クマ殺し その二
「こいつ!」
突然、声を荒らげてオオクマが立ちあがった。その反動で椅子が後ろに倒れ、再び日常の終わりを告げるかのように、がたんと大きな音を立てた。
机を蹴られた男と、その彼を手伝っていた面々は、ぎょっとして身をすくめたが、大男がずんずんと大股で向かった先はそこではなかった。
ユウはオオクマを止めたいようだったが、やつが何をするのかわからず、身動きがとれない様子だ。
オオクマは、窓際の席に座る女生徒へと一直線に向かっていった。
呆然でも黙殺でもない、もう一人がミズハだった。
彼女は事が起こってから、ただ静かに大男を見ていた。いや、にらんでいた。その視線は強烈で、ありったけの侮蔑を含みつつ、心の弱い部分をえぐるような凄まじい鋭さを持っていた。それは、オオクマの上機嫌をざっくりと切り捨て、ついでにくだらないプライドに傷をつけるには十分の視線だった。
額に青筋を立てながら迫る男に対しても、ミズハは目をそらさなかった。
オオクマはさらに逆上し、足を速めた。彼が向かう先の鋭い視線にユウが気付き、何が起ころうとしているのかを理解したときには、もう手遅れだった。
オオクマがミズハの顔ほどもありそうな拳を振り上げた。
オオクマは間違いを犯した。
女性を殴れば、いくら不良だろうと学校での立場が悪くなる。対等な喧嘩なら箔がつくかもしれないが、女性を殴っても何の自慢にもならない。拳を振り上げた時点で悪い結末が決まっていたのである。だが、オオクマはそんな評判など一切気にしない。そういうやつだ。彼にとって、これは無視できる間違いだった。
致命的な間違いは、相手がミズハだったことだ。こちらの重要度は、こう評価できる。最悪だ。
拳を振り上げるオオクマに対し、ミズハは座ったままだった。頭に血がのぼった大男は、躊躇なく拳を振りおろした。鈍い音がした。
誰もが目を覆いたくなったが、彼らが予想していたことは起きなかった。
いつの間にか、ミズハは椅子から一歩前に出ており、肘を男の鳩尾に食いこませていたのである。オオクマの拳は、姿勢を低くしたミズハの頭の上を豪快に空振りしていた。
オオクマはたまらず二、三歩よろめくように下がった。だが倒れない。呼吸を整えると、再びミズハに肉薄した。両腕を伸ばし、ミズハにつかみかかった。
オオクマの手はミズハを捉えなかった。それどころか、すり抜けるように背後に回っていた彼女は、オオクマの尻を軽く蹴とばした。勢い余った彼がうつぶせにどすんと床に倒れると、ミズハは間髪いれずにその腕をとって捻じり、抑えこんだ。
流れるような動きだった。あまりにスムーズだったので、クラスメイトのほとんどは何が起こったか理解できなかったようだ。
数秒たってから、教室に歓声とまばらな拍手が起こった。
組み敷かれたオオクマは恥辱で顔を炎のようにしていた。
ここまでなら、ミズハは完璧なヒロインだった。だが彼女はやり過ぎた。
突然、大男が悲鳴を上げた。続いてペキンとこもった音が鳴った。誰もが腕の骨を折ったと思った。
屈強な男が大声で泣きわめく姿を見たことがあるだろうか。あまりの声に何事かと隣のクラスからも人が集まった。
ミズハはオオクマを冷ややかに一瞥し、持っていた彼の腕をぱっと離した。腕は重力のまま床に落ちた。動いて痛みが増したのか、男の悲鳴が一層高くなった。ひょいと男から降りると、ミズハは何事もなかったかのように自分の席に着く。
一連の様子がいかにも冷徹で、その動作、光景と恐怖が直結した。オオクマが悪いやつであることを、その恐怖が完全に上塗りしてしまった。
オオクマは鳴き叫び続けた。救急車が到着するまで、その光景は多くの人の目に焼きつき、その絞り出すような嗚咽は多くの人の耳の届いた。
その後、オオクマが学校に来ることはなかった。いじめが過ぎたから、面目を潰されたから、ミズハが怖かったから、理由はいくつも挙げられるが、それだけでもないようだった。大男が机を蹴り倒したとき、その中にあった仮面が壊れてしまっていたのだ。
飾有町の明文化されたルールは、時間内に仮面を被るという、ただ一つだけだが、それに付随する暗黙の了解がいくつかあった。
他人の仮面に許可なく触れないというのがその一つだ。仮面は形ある持ち物の中では一番大切なものだ。紛失や破損、あるいは着用時に脱落のリスクがあっては安心して仮面のある生活を送れない。
彼は直接仮面に触れたわけではないが、結果として仮面を破壊してしまった。これは学校という共同生活を送る場において、そしてこの町での生活において致命的だった。
表向きは転校ということだったが、オオクマは町にいられなくなったのだろう。これがおそらくの真実だ。
しかし、オオクマが学校からいなくなったという事実は、大げさな憶測を呼んだ。
彼は病院で死んだのだと。だから学校にはもう来ないのだと。
こうして、ミズハは〈クマ殺し〉になった。