想像の その一
ジョウが向かっていたのは喫茶店ではなかった。喫茶店を横目に通り過ぎ、さらに北へと向かう。どうやら、守床山に登るつもりらしい。日が沈み始め、辺りはほんのりと暗くなってきていた。
山道に入ると、ジョウは携帯電話を取り出し、画面を何度か確認していた。地図のようなものが表示されていたが、はっきりとはわからなかった。彼の足取りははっきりしていて迷いがない。道を確かめているわけではなさそうだった。
「そろそろだな」
ジョウはそう言うと携帯電話をしまった。不意に立ち止まり、こちらを向いた。僕ら三人の顔をそれぞれ見ると、こう言った。
「覚えているか。俺の指示に正確に従うことだ。内容は三つ。仮面を外さない。俺から離れない。大きな声を出さない」
「破ったらどうなるんだ?」
ユウがなんでもない調子で尋ねた。おそらく、遠回しに理由を聞きたかったのだと思う。しかし、男は今までにない強い調子で答えた。
「命に関わる」
これから起こる何かへの恐怖を自覚し、僕らは口々に了解した。
「それでは、進むぞ」
男は背を向け、再び山の奥へと進みだした。左右に油断なく気を配っていた。どこかへ向かっているのではなく、何かを探しているようだった。
道を外れてしばらく登ると、ジョウは茂みの近くで立ち止まった。僕たちは、そこに屈んでいるように指示された。
「どこまで進むんですか?」
「静かに。あれを見ろ」
ジョウの指さす方を見ると、数メートル先の木の根元に黒っぽい、ごわごわしたものが動いていた。
「なあに、あれ?」
ミズハが言った。
「イノシシかな。小さいクマかも」
ユウはそういう感想を持ったらしいが、確かにそんな感じだ。
「声を出すな。気づかれるぞ。仮面が外れる危険はないか」
僕は自分の仮面を確認した。問題ない。ユウとミズハは指で円を作った。大丈夫そうだ。声を出してはいけない雰囲気だったので、僕は異常なしの意味をこめて、ジョウにうなずいてみせた。
「ここにいろ。何を見ても声を出すな」
ジョウは立ち上がり、ジャラジャラと鍵を鳴らしながら、黒いものに近づいていく。異音で存在に気づいたようで、黒いものは男の方を振り向いた。
その黒い生物はイノシシでもクマでもなかった。それどころか、この地球上のどんな生物でもなかった。顔いっぱいの口に大きな鎌のような牙がずらりと並び、ハエトリグサのように上下に噛み合わされている。牙の根元に独立した筋肉があるようで、顎を動かさなくても歯の角度が自在に変わっていく。前足が後ろ足よりも極端に発達していて、爪は全て一体化して馬の蹄のようだった。だがそれのように丸みはなく、丁度パイロンを縦に切って、ものすごく分厚くしたような形だ。木の根元を掘っていたらしく、土がこびりついて汚れている。大きさはそれほどでもないが、体毛の上からでも盛り上がる筋肉がわかった。目はどこにあるのか確認できなかったが、ジョウの存在は確かに捉えられているようだった。
オオーン!
獣が鳴いた。空気が震え、連動するように牙がわらわらと動く。その振動が僕らから恐怖という形で体温を奪っていく。
なんだ、こいつは! 今すぐ叫び、逃げ出したい。だが、ジョウの言葉が脳裏をよぎる。
――ここにいろ。何を見ても声を出すな。
その言葉にすがる思いで、僕は必死に本能を理性で抑えつけた。
ジョウから複雑な異音、擦れ、ぶつかり合う金属音が響き、その手に刀が握られる。一人と一頭が三メートルの距離で対峙していた。
先に動いたのは獣の方だ。地面を削らんばかりに前足へ力をこめ、ジョウに向かって跳躍する。早い。鎌のような牙が男に向かって真っすぐに突き出された。
刀と牙が衝突し、高い音を鳴らす。獣は男の背後にいなされる。男は振り返り、獣は着地と同時にゴムまりのように反発し飛びかかる。
再び交錯。しかし、今度は距離が離れない。獣がその牙で、がっちりと刀を挟みこみ、ぐいぐいと引っ張る。それでも、ジョウの手から刀は離れない。
奪うのは無理と悟ったか、獣は別の行動に出る。牙の根元が力こぶのように膨張した。挟まれた刀に万力のような力がこめられる。
みしり。
刀は――折れなかった。ひびが入ったのは獣の牙の方だ。
ジョウは獣がついたままの刀を両腕で持ち直す。獣の足がふわりと地面から離れる。相当な重量があるであろうそれを、ジョウは何事もないかのように上段に掲げていく。獣は足をばたつかせるが、宙を掻くだけで何も捉えはしない。刀はジョウの真上に達し、地面へ向かって一気に振り下ろされる。獣はとっさに牙を外し、刀の間合い外に着地した。
刀は地面を深く抉った。ジョウはゆっくりと立ち上がると、刀を獣に向かって構える。
獣は警戒したのか、すぐには向かって来ない。ジョウの隙を探すように、明らかに刀の間合いを意識しながら、うろうろと移動する。
拘束具のような仮面の奥、ジョウの眼光がギラリと輝いた。
奇妙な音。金属が擦れ、ぶつかり合うような音が、今までよりも一層激しく響く。それと共に、ジョウは届かないはずの獣に向かって刀を振るう。銀閃が薄闇に走った。
獣はびくりと体を震わせると、ゆっくりと地面に倒れた。その体はばっさりと両断されている。
男は深く息を吐く。金属音が響くと刀は消えていた。
「もう安全だ。出てきてもいいぞ」
僕たちは動けなかった。声すら出せなかった。ジョウの指示を守るため、三人とも不必要なまでに硬直していた。
それでも、何も言われなければ、僕たちの誰かは悲鳴を上げ、その存在をあの獣に知らせてしまっていたことだろう。僕らにあの鋭い牙を防ぐ術はなく、バラバラに引き裂かれていたかもしれないのだ。
「大丈夫だ。やつはもう動かない」
おびえる僕たちをなだめるように、少し優しい調子でジョウが言った。
少し離れたところに獣の体が転がっていた。
「な、な、なん、何なんだよ、あれ!」
「ああ、あああ」
ミズハは震えていた。僕はどう声を出していいのか、忘れてしまったようだった。
「指示は守れたようだな」
正気に戻ったのか、堰を切ったようにミズハがまくしたてる。
「守れたようだな、じゃないわよ! 怖くて死ぬかと思ったわよ!」
「うわあ! まだ動いてるぞ、あいつ!」
ユウの指さす方向を見ると、まだ牙がのろのろと動いていた。
「心配ない。じきに消滅する」
そうは言われても心配なのか、ユウは不気味そうに獣の体を見つめていた。
これには血液や内蔵といったものが見当たらなかった。動物の切り裂かれた死骸というには現実味に欠けている。しかし、グロテスクさこそないものの、その点が得体の知れない印象を強くしていた。
「こ、これが見せたいものだったんですか」
「そうだ」
ようやく落ち着いてきたので僕が尋ねると、簡素な返事が返ってきた。
「今なら、説明してくれるんでしょうね」
とミズハが強い調子で言った。




