始まりに気づく日
背の高い草がざわざわと風になびき、その隙間から淡い色彩の光が漏れる。
あれは花だろうか。それとも発光する虫か。
判然としないうちに、それらは体の脇をすり抜けていく。視界に捉えようとしても空気に溶けるように、ふっと見えなくなる。
草同士がこすれ合う、わさわさという音。腕が目の前の草を横に押しやる。その先も背の高い草が視界を塞いでいる。
主観の視点。腕が草をかき分け、視点は前方に移動していく。草の揺れに合わせて淡い光が踊る。
視点からして自分の腕のはずだが、どうもそんな気がしない。そんなことを考えていても、視界はお構いなしに前進していく。
突然、視界が開けた。そこに――。
「おい、ヒロ。おいってば」
意識は水中を昇る泡のようだ。ゆらゆらと安定しない。
誰かの気配が近づいた。声の主だろうか。肩にがっしりとした手が置かれたのを感じた。
泡は水面に顔を出し、パチンと弾けた。はっとして、僕は体を起こした。
何か夢を見ていたようだ。だが、思い出せなかった。
ぼんやりとした頭で声のした方を向くと、背の高い男子生徒がぎょっとした表情で立っていた。
「驚かせるなよ。呼んでも返事しないと思ったら、突然起き上がるんだもんな」
飾有町に学校は一つしかなく、しかも小中高の一貫校なので、生徒全員が顔見知りのようなものだ。それでも彼ほど僕と親しくしている人物はいない。
岸戸ユウ。彼とは、もう七年近い付き合いになる。
小学生の頃、僕は人見知りしがちで、自分から積極的に話しかけるのが苦手だった。親しい友人もできず、誘われなければ一人でいることが多かった。
悪いやつじゃないが、特別面白くもない。僕を評価するならば、こうなるだろう。
入学当初は、クラスメイトの何人かが僕に話しかけてくれた。僕は精一杯それに応えた。話しかけてくれさえすれば、それができた。しかし、彼らには僕よりも、もっと気の合う友人ができていく。
時間が経つごとに、そして学年を重ねるごとに、わざわざ僕に話しかける人は減っていき、僕の一人でいる時間は長くなっていった。
学年が上がり、クラスが変わるごとに、話しかけてくれるクラスメイトが何人かはいた。だが、またも僕は彼らの最良の友人にはなれないのだった。
その繰り返しだった。
それを孤立だと思ったことはないが、望んだことでもなかった。どこかで自分を余りもののように感じた。そうだ、しっぽだ。あっても困らないが、特別必要じゃないもの。僕はしっぽだ。
小学生の三分の二を終え、新しい学年に上がったとき、僕とユウは初めて同じクラスになった。
僕の目には、彼が活発で明るく、誰とでも仲良くできるように映った。まるで僕と反対だ。それが第一印象だった。
だから、彼が僕に話しかけてきたときも、いつも通りだろう、と思った。最初だけ話しかけてくれるうちの一人だと決めつけていた。
しかし、ユウは違った。
三ヶ月経っても、彼は時間ができるたびに僕のところへやってきた。それだけなら、いつもより交友が長続きしているだけだ、と僕は考えただろう。だが、そうは思えなかったのは、ユウが何よりも僕を優先している節があったからだ。うぬぼれと思われるかもしれないが、僕にとってこれは、それほど新鮮で重みのある出来事だった。
ユウは明るく嫌みのない性格で、正義感が強い。しかし、とにかくなんにでも体当たりで取り組むので、失敗も多かった。そういった欠点でさえも、僕には魅力に映った。ユウのことを知れば知るほど、僕は彼のことが好きになっていった。
夏休みが終わり、再び学校に通うのが当たり前になった頃。ユウは休み時間になると、いつものように僕の所へやってきた。取りとめのない話で笑い合った後、ふと僕は、以前から感じていた疑問を彼に投げかけたい気分になった。
なあ、どうして僕なんだ、と尋ねてみた。他にクラスメイトはいるだろう、ユウなら仲良くできるだろう、そう言った意味をこめて言った。
ユウは唸ったまま答えようとしない。僕は不安になった。
少しして、彼は思い切りよく、わかんねえなあ、と言った。
そして、とびきりの笑顔をこちらに向けてきたのだ。
彼は僕と付き合うメリットを一切挙げなかった。なんだかわからないが、一緒にいる。それは素敵だと思った。それに、あの笑顔に比べたら、列挙された五十の長所では釣り合わなかっただろう。
それからクラスが変わっても、ユウと僕は交友を続けた。
僕たちの性質が似ていなかったのが、よかったのかもしれない。僕は考えるだけで行動しないタイプで、ユウは考えずに行動するタイプだ。ユウは僕の背中を押し、僕はユウのブレーキになった。ちぐはぐだからこそ、その凹凸がぴったりと重なるようだった。
今では、ユウの積極性に感化されたのか、僕の人見知りはかなり改善していた。ユウ以外の友人もできた。だが一番の友人は、やはりユウだ。
その彼とは高校で、去年、今年と続けて同じクラスになっていた。
クラスのあちこちで生徒がおしゃべりし、教室はざわついていた。いつの間にか授業が終わり、休み時間になっていたようだ。
ユウの呼びかけはともかく、終業のチャイムにも気付かないなんて、本当にどうかしている。
僕は、ばつの悪さを眠そうに目をこするしぐさで、ごまかしながら言った。
「それで、なんだって」
「なんだって、じゃない。おまえ、おかしいぞ」
ユウが眉根を寄せた。
僕は夢から覚めたばかりだが、意識ははっきりしていた。それなのに、彼の表情の原因に思い当たる節がなかった。
僕は素直に尋ねることにした。
「僕がおかしい?」
この質問に対して、ユウはため息をついた。
「ばれてるんだよ。隠すそぶりだったから、今まで黙っていたけど、最近は目に余るぜ。まさか、それらを一つひとつ、俺に挙げさせる気じゃないよな?」
僕は心底どきりとした。しまったと思った。
ユウが言っているのは、僕の体調不良の件だった。
僕とユウの間柄であれば、ほとんどのことは包み隠さず話していた。にもかかわらず、僕はそれらの一切をユウに伝えなかった。知られたくないという羞恥や、自分で解決できるという慢心からではない。それらに説明をつけるのが、あまりにも困難だったからだ。そもそも、僕自身が理解できていないのだから。
そんな状態で話しても解決はおろか、ユウを不安にさせ、心配をかけるだけだ。
僕は体の変調を自分だけの秘密にし、それは上手くいっていると思っていた。
だが、ユウにはずっと前からばれていたらしい。隠そうとしたことで、彼に心配させ、怒らせ、そして呆れさせてしまった。こうなるのだったら、初めから打ち明けていた方がどれほどよかっただろう。
「わかった。話すよ」
「ようやくだな」
ユウは近くにある椅子を引き寄せた。そして背もたれを両足で挟むように逆向きに座ると、前のめりになって両腕を交差させ、その上に預けた。
「言っておくが、上手く説明できる自信はないぞ。それに……」
ユウは僕の言葉を遮って言った。
「俺が聞きたいのは前置きじゃないぜ」
僕はうなずくと頬を緩めた。ユウのこういった態度がたまらない。うじうじと立ち止まりがちな僕の歩みを促してくれる。
とはいえ、どう話したものか。ここ最近の出来事を整理しながら、僕はそれらについて話し始めた。