トラップハウス その三
二人は同時に叫んだ。
岸戸を抱きかかえるようにしていた北城の腕の力が緩む。岸戸はふらふらと立ちあがる。北城との間に粘液の糸が引かれる。続いて北城も立ちあがる。
不思議なことに、粘液は最初のようなぬるぬるとした状態に戻っていた。
しかし今の二人にとって、それは重要なことではない。
部屋の外へ出ると、やや離れたところに人影が転がっているのが見える。皆瀬だ。
廊下の粘液も元の性質に戻っているようだった。
岸戸と北城はその場へ向かう。床のほとんどが粘液で濡れており、中央部分は足場がない。端のわずかに床が露出している部分、粘液の薄い部分を選びながら慎重に進む他ない。
その間も大の字で横たわる皆瀬はピクリともしない。
二人の脳裏に不安がよぎる。
「おい! おいってば! ヒロ!」
「アキヒロ! 返事をして!」
二人は懸命に呼び掛ける。返事はない。
ようやく皆瀬の元にたどり着く。イマジナルと衝突したときか、はね飛ばされたときかは定かでないが、彼の仮面は割れていた。
「ヒロ……」
「脈はあるわ」
皆瀬の手首を取っていた北城が言う。
「そうか……!」
「ここに居ると、またあいつが戻ってくる。部屋に運びましょ」
「そうだな」
岸戸が粘液の上に一畳ほどの大きさの板を出現させる。
「これに乗せて、押して運ぼう」
二人は足場を慎重に選んでから皆瀬を抱えると、静かに板の上に乗せる。滑る粘液のおかげで、後はスムーズだった。
背の高い草が風に揺れ、ざわざわと音を立てる。無数の淡い光が意思を持つように、または風に揺られるままのように振る舞う。それらは目で追うと風にとけるように消え、そしてまた別のどこかに現れるようだった。
夢だ。すぐにそうわかった。僕はここを知っている。前にも同じ夢を見たのだろうか。それとも現実にこの場所があり、訪れたことがあっただろうか。
草をかき分け進んでいくと突然視界が開ける。天に向かい枝を広げる植物。これも僕は知っている。
大きな植物だ。それに向かって歩いて行く。近づくにつれ、植物の詳細が見てとれるようになった。僕は足を止める。
植物はいくつもの蔓が絡み合い、巨木のような形を成している。その蔓の隙間からは青紫色の結晶が飛び出している。新しい発見だと感じたのは、この蔓植物は外側に見える部分、それで全てということだった。内側にも蔓が密集していると思いこんでいたが、そうではなかった。つまり内側には、とてつもなく大きな結晶があり、それが樹の形になっているようなのだ。蔓はそれに絡みついているだけに過ぎず、この物体の主となる要素はこの結晶であろうと思われた。
僕は再び歩き出す。結晶の樹の枝が広がる様子は、もう首が痛くなるぐらい見上げないと見ることはできない。
樹の根元に何かが見える。蔓でも結晶でもない。僕の腰ほどの高さの箱だった。それは精密な機械のようで、樹の根元にめりこむようにして設置されていた。結晶向かって太いコードが何本も接続されている。
これまで自然な装いを見せていたこの木を美しいと感じていたが、この人工的なボックスを見て、その思いが一気に醒めてしまった。途端に美しさが不可解さに転換された。それが威圧的なオーラとなって立ち上り、僕は息苦しさを感じるほどだった。
その箱の上面は、こちらを向くように斜めにカットされており、そこには画面と窪みがある。
画面には何やら映し出されているが、色が複雑に配置されているだけで、何を意味しているのか見当がつかない。しかし、それと同時に、どこかでこれと似たようなものを見た気がした。
それを思い出す前に、僕の興味はその隣の窪みに移っていた。窪みは三十センチほどでやや縦長の楕円形である。僕は深めの皿を連想した。サラダを盛りつけて、二、三人で分けあったら丁度良さそうな容量だが、こんなところについているのは当然おかしい。中央の一部だけいっそう深くなっているのには何か理由があるのだろうか。
箱にはボタンらしいものは一切ない。画面に触れてみたが、タッチパネルではないらしく特に反応はない。窪みはすべすべしていて一様で、これも触って何かが起きることはなかった。一般的なパソコンがそうであるように、ロックがかかっているのかもしれない。
しかし、入力できるようなボタン、鍵穴といったものは見当たらない。あるのは抽象画のようなものが映し出された画面と謎の窪みだけだった。
不意に背後から気配を感じた。振り返ってみるが誰もいない。風が吹き、背の高い草がざわめく。その手前に白く薄いものが落ちていた。僕の仮面だった。
仮面に近づく。相変わらず無表情なそれは、顔の中心、丁度鼻の部分が酷く割れていた。いや、割れているのとは違うようだ。白い部分だけを見ると確かに割れ砕けているような有様なのだが、仮面の形状は一切損なわれていない。まるで真っ黒なひび割れに仮面が浸食されているように見える。
仮面を僕は拾いあげる。黒いひび割れは不気味だが、僕の仮面だ。それよりも痛々しい、可哀想な気持ちが強かった。
どくん。
突然、手の上で仮面が脈動した。まるで今動きだしたかのように、心臓の鼓動がにわかに意識される。同時に脳が、心臓のように、あるいは水を飲む旅人の乾いた喉のように、どくどくと疼く。それらは仮面の震えと一致していた。
帰らなければいけない。僕は唐突にそう思った。
仮面を手のひらに乗せ、顔に押しつける。空を仰いだ。枝の隙間から青い空が見える。その一点に向かい僕の意識は放出される。
そして高く高く昇っていった。
部屋の入り口から真っ直ぐに粘液の帯が引かれている。その先、部屋の中央で金属板の上に乗った皆瀬が仰向けに寝ている。
岸戸と北城は、一旦部屋に退避し、皆瀬の回復を待っていた。
「大丈夫よね?」
「俺に聞くなよ。でも首輪の男のときみたいに、怪我しているわけじゃない。……くそう、守るって言ったのに、俺が守られてどうする」
巨大なイマジナルにはね飛ばされたにしては不思議なほど、皆瀬に目立った外傷はなく、呼吸、脈拍共に安定しているようだ。だが意識が戻らない。
「目を覚ますさ」
岸戸は自分に言い聞かせるようにする。
「そうね」
皆瀬の仮面は中央が砕け、そこから伸びるひび割れが全体に及んでいる。それをじっと見つめながら、二人はしばし沈黙した。
「おい」
「ねえ」
呼びかけが重なり、お互いに先を続けにくい雰囲気になる。
「なによ」
「いや、このひび割れなんだが」
「ええ、私も気になっていたの」
「どこかにぶつけて割れたのかと思ったが、どうも違う。ひびじゃなくて模様みたいだ」
「地の色が黒で塗装が剥げたとか?」
そうだろうか。岸戸は心の中でそれは違うと否定する。
「仮面を取ってみないか」
「ぶつけてこうなったんだろうし、顔に怪我がないか調べた方がいいわよね?」
「それもそうだが……」
皆瀬の様子も当然気になるが、岸戸はひび割れのことを考えている。
「なによ。煮え切らないわね。仮面を取れば容体がはっきりするだろうし、呼吸が楽になって気がつくかもしれないわよ。外しましょ」
岸戸はうなずくと皆瀬の頭の横に屈み、仮面に手をかける。
「他人の仮面に触るのは、山で外し合いしたとき以来だな」
そして、その手に力をこめた。




