父の思い
隣で聞いていたばあちゃんも、さすがに口っをあんぐりあけた。
「雅之、いったい何を考えてるの。裕一はまだ未成年だよ。それを一人で
外国にやるだなんて。わたしゃ、東京へ一人で行かせるのも心配なのに」
普通は、ばあちゃんのいう事のほうが常識だよな。
「裕一の事を考えてるから言ってます。裕一はまだヨーロッパは一度、
それもほとんど外に出ない研修でした。
今回のツアーは、モーツァルト音楽祭。裕一はモーツァルトは苦手にして
ましたから、一度、彼の生まれ故郷のザルツブルグの雰囲気を味わうと、
いいと思いました。」
父、それはありがたいけど、ザルツブルグは写真、ネットで探して見るから、
冬休みは、僕は、貴重な練習時間を目いっぱい確保したいんだ。
「ああ、もう申込みは済んで支払済みです。パスポートはありましたね」
「父、僕は他の人より、ピアノの進度が遅れてるようなんだ。特にベートーヴェン。
冬休みは、猛特訓したい。旅行はうれしいけど、大学に入ってからでいいし
今回は、キャンセルってことにして」
「出発はそうですね。20日成田発ですから、19日ですね」
父、僕の話をちゃんと聞けよ!!それに、19日から学校じゃないか。
僕が、主張しても、聞こえてないかのように、音楽室で、父はピアノを
ぽろんぽろん弾きながら、作曲作業をしだした。
しょうがない、新曲もしないといけないけど、19日前に東京で西師匠に見て
もらおう。それまで必死で練習する。
課題は、ベートーヴェン、ソナタ 4番、ショパンエチュード 25-9、10-9
と、この間みてもらうつもりの平均律、1集の11番から6曲。
僕はあせってるのかも。あせらないと受験に間に合わない。
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部活は冬休みの間、休部することにして、曽我先生に連絡した。
進路上の事なので、先生は当然認めてくれたけど、
僕としては、心苦しい。1年女子の問題もあるし、冬になってから、
部活の意気が下がってるのだ。
なんとかしないといけないのに。
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今日の夜の練習は、まず、ベートーヴェンのソナタから練習を始めた。
ベートーヴェンの4番。初期の作品だけど、スケールの広い曲と
説明されていた(ネットで検索して調べた)
1楽章は、さんざん八重子先生にしごかれたけど、まだ不安だ。
ずっと3連符がつづくけど、粒の揃った音になってるか。
メロディをちゃんと弾き分けているか。
ダイナミクスの対比は出来ているか。
自分の耳で自分の音を冷静に聞いてるかどうかが上達の鍵と聞いた。
僕は、その点も、人並み のようだ。
録音を聞くと、それなりには、1楽章は仕上がってるので、次の楽章へ行った。
譜読みは済んでるのだけど、本格的には まだだ。
2楽章は超ゆっくりの曲で、心が平静になってる証拠の曲のようだ。
出だしのリズムがくりかえされ、また元の音にもどる。
速い曲でないので、かえってアラが目立つような曲だ。
父は、いつもの通り、ソファに寝っ転がって聞いてる。
今回は、口出しなしだ。そして時々、寝てる。
よっぽど、年末の仕事が忙しかったのだろう。
世間で言われてるような、マエストロとか天才とかの表情は微塵もない。
小休憩とってると、山崎が入ってきた。
一度、父にちゃんとお礼がいいたいと言っていたし。
「生まれてから中学校卒業するまでの裕一を、放置してた人に思えないな。
僕と美里にとっては恩人だけど、裕一に似てるな。
上野さんは、なんてていうか、僕らよりずっと先の事を考えてるんだろうな。
さっきの旅行もそうだけど、ただ、考える方向が・・ちょっとな・・」
あちゃ、聞こえてたのか。旅行の事とか。
「一度言い出したら聞かないからね。行ってくるよ。一人で悪い」
「全然、構わないよ。俺はかあさんの見舞いもあるし、今のうち、
勉強で少しでも、裕一に追いついてやるさ」
そうだよ・・・勉強も忘れずにしないと
寝てると思った父が起きて言った。
「裕一の彼女、ほら、白井さんだっけ?メンテナンスの終わったフルート
持ってきたから、取りにくるよう言っておいて」
白井さんは彼女じゃない。彼女にしたいなら・・・後藤さんかな。
あのひたむきさがいい。白井先輩は、どう考えても 男の先輩だ。
白井先輩は、次の日やってきた。
せっかくだからと、父は白井先輩にレッスンしてる。
父のフルートの音は、つやつやの真珠のようだ。
白井先輩の音は、当然、格段にヘタなのは、当たり前か。
簡単な曲を、二人で二重奏で吹いてる。白井先輩、気持ちよさそうに吹いてる。
そっか。下のパートの父の音がゆるぎないから、安定するんだ。
ピアノでもそうだ。左手の伴奏がしっかりしないと、右の旋律をこわしてしまう。
白井先輩は何度もお礼を言い、帰っていった。
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PCを開くと柿沢さんからメールがきてた。
件名:上野雅之先生について
裕一君へ
とりあえず、要件だけで。裕一君、お父上は健康状態はどうでしょうか?
年末、NYでは、高熱を出して、1週間、寝込みました。
もちろん、医者にはかかりましたが、体力の回復まで至りませんでした。
どうぞ、気を付けてあげてください。
後、1月末までには、NYにもどるようにとお伝えください。
よろしくお願いします。
柿沢
やっぱり、体調崩してたんだ。
さっそく、祖母に柿沢さんのメールを見せた。
こりゃ大変だ。とばかりに、ドテラをもちだし、父にむりやり着せ、
ついでに玉子酒を飲ませ、その後、寝室に追いやった。
「ふ~~。へんだと思ったんだ。年末・正月には帰って来たことがないのに。
連絡もなしに急にだからね。インフルエンザにてもかかったのかもね」
多分、それだけじゃない。仕事で無理してるんだ。
僕の東京への往復代とレッスン料は、かなりかかってるはず。
今回の旅行だってそうだ。
それに母が事務所を移して、赤字を出すのはまずいと、自分が頑張ってるのかも。
これは、大学落ちたら、僕は、ただ働き決定だ・・・




