二重の窮状 その三
そして、まとまった睡眠を取れないまま日が昇った。
ふと気がつくと、部屋に謎の生き物の姿が見当たらない。本棚の上にも、壁との隙間にも、あの鮮やかな色彩はなかった。重たいまぶたをこすった。あれは夢だったのだろうか。
いてほしくないと願いながら、これ以上の労力をかけて探すのもおかしな話だ。悪い夢なら忘れてしまうべきだ。
僕は準備を済ませると学校へと向かった。部屋の戸締りは、特に念入りに行った。
謎の生き物を意識の外に追いやったのは正解だった。眠気があったものの、午前中はあの毛むくじゃらを脳裏に浮かべさえせず、昨日と変わらない半日を過ごした。
しかし、昼休みに総菜パンをかじっていると、曲がり角から突然現れたみたいに、ひとつの不安が転がってきた。それはくるりと軽くターンしながら僕の目の前に止まった。僕はそれをじっと見つめた。不安は、部屋にあの生き物がいる、という形をしていた。
そうだ、僕が空腹を感じているように、あの生き物も空腹を感じているはずだ。今ごろ、おなかがすいて、ふぎゃふぎゃ鳴いているに違いない。それでなくても、僕が見当たらないからと、部屋中を駆け巡り、引っかき回しているかもしれないのだ。
すぐにでもアパートに戻りたい気分だったが、午後の授業がまるまる残っていた。
早退するには理由がいる。事実を話しても信じてもらえないだろう。かといって、要所をぼやかして話したのでは、ペットの餌やりを忘れたぐらいに受け取られてしまう。これでは早退は認められない。授業が終わるのを待つしかなかった。
終業の鐘が鳴ると同時に、僕は鞄を引っつかみ、飛ぶようにして部屋に帰った。
アパート前には大家がいて、鉢植えを回して角度を何度も変えていた。他にやることがないのか、それとも彼女にとって鉢植えの角度がとてつもなく重要なのかはわかりかねたが、この時間はこうしていることが多かった。
背後を抜けて部屋に向かおうとすると、大家は振り向りむいて僕を呼び止めた。
部屋に生き物がいることがばれたのかと、平静を装いながらも僕の心中は穏やかではなかった。だが、どうやら僕が息を切らして走ってくるのを見て不審に思っただけらしい。僕が、こんにちは大家さん、と返すと、彼女は鉢植えに向き直った。ついに角度が決まったのか、満足そうにうなずいて部屋に戻っていった。
僕は、大家の姿がドアの奥へと消えたのを確認すると、急いで自分の部屋に入った。
予感に反して中は静かなものだった。玄関と部屋を結ぶ通路にも、部屋の中にも、あの生き物は見当たらず、部屋の様子は朝に見たままだった。
僕は内心ほっとしながら、本当に夢だったのかもしれない、と考え始めていた。思考の渦で慢性的に疲れていては、おかしな夢も見てしまう。夢以外では、あんな生き物はあり得ない。
だが、本当に夢だろうか。青い顔、だいだいのしっぽ、そしてにやにやした笑い顔。思い浮かぶ映像はやけに鮮明だった。
突然、気配を感じた。振り向くと、狭い通路に鮮やかな毛むくじゃらが見えた。やつは通路の中央で何をするでもなく、きょとんと立ちつくしていた。
夢ではなかった。
再び心がぐるぐるとかき乱されながらも、疑問に感じずにはいられなかった。
玄関から部屋までは一本の通路で繋がっている。幅が狭いため、ここにはものを置かないようにしていた。つまり、隠れられるスペースや物陰がないのだ。
しかし、僕が通り過ぎたその通路に、やつがいた。
通路から部屋に入るときに、入れ違いになったのかもしれない。あるいは、通路の横にはバスルームがある。やつは、そこから出てきたのかもしれなかった。だが、あの生き物の鮮やかな色彩を見落とすはずがないし、バスルームへの扉はぴったりと閉じているのだ。
いや、それでも。僕は頭を切り替えた。疑問の解決は後回しにして、これは好機だ。あの生き物を通路に沿って追いこめば、玄関から外へ逃がせるではないか。
僕は鞄を盾のようにして正面に構えると、謎の生き物ににじり寄った。
最初、やつは何事かというふうに僕を見上げた。それでも鞄がどんどんと迫ってくるので、くるくると体の向きをかえながらも後退していった。
僕は鞄を揺り動かして牽制しながら、さらに追いこんでいく。やつのすぐ後ろは、もう玄関のドアだ。
後がないと思ったのか、生き物は僕の横をすり抜けようと飛びあがった。僕がそれを鞄で受け止めると、やつはぼいんとはね飛ばされ、ごろごろと転がりながら玄関のドアにぶつかった。
僕はその隙に玄関のドアを開け放った。さらに鞄を前後に動かし、出ていくように促した。
やつは、とぼとぼと外へ出た。未練がましそうに玄関先を二、三度往復していたが、僕がなおも鞄を構えているのをみると、抗議するようにふぎゃふぎゃ騒ぎたてた。
すぐにドアを閉じた。鳴き声が一気に遠くなった。
これで解決だ。僕はベッドに上半身を投げ出し、ごろりと転がって天井を仰いだ。
たった一日と少しだったが、ずいぶんと長い時間を過ごした気分だった。まだ、あの生き物の鳴き声が聞こえる気がする。扉の前でまだ鳴いているのだろうか。だが、僕にはもう関係なかった。部屋の中で鳴かれるのは大問題だが、その外でいくら鳴かれようとへっちゃらだ。
元気なもので、先ほどよりも声を張り上げて、ふぎゃふぎゃいっているぞ。まあ、そのうち飽きるか、疲れるかしてどこかへ去るだろう。
だが、何かおかしい。鳴き声の大きさというより、むしろ鮮明さが不自然だった。嫌な予感がした僕は、身を起こすと声のする方向を見た。
玄関の扉は閉まっている。開いた形跡はない。それなのに、部屋の中央、そこにやつがいた。
「ふぎゃ、ふぎゃん」
異様な、理解しがたいことが目の前で起きた。しかし、僕が感じたのは混乱や恐怖ではなく、心のぽっきりと折れる音だった。この生き物を追い出すのは無理だという諦めだった。
もはや僕にできるのは、やつをなるべく静かにおとなしくさせて、周囲への発覚を遅らせるぐらいだ。
まずは、謎の生き物をじっと見た。やはり、視線を合わせるとやつは静かになった。
次に、学校で感じた不安を取り除いておくべきだと思った。食事の件だ。
僕は冷蔵庫から薄っぺらいハムを取り出すと、生き物に差し出した。やつは不安そうにくんくんと臭いをかいでいたが、安全だと判断したのか、ゆっくりとハムをかじりとった。
鋭い歯だ。手ごとかまれてはひとたまりもない。僕は歯型のついたハムを床に軽く放った。
やつはそれを器用に舌でなめ取り、口をもごもごさせていた。
もう一枚。ぺろりと食べた。さらにもう一枚。しかし、今度は食べなかった。ぷいとそっぽを向いてハムから離れていく。二枚目はすぐに食べたので、ハムが気にいらないわけではなさそうだった。好都合ではあるが、極端な少食だ。
それでもやつを観察していると、ばっちりと目が合った。生き物はにやにやと笑った。
諦めとは不思議なもので、一種の達観だ。それまでこだわっていた部分から解き放たれ、偏向されない自由な視点で物事を見ることができる。
こいつにとって、目を合わせたり、手を振ったりするのが重要であるのは間違いない。だが、もう一歩踏みこんで観察すると、それらの行為を直接求めているというよりは、どこか僕を試しているような印象を受けるのだった。やつの顔に浮かぶ表情が、満足というよりも、納得しているようにみえたからだ。納得の中に入り混じる嬉しさがにじみ出して、あのようなにやにや笑いになっているのだ。
それでも、この生物については、わからないことだらけだった。表情が納得によるものだとしても、その内容までは読み解けない。密室に突然現れた理由もつかないし、ハムの二枚で満腹になるのも理解できない。
僕はハムを冷蔵庫にしまった。
とにかく、周りにばれないように、この生き物とつき合っていくしかなかった。
やつは僕が寝ようとしていても関係なく、かまってくれと騒ぎ出し、僕の睡眠時間を削った。学校にいる間に、とんでもない事が部屋で起きるのではないかと、僕を常にはらはらさせた。
あの生き物がいる自室で睡眠時間を確保するのは難しかった。学校にいる間のちょっとした時間に仮眠をとるしかなく、ときには授業中でさえもまぶたが落ちた。
ユウは僕があまり夜更かしをしないのを知っている。だから、このところ居眠り続きの僕をみて違和感を覚えたのだろう。
僕に起きた最近の出来事をまとめると、こうなる。自分でも意味不明だ。それでも、現状を改めて整理したことで、説明の手がかりぐらいはつかめたように感じた。