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二重の窮状 その二

 このアパートはペット禁止だ。高校生の一人暮らしという時点で、僕はあまり歓迎されていなかった。その上、動物を部屋に入れているとなったら、ここを追い出されてもおかしくない。

 しかし、こいつはどこから部屋に入ったのだろう。ドアは閉まっていたし、窓に目をやると、半月じょうはしっかり立ちあがっていた。

 すっきりしないが、この動物が部屋に入ってしまったのは事実だ。静かに、そして一刻も早く追い出さなければいけない。

 仮面を取ろうとしていた手に、平たく長いものが触れた。プラスチックの三十センチ定規だ。頼りないが、素手よりは心強い。

 僕は、それを鞄から抜くように取り出すと、正面に構えた。

 しっぽは、だらりとしたまま動く気配がない。眠っているのだろうか。

 僕は本棚と壁の隙間から伸びているしっぽへと距離を詰めていった。

 あと一歩。すると今までピクリともしなかったしっぽが、ずるずると動きだし、隙間に引っこんでいくではないか。

 眠っているとどこかで決めつけていた僕は、進むも戻るも、とっさに判断できずに硬直した。

 隙間の奥から、ごそごそと物音がした。

 やつはまだ隙間にいるのだ、と気を取り直そうとしたとき、隙間からぬっと青いものが現れた。僕は動転した。一歩下がろうとした足がもつれ、尻もちをついた。それでも定規を手放さずに構えていたのは本能からだろうか。

 隙間から現れたのは顔だ。少し緑を帯びた、毛むくじゃらの青い顔。その次に出てきた胴体は、まぶしいぐらいの黄色だった。最後に引きずられて出てきたしっぽは、明るいだいだい色をしていた。全身に生えた、つややかな長い毛が無段階の美しいグラデーションを構成していた。体長は一般的な猫ほどだが、外見は大きく違った。平たい顔に黄色い大きな目。瞬きするたびに長いまつげが揺れた。鼻は中央のなけなしの盛り上がりに、ちんまりとついていて、顔に対して口が大きい。耳はほとんど横向きで、両耳の先端と頭の頂点を一本のラインで結んでいた。胴体はずんぐりとし、手足は短い。あの隙間に入っていたことを考えると、体毛のボリュームでそう見えるのかもしれなかった。そして、しっぽが長く、頭と胴体を含めたほどの長さがあった。

 やつは隙間から出ると、のそのそ歩きながら、二、三度、目をしばたかせていた。

 このときまでは、その可愛らしい容姿を前に、僕の恐怖心は消え去りかけていた。

 だが、やつは僕と目が合うと、まるで人間が笑うように目を細め、口角を上げて歯をむき出しにしたのだ。

 その様子は完全な不意打ちで、あまりにも衝撃的だった。僕の手は意思と関係なく震え、持っていた定規がすっぽ抜けた。

 定規は縦に落ちると、半回転しながらやつの方へと飛び、ぱたりと横に倒れた。

 やつはそれに驚いたようで、ふぎゃー、と鳴きながら毛を逆立てると、意外なスピードで元いた隙間に滑りこんだ。しばらくすると、隙間から顔だけをのぞかせ、大きな目で僕を見た。

 案外、臆病な生き物なのかもしれない。

 わずかながら平静が戻ってきたように感じた僕は、立ち上がると定規を拾い上げた。

 やつはその様子を見てか、顔さえも隙間の奥へと引っこめてしまった。

 間違いない。臆病な生き物なんだ。

 自信を取り戻した僕は、本棚と壁の隙間へと近づいた。本棚の陰になっている隙間は暗く、様子がわからなかった。

 定規を奥へと差し入れてみた。手応えがない。さらに手前にかきだすように動かした。定規が床に当たっている感触はあった。しかし、隙間にいるはずの生き物に触れた手応えがない。物音一つしないのが不気味だった。

 僕は定規で探るのをやめて、慎重に隙間を覗いた。やはり隙間の奥までは見えなかった。何もいないようにも見えるし、濃い闇の部分にあの生き物が潜んでいるようにも見えた。

 そこで僕が取り出したのは携帯電話だった。それは最新機種ではないが、当然のようにライト機能がついている。バッテリーの消費が大きいので常用には向かないが、こういうときには便利だ。

 僕が携帯電話を操作すると、小さな本体から驚くほど強い光が放たれ、隙間の闇は隅々まで取り払われた。

 何もいない。

「ふぎゃーん」

 僕が隙間の状況を把握しきれないうちに、頭の上から鳴き声が降ってきた。

 おそるおそる本棚の上を見やると、やつがその上でくつろいでいた。僕と目が合うと、そいつはいかにも嬉しそうに、にたっと笑った。

 めまいがした。

 こいつは、どうやって本棚の上に移動したのだろう。隙間を昇るとしても、少しは音を立てそうなものだ。

 定規で降りるように促したが、やつは前足でそれをばしんと叩いてきた。警戒されてしまったらしい。

 あまり追い詰めてしまうと、飛びかかられたり、部屋中を暴れ回って大騒ぎしたりするかもしれない。ここで焦って失敗するよりは、じっくりと時間をかけて確実に追い出すことを僕は選んだ。

 いつの間にか『十七歳の花束』が終わっていた。

 僕は内心しまったと思いながら、急いで鞄から真っ白な仮面を取り出すと、慣れた手つきで装着した。仮面のずれを指で直しながら、やつの様子をうかがった。

 仮面をつけた僕を見て、やつが目を見開いた。しかし、それは一瞬のことで、僕の手に定規がないとみるや、やつはその場でごろりと横になった。降りてくる様子がまるでない。まるで自分の家のような態度だ。

 僕はそれをつとめて無視することにした。やつをなるべく刺激しないように、かつ僕の心の平穏のために、あの生き物がまるでいないかのように振る舞った。そうしていれば、やつの警戒心が薄れてくるだろうという算段だった。

 するとどういうわけか、その生き物は、ふぎゃふぎゃとせわしく鳴き始めた。

 一時的なものだろうと相手にしないでいたが、一向に鳴きやむ様子がない。このままでは、やつを落ち着かせる前に隣の住人に気づかれてしまう。

 僕はいらだちながら、やつをにらんだ。

 不思議なことに、謎の生物は大人しくなった。満足そうな、そして安心した顔をしていたのだから、こちらの気持ちが通じたわけではなさそうだった。

 どうやら放置するよりも、少しかまってやった方が落ち着くらしい。

 かまうといっても、目を合わせるとか、手を軽く振るだけで十分な効果があった。別段、手間のかかることではなかったが、僕は否応なしに謎の生物を意識することになった。

 そして夜中が問題だった。

 僕がベッドに入る時間になっても、やつは活発だった。夜行性なのかもしれない。

 がさごそと部屋の中を動きまわる音が、夜の静寂にはうるさかった。それに日中のように、たまにかまってやらないと、ふぎゃふぎゃ騒ぎだすのだからたまらない。

 これでは眠れたものではなかった。

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