トラップハウス その二
「助かったわ。ギリギリね」
皆瀬は北城に手を貸し、スケート初経験者に指導するような状態だったが何とか立たせる。北城は壁に手をついて体を支えた。
辺り一面はほとんど粘液で濡れている。イマジナルが広範囲に粘液を吐き出したこともあるが、やつが体で粘液を引き伸ばしながら移動したものだから、幅のある廊下の両端を粘液の帯によって分け隔てられていた。
少し離れた粘液だまりに岸戸が仰向けに転がっている。弾き飛ばされた後、壁でバウンドし廊下の中央に倒れたようだ。盾は解除されていた。
「ユウ! 大丈夫?」
北城が声をかける。岸戸がむくりと上体を起こし、頭に手をやった。背中と床の間に粘液の糸が引く。
「いってー。なんてスピードだよ、まったく」
皆瀬らは胸を撫で下ろす。
「無事でよかった。ユウがちょっと時間を稼いでくれた。そのおかげでミズハを助けられたよ」
「粘液で滑ってよかったのかもね。あの力をまともに受け止めていたら、大変だったわよ。まあ……ありがと」
「面と向かってお礼言われると照れちまうな。ところで、あいつはどこに行ったんだ?」
「上の階だ」
皆瀬は後ろの階段を指差す。
「あの質量とスピード、単純だけど厄介ね」
「結果は今の通りだぜ。あれは俺でも止められないな」
「階段ではさすがに加速できないみたいだ。そこがチャンスかもしれない」
「なるほどな。早速、攻略法が見えたってわけか。さすがヒロ!」
「あーもう、服がびちょびちょ。臭いし、勘弁して欲しいわね」
「鉢合わせになるのも厄介だ。まずはあいつと同じ方向へ追って、様子を見よう」
岸戸と北城がそれに了解し、行動の方針が決まった。
皆瀬は廊下の左端、粘液のない部分を選び階段に向かう。だが、他の二人がついてくる気配がない。
皆瀬が振り返ると、北城はその場に留まったままで、岸戸に至っては腰を上げてもいない。
「どうした? 急がないと先手を打たれてしまうよ」
「そうしたいのは山々なんだけど……!」
北城の足には明らかに力が入っている。それにも拘らず、その足が動く様子がない。
「なんなんだよ、この粘液は!」
岸戸が苛立ったように叫んだ。持ち上げようとした手と床の間に、ねっちりとした膜ができている。力をこめた手がぶるぶると震えている。数センチ持ち上げるのがやっとのようで、岸戸は力尽きたように手を床につける。
まるで鼠捕りの罠だ。先ほどまで潤滑液のようだった物体は、その性質を変化させ、粘っこい鳥もちのようになっていた。
「まずいわ。今やつが戻ってきたら……」
廊下の奥でごぽごぽと泡立つ音が響く。巨体が階段をするすると降りてくる。一同が一斉に振り向く。
「もう一周してきたのか? 早くこれを取らないと!」
イマジナルが階段から床に、さらに一歩を踏み出す。
「ぐぐぐぐ……体の動きを大げさにしても取れないわ!」
床と足の間の粘液は伸び、それでも切れることがない。しかし、かなり細くはなっている。さらに大きな力でもあれば、振り切れるかもしれない。
イマジナルは足の動きを速める。徐々に巨体が加速していく。
「あいつはくっつかないのか? むしろ前と同じに滑って加速してるぞ!」
「このままじゃ、私たちぺちゃんこよ!」
皆瀬は考える。もっとこの粘液を伸ばせれば脱出できる。だが、そんな純粋なパワーは誰も持っていない。しかし……。
「ミズハ! 自分の動きじゃなく、粘液の伸び方を大げさにするんだ!」
北城ははっとすると、早速実践する。
体の動きを大げさにしても、結局粘液に阻害されロスが起こる。なら粘液そのものを伸ばすことに力を使えばいい。
北城の足が高く持ち上がる。床の間に細く何本もの糸が引いたかと思うと、彼女はそれを振り切る。もう片方の足も難なく自由になる。
「基本的なことを忘れてたみたい。これでユウも引き剥がして……そうね、隣の部屋に退避しましょ」
「わかった」
北城は岸戸の救出に、皆瀬は粘液を避けながら部屋の扉を開きに向かう。
「あんまり時間はないみたいだぞ!」
イマジナルとの距離はまだあるが、やつは加速を続けている。皆瀬たちの位置にはものの数十秒で到達するだろう。
北城の靴底には若干の粘液がへばりついているが、ぺとぺとする程度で行動に支障はない。すぐに岸戸の元へと駆け寄ると、背後から脇下に腕を差し入れ、粘液まみれの岸戸を抱きかかえるようにして持ち上げようとする。
「ミズハ、あいつが近づいてくるぞ! 早くしてくれ!」
「わかってるわよ! なんであんた、こんなにべったり床にくっついてるのよ!」
岸戸の体は持ち上がり、粘液が膜と糸を引いているが、北城のイマジンでもそれを引きちぎるまではいかない。
北城は足の裏だけがくっついていた。比べて岸戸は足の裏、腰、そして両手を床に接している。その面積差で余計に力が必要になっているのだった。
「もう、やつが来る! 間に合いそうにない! ミズハ、おまえだけでも逃げろ!」
「そうは言ってもね! 全身べとべとなせいで、あんたと私はくっついちゃってるのよ!」
「なんだって……」
泡立つような咆哮とともにイマジナルが猛スピードで接近する。
「俺も全力で体を持ち上げる! ミズハも全力で引っ張ってくれ!」
「とっくにやってるわよ! 後もう少しなのに!」
粘液の糸は長く伸び、あと少しで切れそうなのだが、その後少しの力が足りない。イマジナルが迫る。
「後少し、力があればいいんだな?」
扉を開けた皆瀬が駆けつけていた。
「ヒロ、止せ! 俺たちだけで何とかする!」
「アキヒロは部屋に戻って!」
「そんなこと出来ないよ。ユウ、ミズハ! 力を緩めるなよ!」
そう言うと、皆瀬は伸びきった粘液を横からむしり取り始める。岸戸と北城は有らん限りの力を振り絞り、粘液をできる限り引き伸ばす。伸びきった粘液は、少しずつなら、素手でも難なく取り除くことができるようだ。
まずは岸戸の手を自由に。イマジナル衝突までもう数秒。腰に付いた粘液の半分ほどをちぎり取ったとき、ついに残りの粘着力では耐えきれなくなったようで、粘液はぷつんとちぎれる。急に自由になった二人は、その勢いと体勢のまま部屋に転がりこむ。
「やった! やったぞ、ヒロ!」
「早くアキヒロも……」
部屋の扉、その四角く区切られた狭い視界からは、皆瀬が部屋に向かって走り出すのが見える。
ごうっ。
次の瞬間、四角い視界は高速で突っこんできた巨大な物体でいっぱいになる。妙に湿気を含んだ風が、部屋の中へどっと雪崩れこむ。
「嘘……だろ……」
「アキヒロ……」
イマジナルは四角い視界を一瞬で埋め、そして一瞬で通過した。今見えるのは、四角く区切られたビルの廊下。そこに皆瀬の姿はなかった。




