードを作れば一般市民でも利用できるらしく、いちいち素性を訊かれることもないらしい。
「今日はその、ノーラは、三枝さんちに行くことになるの?」
筆を動かしながら僕は問う。ノーラがそうしたいならその方がいいし――僕も、家族の目を誤魔化す苦労がなくなるし――大歓迎な話なんだけど、遠い街に『帰る』と聞いてしまったので、名残惜しい気分になっている。
「今日はそうさせてもらえると嬉しいな。タカシくんちじゃぁノーラもお風呂とか入りにくかっただろうし。あとうちにはノーラの着替えなんかもそのままあるから」
あぁ、と納得した。
僕はどうやら、話を聞いた後でもアレを人として扱ってないようだ。三枝さんのその気遣いは、僕には欠片もない。反省しなきゃぁ。
「ねえ、明後日の土曜日。タカシくんは何か用事ある?」
三枝さんが小首を傾げて問い掛ける。
「え、べ、別に何もないよ」
「じゃあ、三人でどこか行こうよ。ノーラも久し振りに外に出たいと思うの」
「あ、あぁ。そうだね、うん」
ノーラが一緒というのは微妙だが、三枝さんとデートできる。いや、ノーラさまさまだ。