2 竜騎士―――The Dragon rider
その時、アレクセイの眼の端に黒い影が映った。
「誰だ!」
城壁の上に目を向けると、そこには竜騎士の証である、白銀の腕輪をした青年がいつの間にか立っていた。
「ちっ、シャサ・フルブライト様のお出ましか…」
そうアレクセイは呟き、一瞬、切れ長の眼を怒りで歪ませた。
シャサ・フルブライト、彼はこの国いや、この近隣諸国の中で最強の師団、飛空騎士団のリーダーだ。
飛空騎士団とは、竜を操るこの国の王立の軍隊である。竜は古の時代から生息しているが、その鱗や牙などが高価に取引されるため乱獲されたり、その獰猛さゆえ討伐の対象となり、個体数は激減し、今では希少な存在となってしまった。
獰猛な竜を操ることは並大抵のことではなく、竜と通じる才、もしくは竜を使役させるほどの魔力がなければ、乗りこなすことはおろか、その鱗に触れることすらできないであろう。
話をシャサ・フルブライトに戻そう。
シャサ・フルブライトは、この国の大貴族であり大権力者、マッフル・フルブライトの甥であり、飛空騎士団の現リーダーである。
この師団のリーダーになれる者は、フルブライト家の直系の者しか許されていない。ではなぜ今、直系の血族ではないシャサ・フルブライトがリーダーとなっているのか。
現フルブライト家当主マッフル・フルブライトの子、一粒種の君はまだ幼く、竜に乗ることが出来ない。その子が竜に乗れるようになるまで、仮のリーダーとして師団を取りまとめることになった。
「あれほどの痛手を受けておいて、なおも懲りぬのか小僧」
シャサは両眼を細めた。白目との境界の分からない、得体の知れない白銀の瞳がアレクセイを嘲笑った。
「くっ……!」
突風がアレクセイを襲った。巻き上げられた砂塵がうねりとなり、アレクセイに降り注いだ。
シャサ・フルブライトという男は魔術の使いどころを熟知している。異界の精霊を簡単に人間界に呼びつけることのできる男だ。
気分ひとつで、彼は水で岩盤を裂き、砂で人間をひねり潰せるのだろう。
声をかけたのは気まぐれなのだろうと、アレクセイは怒りを感じたが、とっさに急所をかばい、後方に飛び退った。
両腕に巻きつけた皮製の手甲が見えない牙に噛みちぎられている。
「退くがいい。ここは王政府より管理を任されているフルブライト家の所有」
「ほかをあたれ、なんて慈悲深いこと言うなよ。ここが一番落としやすそうなんだぜ。王政府のお膝元なんだからよ。ここは王都に直通なんだろ」
アレクセイは体のあちらこちらから血を流していた。シャサ・フルブライトが放った砂の猛威を避けきれなかったのだ。
「魔術をあつかえぬにしては博学だな」
『王者の寝室』―――外敵の動向を監視する衛星都市を、歴史学者はこう名付け研究の対象にしていた。歴史の中で、大きな戦の要となった場所であり、現在はそのほとんどが王政府の直轄地となっている。攻めにくい立地にあり、とくにここバルカローランの街はモーセルグの荒野に挟まれ、雨降ればその砂の性質上、進軍はおろか陣を張ることは難しいに違いなかった。
都市の名はすべて女性の名が付けられており、バルカローランは当時、街にいた占いのよくあたる巫女の名を戴いている。
王都から少し離れてはいるが、王政府にとっては重要な街である。この街を混乱に陥れること、それがアレクセイの今回の目的であった。
「馬鹿で悪かったな」
強がりだ。それは自分でも分かっていた。
(ああ、馬鹿だよ俺は)
城壁から蔑んだ眼を見せる男との位置は、そのまま実力の差だ。男は闇の中、正確にアレクセイの位置を把握し、攻撃をしかけてきた。夜陰にある、という油断があったのかもしれない。けれど魔術師という存在がどれほど恐ろしいものかも忘れていた。
(魔術も使えない落ちこぼれだったよ)
ルオーがいなければ。
いてくれなかったら。
組織の中でいずれは消されていた。
『黒い翼』は反王政を目的とした人間の集まりだ。個人より集団の維持を優先する。リーダーの言葉は重視するが絶対ではない。集団を活かすという点において、リーダーであったルオーの行動を妨げる可能性のあるものは容赦なく排除した。しかしリーダーであるルオーの主張は集団の中に抹殺される。
一人の権力者をも許さぬくせに、集団で一人を駆逐する。
組織の、この複雑な暗黙の仕組みに違和感を覚えながら、アレクセイは剣術を身につけはじめた。一人前になった頃、組織の空気を毛嫌いしなくなったのはすこし大人になったからだろうか。
外で待機している仲間の期待を裏切りたくない。
なによりも頭上の男に殺されてやるわけにはいかなかったのだ。
シャサ・フルブライトは城壁の上を前に進んだ。そのさまは優雅に、威厳に溢れていた。純白の外套は広い方から足の爪先まで逆三角形の形をつくる。裾がひるがえる度、銀灰色の制服が見えた。竜の地紋を入れた極上の生地に丁寧な縫製は、軍服というより式典用のドレスのようだ。あるいは、彼の洗練された振る舞いがそうさせているのかもしれない。
彼は不意に城壁から宙に踏み出した。
はりつめた空気の中に足音が響いた。
シャサ・フルブライトは魔術でできた不可視の階段を平然と下り、地上に降り立った。
「暗かろう?」
前に高く差しだした彼の手のひらから、青白い光の玉が噴き出した。蛍のようにどこへ行くでもなく飛んでいく。彼が合図すると光の玉は一斉に上空へ舞い上がった。そして動かない。
人口の太陽の下、アレクセイは剣をかまえ、静かに口を開いた。
「久しぶりだな、シャサ・フルブライト。あの卑怯な奇襲以来だな」
「……あぁ、あの無能な前リーダー、ルオーをこの私が討ち取ったあの戦いのことか」
シャサ・フルブライトは表情を変えず続けた。
「小僧。お前が奴の跡を継ぐとはな……。だが、それも今宵で終わりだ。お前も、あの時のルオーのようにこの私に討ち取られる定めだ」
「寝言は寝てから言えよ。ここで会ったのがお前の運の尽きだぜ。こんな所でルオーの仇がとれるなんてな」
アレクセイは血で滑る剣の柄をきつく握りしめ、冷たく光る切れ長の眼をシャサ・フルブライトに向けた。額に冷たい汗が浮かんでいる。
「本気で言っているのか。魔術の才のないお前が、あの時も逃げることしかできなかったお前がこの私に?ルオーでさえ私にかなわなかったというに愚かなものだな小僧!」
シャサは語気を強め、両眼を見開いた。
大気が急激に熱を帯び、陽炎が互いの輪郭を歪ませた。
魔術の次なる発動を感じ取り、アレクセイは腰を落とした。
剣とナイフを顔の前で交差させ、前傾姿勢で敵に挑んだ。
相手が普通の魔術師ならば先に打って出ていた。相手の出方を待つまどろっこしいやり方は本意ではない。動物的な勘で攻撃を予測し、平均値をはるかに超える身体能力で、一気に弱点をつく。腕に覚えのある剣士はおそらく皆このタイプが多いだろう。
魔術の音韻を唱えられなけらば、魔術師はただの人と同じだ。魔術に頼らず剣術に生きてきたアレクセイが、出遅れるはずがなかった。武器という鉄の塊を自在に扱える筋肉の鍛え方が違うのだ。
しかしシャサ・フルブライトは先述したような類の魔術師ではない。アレクセイが特攻をためらうわけがそこにあった。
シャサ・フルブライト、先述したとおり彼は竜を従える由緒ある飛空騎士団団長―――魔術と剣術に精通し、若くして団長になるに至ったのは、その血筋の由縁もあるが、彼の明敏さ、そしてその銀の瞳の能力が突出していたからである。異界から彷徨い出てきた空間に浮遊する精霊を、魔術の音韻を使わずに視線のみで行使できる特異能力の持ち主である。誇張すれば、息をするように精霊を使役でき、魔術を扱える能力といってもいい。魔力を秘めた瞳は意志の弱い人間を虜にもできるだろう。
むろん彼ほどの美貌があれば、魔術に頼るまでもなく、周りの興味を惹くことができるに違いない。その冷酷な眼差しを畏れずにいられれば。
「さきほどの風さえよけられなかったのだろうが。剣が扱えるようだが、魔術の前では意味をなさぬぞ」
「試してみりゃわかるぜ」
アレクセイが跳んだ。横薙ぎの一撃がシャサ・フルブライトの脇腹にめりこんだに見えたが、
「試さずとも答えは出ている。魔術も使えぬのならば戦いに身を投じぬことだ。おとなしく組織のお飾りでいるがいい」
「なんだとっ」
動揺するアレクセイを睨み、シャサ・フルブライトは冷静に言い放った。
炎がアレクセイの体から吹き上がった。
「ぐぅあーー!!」
アレクセイは思わず叫び、地面に膝をついた。だが、次の瞬間には炎は跡形もなく消え、辺りには熱風と焦げた臭いだけが残った。
苦しげに肩で大きく息を吸っているアレクセイを見下ろして、シャサ・フルブライトは言った。
「苦しそうだな。これでも手加減したんだがな」
アレクセイは息を整えながらゆっくりと立ち上がり、瞳に冷たい笑みを浮かべながら答えた。
「少し、効いたかな…。だが、お前の方が苦しいんじゃないのか?」
アレクセイは、剣先でさっき斬り付けたシャサ・フルブライトの脇腹を指した。よく見ると血が大きなシミを作っていた。
「ほうこれは……小僧、だがこの血は誰のものだ?」
銀灰色の軍服の生地がどす黒く汚れていた。たいしたことでもないように脇腹に手をやり、シャサ・フルブライトは溜め息をもらした。
「お前のだろうが」
アレクセイは剣をおさめ、右の手首を素早く上下に振った。風を切る音がするや、手甲から鋭い爪が生える。アレクセイは大きく一歩を踏み出し、立ち尽くすシャサ・フルブライトの目を狙った。しかし敵は馬鹿にしたような薄い笑みを浮かべたまま、殺意を持って迫るアレクセイを避ける様子はなかった。
ルオー…。大切な人を殺したシャサ・フルブライト。この男を目に、いざ剣を抜けば、戦法がどうだ我が身がどうだなどには気持ちがいかない。
鉄爪が眼球に届こうとしたその瞬間、シャサ・フルブライトが呟いた。
「だから訊いてやったのだ」
「痛っ……」
シャサ・フルブライトの足元に両膝をつき、苦悶するアレクセイの姿があった。鉄爪はアレクセイ自身の左太股に深くめり込んでいた。シャサ・フルブライトは腰をかがめ、アレクセイの顎を乱暴に持ちあげた。
「幻術もまた魔術の範疇ということ、知らぬわけでもあるまい。血気に逸り気づきもせぬとは若いな。まぁ急所を避けているのは大したものだ。ルオーより勘はいいかも知れぬ…。あれには手ごたえがなかった」
「あんたがルオーを語ってんじゃねぇ……ルオーが本気を出せばあんたなんざ目じゃねぇんだよ。奇襲なんて汚い手つかいやがって、ルオーの優しさにつけこんで、それでもあんた人間かよ」
激痛を耐え、歯を食いしばる。オリーブ色の両眼はうっすら濡れていた。
シャサ・フルブライトはアレクセイを哀れむような口調で続けた。
「小僧、お前は昔からそうだったな。もう少し、物事をよく考える癖をつけた方が良かったな」
「お前の方こそ昔から自慢屋の大馬鹿野郎じゃねぇか!くっ…それからな…」
アレクセイは痛みで一瞬顔を歪ませたが一呼吸おいてから、鋭い眼をシャサ・フルブライトに向けた。
「ルオーを…ルオーのことをバカにするのはやめろ!」
地面に膝をつき、肩で荒い息をするアレクセイを見下ろしながら、シャサ・フルブライトは呟いた。
「……そうであったな。お前を孤児院から連れ出したのは、ルオーだったな。奴は貴族の出でありながらその地位を捨て、『黒い翼』になんぞ入りおった……」
何か遠い昔の出来事を懐かしむようなそんな眼を一瞬見せたシャサ・フルブライトを睨みつけながらアレクセイは叫んだ。
「お前とルオーは親友だったはずだっ!なぜ…なぜあの時、躊躇せずに殺せたっ!!」
「はっ、笑止。奴が王政府に反旗を翻し、黒い翼などという馬鹿げた組織を作り上げた時、奴との過去はすべて忘却した…。話はもうよいか小僧。苦しいか?そろそろとどめを刺してやろう」
シャサ・フルブライトが視線を動かし、新たな精霊を召喚しようとしたその瞬間、二人の頭上に黒い影が現れた。
「カタリナっ!?」
アレクセイは頭上の影にそう叫んだ。
その影は返事をする代わりに急降下してきた。
「黒竜か……」
そう憎々しげに呟いたシャサ・フルブライトに向かって、黒竜に乗った少女は胸に抱えていた袋を投げつけた。空中で袋の口が開き、中から大量の砂がシャサ・フルブライトに向かって降り注いだ。
「くっ……」
シャサ・フルブライトが砂を避けようとして、両手を顔にかざしたその瞬間、黒竜がアレクセイに向かって急降下し、少女がアレクセイを竜の上に抱き上げた。