1 アレクセイ Alexei――Reven wing
夜明けが迫っていた。
アレクセイは無人のモーセルグの荒野を抜けると走る速度を下げた。
黒髪は獅子のたてがみのように豊かに風にそよぎ、黒装束をまとった肢体は豹のようにリズミカルに大地を蹴っている。腰のベルトには大振りのナイフ。口元はフードで覆っている。顔を隠すためではない。彼の抜けてきたモーセルグの荒野は年中砂塵が吹き荒れている。その砂は、水に混じると粘りけを持ち、時に人を窒息死させる。フードの中でさえ唇のあたりに粘状のものを感じるほどだ。
(ここか……)
アレクセイのオリーブの瞳が、目的地を前にし鋭いものに変わった。
モーセルグの荒野に守られた町。崖上のバルカローラン。
王政府の最大の交易都市は、それにふさわしい城壁に囲まれていた。唯一の通行手段である正門は常時閉ざされているらしい。正門が開かれるのは月に一度―――大々的な交易がおこなわれるその日の昼間は出入り自由になり、夕刻を過ぎると内外の行き来は次の月まで禁じられた。
(手ごわそうなのを選んじまったぜ)
アレクセイは腰に差したナイフを引き抜いた。口に柄をくわえ、奥歯で強く噛んだ。
柄に染みついた血の味がした。
(派手にやるぜ……あんたにしめっぽいのは似合わねえ)
同胞『黒い翼』は一か月前、政府の奇襲を受けた。アジトを焼け出され、戦闘要員の過半数が深手を負った。幸い、女子供に負傷者は少なかったが、数人が逃げる途中で離ればなれになった。行方は知れない。合流地点は決めてあったが、一か月経た今、誰もその事を話さなかった。死を慎む気持ちはあった。だが、まずは組織の行く末を案じなければならなかったのだ。
この襲撃で、彼らは大切な人間を失った。
『黒い翼』をつくり、導いてきた男を惨殺されたのだ。
城壁の上に据えられた監視台を、アレクセイは見上げた。移動する銀色の灯りがあった。魔術の灯だ。蝋燭とは違い、いつまでも日中の明るさを保ち続けるもので、作り方は魔術のごく初歩段階で教わる。体から離すと消えてしまうが重宝する庶民魔術だ。
灯りは、監視台の兵士をはっきりと照らし出していた。兵士は遠い闇に目を凝らし、侵入者を警戒している。
アレクセイは兵士の行動を追った。
しばらくして、アレクセイは腰のナイフを両手に握った。一本をくわえたまま、夜空を見上げた。 兵士に気づかれぬよう、上を目指すには岩壁をよじ登るつもりだ。むろん命綱はない。踏み外せばただではすまぬが、自分の安否を気遣っているうちはなすべき事を成せぬのだと、彼は教えられてきた。
硬い岩の隙間をめがけ、アレクセイは右手を振り上げた。
だが、その手を下した。その、ナイフの柄を見て思わず、そのナイフの前の持ち主の事を思い出してしまったのだ。
政府に虐殺された同胞、前黒い翼のリーダー、ルオーのことを。彼は、アレクセイの同胞であり、師であり、育ての親でもあった。彼から、さまざまな事を教わった。剣術、魔法、リーダーとしてのあり方、そして使用が禁止されている黒魔術なども。
根気良く、ルオーは魔術をその原理から噛み砕いて教えてくれた。程度の差こそあれ、この世界の人間は皆、魔術を使える。先述の通り、灯りを起こす魔術は五歳の子供にもできる。魔術師、と称されるのは十単位の精霊を使役する、限られた人間のことだ。
ルオーの指導を受け、アレクセイは努力したがある日気づいた。自分には魔術の素養がないこと、魔術もろくに扱えぬ者は、頻繁にゲリラ活動を繰り返し定住地を持たない『黒い翼』の行動力を削ぐこと。
なによりも足手まといになるならば切り捨てるのが、組織のやり方だということをだ。
ルオーの庇護がなけれな、あるいはアレクセイも捨てられていたのかも知れない。
(あんたの遺志は継ぐ。あんたの思うままを俺は生きたっていい)
アレクセイは切れ長の目を監視台に向け、不敵に笑った。