トラップハウス その六
「おいミズハ! 止まるな!」
「先に進めないのよ!」
イマジナルが滑りながら徐々に加速を始める。
「そんなわけないだろ。もう階段は目の前だ。早く降りないと追いつかれるぞ」
「その階段が問題なのよ」
岸戸と皆瀬は粘液を踏まないように気をつけながら、わずかに横にずれ、廊下の先を確認する。
「おいおい、マジかよ」
「そういうことか……」
階段は上も下も黄色い粘液で覆われていた。天井に向かって何度も粘液を吹きつけたらしい。自重で垂れ下がりながら粘着性を増したそれらは、天井と床を結ぶ無数の線や帯となって一行の行く手を阻んでいる。
「あいつがすぐに部屋に入ってこなかったのは、これを作ってたからか!」
「逃げながら戦うのを見透かされてたってわけね。見かけによらない頭脳プレーなんて」
「こうなっては、部屋に入ってやり過ごすしかないね」
「あいつ、どんどん加速してるぞ。急ごう」
岸戸はそう言いながら部屋のドアを開こうとする。
ガチッという金属音。
「はあ? ロックされてるぞ! 入口や他の部屋は開いてるのに、なんでだよ!」
岸戸は力任せに開けようとするがドアは開かない。
「ミズハ、壊せるか?」
岸戸が下がり、ミズハが扉を調べる。
「スチール製ね。直接、変形させるのは無理。これを壊すには何度もドアノブを回すとか、扉をがちゃつかせて、大げさに負担をかけて壊すしかないわ」
「時間が足りない……」
「一つ前の部屋に戻るか?」
「廊下の中央まで引き返す時間はなさそうだよ。仮に間に合ったとしても、鍵が開いている保証はない」
何か他の方法が必要だった。
イマジナルが迫る。
「そうだ! さっきみたいに滑る状態に戻せれば、粘液にまみれながらだけど、階段を滑り下りることができるわ」
「どうやれば戻るんだよ」
「それは……わかんない。アキヒロ、さっきの部屋で何か気づいた?」
「結局、粘液の性質は特定できなかった。二人の言うとおり、突然に粘液の性質が変わった」
イマガイズ越しでも岸戸と北城が落胆しているのが伝わった。
「だから、これは予想でしかない。粘液が変化するのは、あいつが近づいてきたときだ。近づいてきたとき、毎回感じたこと……」
「あいつ、ぬめぬめしてて不快だけどさ。そういうことじゃないんだろ?」
「ユウ、案外当たりかも。あいつの周りは妙に湿っぽかったわ」
「そう、眼鏡をしてたら曇りそうなぐらいの異常な湿気だ。体から何かを出して粘液の性質を戻してるんだ。あいつが自分の粘液に捕まらない理由もそれでつく」
「何を出してるの?」
北城が聞く。
「……それがわからない。けれど、あの湿気は僕たちの体に何の影響も及ぼしていない。それなら、超能力的な物質ではなく、この世界にありふれた物質という可能性も十分にある。例えば、水蒸気とか」
「つまり、水分で粘着質を無効化できるってことかしら」
「こればっかりは試すしかないよ。二人とも、何か飲み物を持ってないか?」
岸戸と北城は同時に頭を振る。
「最近は涼しいからな。飲み物は持ち歩いてないぜ」
「私も……」
確実ではないが方法はある。しかし、肝心の水分がないのでは実行できない。皆瀬は考える。水分を手に入れる方法。
イマジナルは加速しながら、どんどん迫ってくる。
だめだ、この追い詰められた状況では何かを探したり、集めたりする余裕はない。皆瀬は方法を模索したが、焦りもあり考えが纏まらない。
それは徐々に、水を手に入れたい純粋な欲求に変わっていった。
皆瀬の仮面の中央に青紫の光が灯る。頭の内側から漏れているような輝き。それは、ゆっくりと仮面のひびをなぞるように広がり始めたかと思うと、次の瞬間には消えてしまうほど素早く、光が走った。
「アキヒロの仮面が……」
「な、なんだ? それより、ヒロ。その手に持っているものは?」
手の中にしっかりとした重さがある。ペットボトルに入った水がある。続いて、やや重なるように二つの落下音がぼととんと響く。水の入った五百ミリリットルのペットボトルが岸戸、北城それぞれの足元へ転がっていく。
「な、何なんだ? 理解できない」
「考えてる時間はないぜ!」
「よくわからないけれど、やってみろってことよね」
階段へと駆け出しながら、北城はペットボトルを拾い上げると、即座にふたを開け、中身を階段へと向かって振りまく。
粘液は水に触れると明らかに粘度を失っていく。天井と床を繋ぐ粘液が途中からぷつぷつと千切れ始める。水で粘性を失い、加えて体積を増した粘液は低い方へと流れだした。
「ビンゴ! 効果ありよ!」
北城は空になったペットボトルを投げ捨てる。岸戸は足元のペットボトルを拾い、北城へ向かって放り投げる。
「次! ちゃんと取れよ!」
「いいコントロールしてるじゃない」
北城はそれを難なく掴み取ると、再び水を、今度は大げさに広範囲に粘液へと振りかける。
粘液に対して、水はごく少量でも効果を発揮するらしい。流れ出した粘液に含まれる水分によって、階段下方まで連鎖的に粘着性が解除されていく。
岸戸が手を差し出したので、皆瀬は持っていたペットボトルを手渡す。
「ミズハ! 氷柱みたいに残ってるぞ!」
床付近の粘液の粘着性は、ほぼ解除できた。
北城は二本目の残りの水を上方、階段の裏からぶら下がっている粘液に向かって撒き散らすと、空になったそれを勢いのまま投げ捨てる。水が触れた部分の氷柱が溶け、ぽたぽたと落下した。
残るは階段を折り返した先、登り階段の陰にぶら下がっている粘液だけだ。
岸戸が最後のペットボトルを手渡そうとしながら尋ねる。
「足りるか?」
それを北城は受け取ろうとしない。振り向いたまま別の方向に視線を注いでいる。
「足りない……」
北城が力なくつぶやく。
「全部は無理でも、とにかく減らして飛びこむしかない。受け取れよ」
「水は足りるわ。……足りないのは、時間よ」
皆瀬と岸戸が後ろを振り向く。北城が見ていたのは迫るイマジナルだった。
加速を終えたイマジナルが廊下の半分まで到達しようとしていた。このスピードでは、三人に与えられた猶予は十秒に満たない。
イマジナルは足を器用に動かし、廊下の端すれすれに軌道を変える。皆瀬らに直撃する軌道だ。
階段後半には依然、多くの粘液が上から垂れ下がっている。この位置からは陰になっていて、ただ闇雲に水を撒けば取り除けるとはいかない。滑らないように注意しながら踊り場まで降りるか、階段の裏に水を届ける何かしらの工夫が必要だ。北城が言うように時間が足りない。
氷柱を残したまま階段に飛びこむのは賭けだ。水があるとはいえ、たった一つ。生命線となるペットボトルを落とすとか、粘液に捕らわれてしまったら、もう身動きする手段がなくなる。もし、とてつもない幸運があったなら、ぶら下がった粘液に全く触れずに滑り下りられる、そんな可能性もゼロではない。だが、粘液まみれながらの滑降だ。全身粘液でずぶ濡れになる。こちらは運などではなく確実に起きる。そうなっては、この案はその場しのぎにしかならないのでは、という懸念もあった。
しかし、廊下の反対側に退避しようにも、イマジナルが引き伸ばした粘液が間を隔てる。この粘着質の帯を越えなければいけないが、北城以外、助走なしに飛び越えるのは不可能だった。
岸戸の仮面が蒸気を上げる。拳を床に叩きつける。粘液の上に一畳ほどの金属板が出現した。
「長さはこれが限界だ。板に乗って反対側に飛べ!」
イマジナルが咆哮を上げながら猛スピードで突っこんでくる。
北城と皆瀬が金属板から廊下の反対へと飛び移る。すぐさま、岸戸も続いた。
「無事に越えたわ!」
「いや、違う!」
イマジナルがわずかに体を揺らすと、巨体が廊下の反対側から三人がいる側へと、すっと移動する。
「やつは、あえてあの早いタイミングで片側に寄ったんだ。僕らが反対側に渡るのを見越して! もう一度向こうに渡るのは……」
皆瀬が最後まで言わなくとも、無理だと誰もが思った。岸戸が蒸気とともに長い息を吐く。巨大な盾を両腕に出現させ、それらを合わせて身を屈める。
「二人とも、そのまま後ろにいろよ!」
岸戸はそう言ったが、彼自身、イマジナルの衝突を防げるとは考えていない。前は足元が滑ったおかげで運よく弾き飛ばされたが、今回はもろにぶつかった衝撃を受けてしまうだろう。だが、それでいい。二人を守れればいい。
「ユウ……!」
その考えは皆瀬と北城にも伝わった。このままでは岸戸が危ない。止めたい。だが他に方法がないのだった。何もしなければ三人ともやられてしまう。
二人は友人の自己犠牲を見守るしかなかった。




