クマ殺し その一
話を聞いている間、ユウはじっと耳を傾けてくれた。僕は一気に話し終えると、ユウの反応を待った。彼は難しい顔をして、
「おまえの元気がなかったり、居眠りしていた原因はわかった。話してくれなかった理由もな。確かにこんな話、聞いてもピンとこないぜ」
と言った。
「信じられないよな」
「いや、信じてはいるぜ? なんというか、こう、もやもやっとして、絵が思い浮かばないんだよ」
口頭で伝えただけでは、わからないのだろう。実際に見た僕でさえ、信じられないぐらいなのだから。
「というわけで、学校が終わったらヒロの部屋に直行だな」
「どういうわけだよ。まさか捕まえようなんて思ってないだろうね」
ユウはにやりと笑った。
「約束はできないな。その生き物、普通じゃないんだろ。それより、そんな変てこな生き物だったら、一目見てみたいじゃないか」
「歯が鋭いんだぞ。爪もあるかもしれない」
「歯や爪ぐらい、その辺の野良ネコにでもあるだろ。まあ、心配すんな。俺に任せておけって」
ユウは力強く、自分の胸を叩いた。
放課後を告げる鐘が鳴り終わらないうちに、ユウが僕の席へとやってきた。
「準備はいいか?」
僕は苦笑した。
「まだだよ。鐘が鳴ったばかりじゃないか」
ユウはうずうずしながら言った。
「早い方がいいだろ。謎の生き物を捕まえて、どこかに逃がす。それからゲーセンに行くのが今日の予定なんだから」
「やる気だね。さては、こっそり練習したな」
ユウは不敵に笑った。
「ふっふっふ。新しいテクニックを見せてやるよ」
鞄に教科書や筆記用具を詰め終わり、さあ、行くぞとなったとき、教室のドアのところに、髪の長い女生徒が立っているのが見えた。
大きなアーモンド形の目。すっと通った鼻すじ。薄すぎず肉感的な形のいい唇。遠目でも美人とわかる顔立ちだ。
「げっ、ミズハ。いつからそこに」
ユウの言葉に、彼女は眉をひそめると、
「なによそれ。一緒に帰ろうと待ってたのに」
と不機嫌そうに言ったが、すぐに表情を変えた。
「それより、聞こえたわよ。ゲーセンに行くんでしょ」
「聞いてたのか」
「ユウの声、大きいんだもの。聞き耳立てなくても、勝手に聞こえちゃったわ」
ユウは天を仰ぎ、両手で顔を覆った。
「それで、行くんでしょ?」
ユウは僕を見た。僕は、どうにもできないのと、ユウに任せるという二つの意味で首をすくめた。それを見て、彼はうつむき加減でやれやれと首を振ったが、それで吹っ切れたようだった。ぱっと面を上げた。
「当然だ。行くけどな、この前のようにはいかないぞ」
ユウが息まくと、ミズハは、ははんと鼻で笑った。
「闘志満々じゃない。私はいつでも受けて立つわよ」
こうして僕とユウに加えて、ミズハもゲームセンターに行くことが決定した。
ユウが渋ったのは、ミズハが嫌いだからではない。むしろ、僕たち三人はチームと言っていいほど仲がいい。
北城ミズハと出会ったのは去年のことだ。僕とユウは同じクラスになって、手を取り合わんばかりに喜んでいたが、そのクラスに彼女もいた。
はっきり言ってしまうと、彼女には全く友達がいなかった。
その容姿が原因の一つだ。美人なのだが、その美しさは研ぎ澄まされた刀のそれだった。抜き身の刀が微かに鳴っているような、緊迫した近寄りがたい雰囲気なのだ。今はもうやめたらしいが、彼女は幼いころに親から武術を習っていたらしい。その立ち振る舞いがどこか身に染みついているのだろう。そういった微妙な残渣が端麗な容姿と合わさり、他人との溝を作っているに違いなかった。
しかし、それは些細な問題だった。
ミズハと誰も関わろうとしない本質的な原因は、彼女が〈クマ殺し〉だからである。これは有名な話で、同じクラスだった僕らだけではなく、学校で知らない者はいない。
僕たちの通っている学校は小中高の一貫校なので、期待と不安の入り混じった入学式、とはならなかった。知った顔を再確認し、形通りのオリエンテーリングをこなすと、本格的に授業が始まっていった。そんな頃の話だ。
クラスメイトにクマと見間違うような体格の男がいた。名前をオオクマという。その体躯は見かけ倒しではなく、中学ではかなり派手に暴れていたらしい。しかも弱いものを見下し、それで自分の強さを誇示するようなタイプの男だった。
事件は授業の合間、休み時間に起こった。
あるクラスメイトの机をオオクマが蹴り倒したのだ。机は大きな音をたてながら半ば跳ねるように転がって、広範囲に中身をぶちまけた。
彼が弱い者いじめをしているのはクラスメイト全員が知ってはいたが、そこまでしたのは初めてだった。今となっては、ここまで派手にやった理由を知る由はないが、虫の居所が悪かった程度の小さな原因だったのだろう。
突然の激しい物音に誰もが動きを止め、辺りはしんと静まり返った。
ただ机の持ち主だけが短くあっと叫び、散乱した荷物を拾い始めた。
周囲をにらみ回しながら、大男がゆっくりとそこに近づいた。膝をついて背を丸め、一生懸命に教科書や文房具を拾い集めている彼は、それに気付いていない。背後に立ったオオクマが足を持ち上げた。
不意に起こった背中への衝撃。屈んでいた彼は肺からぐええと息を吐きながら、轢かれたカエルのようなポーズになった。オオクマが背中を、その大きな足で思い切り踏みつけたのである。
その格好を見てオオクマは大笑いしていた。笑っているのは彼一人で、クラスの半分は何が起こっているのか理解できず、僕を含めた、もう半分は見て見ぬふりをした。
ただこれには二人、含まれていない人物がいた。
一人はユウだ。彼は怒りで顔を真っ赤にしていた。弱い者いじめは、彼の最も軽蔑するところなのだ。
ユウは今にも飛びかからんとしていたが、僕はその制服の襟をしっかりとつかんで引き留めた。喉元が締まり、彼は何をするんだ、という抗議の表情をした。
僕が止めたのはユウがオオクマに勝てないからではない。むしろ、彼ならオオクマを止めることができるだろう。だが、未然に防ぐならともかく、事が起きてからに飛び出していっても、何も好転しない。殴っても殴られても損だし、収まりかけた火勢に再び油を注ぐことにもなりかねない。
僕の考えが伝わったのか、ユウは少し落ち着いてくれた。
オオクマはひとしきり笑うと、上機嫌で自分の席に戻っていった。踏まれた彼がこれ以上に痛めつけられなかったのが幸いだった。そうでなければ、ユウは僕を振り切ってでも、やつに殴りかかっただろう。
オオクマが離れたのを見てか、何人かの生徒が様子を窺いながら、おずおずと机の中身を拾うのを手伝い始めた。鼻声で小さくお礼を言うクラスメイトの背中には、大きな足跡がついていた。
幸せな結果ではないにしろ、日常が戻り始めていた。