二重の窮状 その一
僕、皆瀬アキヒロは二つの現象に悩まされている。
どちらも常識から外れた、にわかには信じがたい内容であるのは共通していたが、その性質は大きく異なっている。とてもいっぺんには説明できない。
一つ目は僕の中、正確に言えば頭の中にある問題で、こんな具合だ。
僕の見ているもの、聞いているものと全く無関係に、突然、頭の中に大量の情報が流れこんでくる。
どんな情報か。僕にもわからない。流れこむ情報量があまりにも膨大だからだ。群衆のざわめきが意味を成さないように、そこから一つを捉えようとしても他のざわめきにかき消されてしまうように、それらの情報は僕に何も与えない。ごうごうと耳には聞こえない音を立てて渦巻いているだけだ。
いつの間にか、現実での情報はその渦にのまれて、他の雑多な情報に紛れてしまう。それどころか、頭の中を把握しようと試みている僕さえも渦に取りこまれていく。頭の僕に形はないが、渦の中で何かを失っていく。何も考えられなくなる。そして、僕は大量の情報と一緒にごうごうと回り始める。
この間、数十秒から三分弱とまちまちだが、僕は周囲で何が起きてもわからない。はたから見ると、僕は焦点の合わない目でぼんやりしているらしい。
大量の情報は、流れこんだときのように唐突に消える。僕はぱっと我に返る。感覚が働きを取り戻すとともに、気の重さ、体のだるさを実感する。この現象は、精神だけでなく肉体にも負担をかけているようだ。
僕はこれに思考の渦と名前をつけた。
一カ月ほど前、思考の渦が一過性ではないと気づいたとき、まず僕は病気を疑った。町の小さな医院に行き、さんざん待たされた後に診察を受けたが、医者は僕の喉にへらを突っこみ、胸に聴診器をぺたぺた当てると、間違いなく健康です、と言った。処方箋を薬局へ持っていくと、僕の症状と無関係そうな効果の弱い薬をお守り代わりに渡された。飲んでみたが、思考の渦は当然のように再び起こった。それ以来、医者には行っていない。
思考の渦に前触れはない。規則性も感じられない。直前の行為、体調、時間、これらに関わりなく突然起こり、そして忽然と消えさる。まさに理不尽だった。
さらに、思考の渦の頻度は少しずつだが増加してきていた。初めは数日に一度程度だったのが、ここ一週間は毎日のように思考の渦が発症した。
今のところ、思考の渦は僕の生活に致命傷を負わせるほどではない。しかし、今後さらに頻度が増えたら、あるいは、たまたま危険な頃合いに発症してしまったら。そう考えると、得体のしれない気がかりで僕の心は締めつけられるようだった。
思考の渦を止める手段がないと知りながらも、僕は常に気を張り続けた。不安に追い立てられるようにして、いたずらに精神と体力を消耗していった。
僕はその不調を表に出さないようにしていたが、ユウの目はごまかせなかった。僕の体調だけではなく、無理をしていたことにも、かなり前から気づいていたのだろう。
二つ目は僕の部屋にある問題だ。
僕は一人暮らしをしていて、アパートの小さな一部屋を借りていた。
玄関を入ると、すぐにシンクとコンロがあり、その横にバスルームに続くドアがある。部屋は一つ。元々広くない上に、ベットが大きく占有しているので余剰スペースはあまりない。他にあるのは小さな座卓、テレビと本棚ぐらいだ。
夏は暑い、冬は寒い、壁が薄い、と少々の不満はあったが、不便なく生活できるのだから、僕はこの部屋に満足していた。
しかし、それを脅かす事件が起こった。
一週間前のことだ。
僕は部屋に入ると座卓のそばに鞄を置き、着替えもせず真っ直ぐにベッドに向かった。その上に身を投げ出した。ぼふんと体が受け止められた。
疲れていた。思考の渦によって、心と体はくたくただった。自然とまぶたが下がってきた。布団の柔らかさを感じながら、僕はそのまま眠りに落ちていった。
音楽が聞こえる。『十七歳の花束』だ。
僕は目を覚ました。まだ体の奥深くに疲労がこびりついていたが、ベッドから身を起こした。
『十七歳の花束』は午後五時きっかりに流れる。仮面の着用を促すためだ。
この曲を誰が作ったのか、僕は知らない。有名な曲ではないのだろう。ゆったりとした優しい曲調で、一度、耳を傾けさえすれば、その後は意識の外で聞き流せるような、さりげなさがこの曲にはあった。
午後五時になると、飾有町の街頭スピーカーから『十七歳の花束』が聞こえ始める。地方ラジオは『十七歳の花束』一色になり、テレビ上部にはテロップが流れる。――午後五時をお知らせします。速やかに仮面を着用してください。
仮面は鞄の中だ。部屋は薄暗くなっていた。
電気をつけると、座卓に隠れるようにして、ちょこんと鞄が見えた。僕はベッドから立ち上がると、座卓を回りこむようにして鞄を引き寄せた。仮面を取り出そうと屈み、鞄に手を入れたとき、部屋の隅、本棚と壁の間に異様なものが見えた。
鮮やかなだいだい色をした毛むくじゃらが、だらりと隙間から伸びていた。埃はたきにも見えるが、それは僕の部屋にないものだ。そうなると動物のしっぽにしか見えない。