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偶発の同刻 その六

 塀のそばには道路標識が立っていた。千輪はそれをつかんで立ち上がる。リング同士がぶつかり合い、カチャカチャと音がした。彼女の正面にはカザマと白い帯の塊。背後にはリネンがいる。

「君と戦いに来たのではない。イマガイズは収め、我々とコモンのところへ行こう」

「このまま続けては、本当に大怪我をしてしまう。その前に僕たちと一緒に来てください」

 カザマとリネンは、緑と両開きのイマガイズこそ解除しないものの、構えを解いて千輪を説得しようとする。

「お断りだと言ってるんです。その〈リビジョン〉の考えは、私の知っている人を不幸にするから」

 千輪は強い調子で言い放った。

「誰のことだ」

「カザマさん、もしかすると〈ウィズダム〉が僕たちより先に接触したのでは?」

 カザマが答えるより早く、

「そうかもね」

 と千輪は言う。その表情はイマガイズで覆われ、読み取れない。カザマは唸った。

「やむを得ない。リネン」

 リネンがうなずく。布の塊のイマジンがぽんぽんと跳ねるように転がり、千輪に向かう。

 半分は予定通り。千輪は身を翻すと、ちらりとカザマを見ながらリネンに向かって走り出す。

 帯の塊が立ち上がり、四本の帯を伸ばす。同時にカザマも走る。

 このままでは帯に追いつかれるだろう。だが、大きな力では動かせないと先ほどわかった。振り切りながら進むのは難しくない。そう千輪は思考する。緑のコートを何とかすれば、リネンを叩ける。それが狙いだった。

 幸運なことに、カザマのスピードが思ったほどではない。さっきは流れるように軽やかな動きだったが、今はそれがない。いける。

 カザマが道路標識を越えようとする。千輪はそれを確認し、腕を振る。その腕からリングがなくなっている。

 グギギ、ゴギン!

 突然、道路標識が中ほどからねじ曲がり、振り子のようにカザマの肩口に振り下ろされる。予測不能。当然回避もできない。

 そのはずだった。カザマの膝が直角に折れる。上体は水平になる。

 人間の頭は重い。重心は体の上の方にある。仮に膝だけで支える力があるとしても、ひっくり返ってしまうはずだ。

 だが、カザマは倒れない。その体制のまま滑り、標識をやり過ごす。くるりと反転しながら膝から上が起き上がり、折れた標識と千輪を交互に見る。

「なんだこれは。彼女がやったのか……?」

 標識が折れ、生徒がようやく認識し始める。今日は風があったから、中から錆びてたんだ、誰も怪我しなくてよかった、等と口々に言い合っている。

 だが、標識のポールに乳白色のリングがついているのには、誰ひとり気づかなかった。それらは人知れず、すっと消滅する。

 カザマは何が起きたのか認識できていないようだった。では、なぜ回避できた? 足止めには成功したが、ここに彼のイマジンの秘密があると感じる。

 直後、千輪の脳内にもう一つの疑問が生まれることになる。

「え?」

 千輪の視界が傾く。

 ずでん。

 転倒した。見ると、右膝少し上に白い帯が巻きついている。これに引っ張られたわけでではない。膝に巻きついているのも、今見て初めて気づいたぐらいだ。かと言って、何かに躓いたわけでもない。急に足がもつれ……違う。右足が動かない。動かないだけでなく、感覚さえないのだった。

 左足だけで何とか立ち上がる。歩くどころか、少し上体を揺らすだけでバランスを失って倒れてしまいそうだ。

 リネンのイマジンはぐらぐらと左右に揺れながら近づいてくる。

 全くの無害かと思われたイマジンが、にわかに威圧感を増した。残る三本の帯が千輪へと差し出される。

「カザマさん。捕まえました」

「よくやった。それでいい」

 カザマが満足そうに言った。




 ――岸戸が空に昇っていく。コタツは成す術なくそれを見つめる。

 岸戸は蒸気を吹き出し、金属板を出現させる。上昇は止まらない。

「だめか。金属板を新しく出しても重さがない。だが、コタツ。本当にナイスだ」

 地上から見た岸戸のシルエットが突然巨大になる。逆光でよく見えない。

「むむ?」

 アトモスも空を見上げる。ウズも見る。

「ありゃあ、鳥か?」

 とウズが手で廂を作りながら言う。

 岸戸の影がだんだんと大きくなっているように見える。

「お兄ちゃんが……近づいてきている?」

 羽ばたき。ふわりとコタツの目の前に岸戸が停止した。腕に装着した巨大な金属板が蒸気となって消滅する。

「ふう、しんどいぜ。俺は鳥にはなれないな」

「ユウ……兄ちゃん……。ユウ兄ちゃん!」

「地上に向けて扇いで、ここまで来れた。コタツが回転を止めてくれたおかげでな」

 重さがないのなら、空気の抵抗は大きな推進力となる。水中で人間が泳ぐことができるように、クロールの応用だ。

 クロールでは水を掻くときには手の平で抵抗を大きく、逆に水に入るときは突くようにして抵抗を少なくする。岸戸は直感的に空気抵抗を得たいときには金属板の面をぶつけ、金属板を元の位置に戻すときには側面を向けながら抜くように動かしていた。

 岸戸は重さがないからこそ打ち上げられてしまった。だが、重さがないからこそ安全に戻ってこられたのだ。

 コタツが手を伸ばし、岸戸を壁面に引き寄せる。

「ほっほ……ほほほほ!」

 アトモスが狂ったように笑い出す。

「面白いのう。実に面白いわい。じゃが、わしをどうやって倒す? お主らが消耗しきるまで、あるいは集中力を切らして失敗するまで、わしは打ち上げ続けていればいいんじゃからな」

 コタツが岸戸の耳元で囁く。

「センセイが待っているようにって。もうすぐ第三巡回班が来る」

「いや……来た!」

 アトモスは夢中でしゃべり続ける。

「わしは気の長い性質でのう。なんなら一昼夜待っ――ばぶえ」

 アトモスの台詞は強制終了する。後頭部をつかまれ、地面に叩きつけられたのだ。老人のふくよかな顔が歪む。押さえつけているのは歯車のイマガイズ。きりきりと回転音が高まる。

「……うるせえ。だまれ」

 ハスバがご機嫌なことはあまりない。だが、今の機嫌は悪いなんてものではない、最悪だ。その鬱憤がイマガイズの歯車を回し、軋ませている。

 その後ろには、角ばったハート型のイマガイズをつけたオウナもいた。ハンマーのイマジンを構えているが、アトモスから距離をとっている。

「ハスバさん、だめだ!」

「そいつの出すガスに触れないで! 重さがなくなって、どこまでも吹き飛ばされてしまう!」

 ユウとコタツが警告する。

「もう遅いわい」

 地面に押しつけられながらも、アトモスの周囲には青白い気体が漂っている。ハスバの両足がふわりと地面を離れた。押さえつける力がなくなり、老人はすっくと立ち上がる。ハスバの拘束がはじかれる。ハスバはとっさに相手の胸倉をつかむ。もう一方の手を握り締め、大きく引いた。

「その手をどうするんじゃ。殴るのかのう。お主の体はちり紙ほどの質量もなくなっておる。その体勢で打ちこんでも……ほっほ、まあやってみい」

「ああ、知っている。エイラがメッセージを送ってくれたからな」

 ハスバの拳の前に、テクスチャを張りつけていない三次元モデルのような、フレームだけの大きな歯車が出現する。ハスバは拳をアトモスの胸に振り下ろす。そして、押し続ける。胸板がへこんでいく。重さがなくても、どこかで体を固定すれば、力そのものは伝わっていく。だが、そこまでだった。つかんでいた衣服が耐えきれずに裂けた。

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