偶発の同刻 その十
窓にぺたりと白い帯が走る。一か所ではない。全方位から同時に帯が巻きつけられているようだ。あっという間に窓ガラスから外が見えなくなった。
「帯が巻きついてきている!」
「大丈夫。この帯に力はほとんどないの。車を走らせれば、簡単に振り切れると思うわ。えっと、鍵は……」
ハンドル横の鍵穴に青紫の光が小さく灯る。キーが刺さった状態で現れる。
「すごいわね、それ。……それじゃあ、やってみる。回せばエンジンがかかるのかしら」
千輪は鍵を捻る。何も起こらない。
「ガソリンは入っているみたいよ」
「それよりも調子が悪いなりにエンジンの起動音ぐらいはするはずだ。全く音がしない」
「さっきの衝撃で壊れたとか、もしくはバッテリーがあがってるとか……」
「衝撃はともかく、バッテリーは十分なはずだ。僕のイマジンはそういう能力だから」
「そうよね。おかしいわ」
千輪は何度も鍵を捻る。結果は同じだ。ペダルを踏んでも当然反応はない。
クリークがサイドレバーにまたがり、ぺしぺしと叩く。
「それも関係なさそうだよ。ロックがかかっているとかじゃなく、全く動かないんだからね」
皆瀬はクリークを撫でる。
車を巻く帯は厚みを増す。窓から入る光がどんどん弱々しくなる。
「これじゃあ、ドアは開かないわね。ウィンドウも開かない」
千輪は案外冷静だ。以前、彼女が私も戦えると言っていたのを思い出す。
「携帯電話もだめね。起動してはいるけれど、電波が届いてない」
これでは〈ウィズダム〉に連絡できない。〈WIZ〉の位置情報も送信されてないのだろう。
「この帯には締めつけて押し潰すなんてことはできないみたいだ。時間を稼げたと考えよう」
千輪はうなずく。
車内が薄暗くなっていく。腰を浮かし、ルームライトのスイッチを入れるが、これも点かない。
カザマやリネンのイマジンは何なのか。そして〈リビジョン〉が千輪を狙う目的は。ユウとミズハ、そして巡回班は上手くやっているだろうか。ここでそれらに答えを出すのは難しい。しかし、千輪自身のことであれば答えを得られるかもしれない。
「私が〈エデンの外〉に入っていた理由を知りたいのね」
切り出そうとした、ずばりそのものを先に言われたので驚いてしまう。咄嗟の返事ができない。
「私はあなたの記憶を見た。あなたが培ってきた思考手順も何となくわかる。ここで解決できる問題って、そのぐらいだものね」
千輪は少し躊躇うように言葉を切る。
「理由は単純。あなたと一緒で、仮面を外したの。同時にイマガイズが発現し、イマジンが身についた。数日後、〈ウィズダム〉の人が来て〈エデンの外〉へ収容された」
「ちょっと待って。なら、何でイマジンが失われていないんだ」
「私、脱獄したの」
「ええっ?」
皆瀬は思わず大きな声を出してしまう。
「使った言葉が適切じゃなかったわ。えっと、刑期をごまかして出てきたの」
それも十分に衝撃的だ。
「〈エデンの外〉は部屋は頑強だし、システムの整合性もそれと同じぐらいしっかりしてる。でも、システムそのものは驚くほど単純なの」
倉庫内。コモンがテーブルの中央をじっと見つめていた。その横にケイジが身動き一つせずに控えていた。
ケイジは目線だけを動かすとコモンに尋ねる。
「何か、考え事でもあるのですか」
コモンは長く息を吐いた。
「お前と出会った日と、それまでのことを思い出していた」
コモンは突然、イマガイズになった。原因はわからない。よくわからない生物が見え、理解のできない力を使えるようになった。
コモンは平凡な人間だった。容姿も知能も体力も、全てが平均的。何をやらせてもそつなくこなす。だが悪く言えば、突出した部分がなく誰の印象にも残らない。それがコモンという男だった。
別にそれを嫌っていたわけではなかったが、潜在意識下ではコンプレックスを感じていたのかもしれない。
その反動か、イマガイズとなったコモンは自分を特別だと思うようになった。
だが、その全能感は長く続かなかった。〈ウィズダム〉が彼の前に現れ、〈エデンの外〉へ入ることを強いたのだ。
長い廊下。規則的に並ぶ部屋とモニター。その一つに少女がいた。コモンは何となく、その少女と壁に表示された赤いデジタルを記憶に留めた。
〈エデンの外〉は、いわゆる人間的生活基準では快適だった。だが、想像的な生活という意味では地獄そのものだ。没個性としか言いようのない部屋からは、何の想起も意思も誕生しえなかった。テレビはこの施設専用のチャンネルばかりで、どれも退屈でつまらない。落ちなし山なし、盛り上がりもへったくれもない平坦な内容のドラマが延々と流されていた。本も同様だった。イマガイズ、そしてイマジン――当時はこの言葉を知らなかったが――が萎え衰えていくのがはっきりとわかった。無よりも何も生まれない、想像を殺す部屋。まるで自分自身だ、とコモンは思った。この部屋に、私はがっちり組みこまれているのだと。
壁のデジタルの意味はすぐにわかった。仮面をつけているときだけ数字が緩やかに減っていった。仮面を外すと、数字はぐんぐん増えた。仮面をつけさせたいのだ。そして、数字がゼロになればこの部屋を出られるのだろう。
ならば、あの名前も知らない少女はかわいそうだ。どの程度収容されているのか知らないが、日にちの部分が三十を超えていた。今も仮面をつけないままなら、もっと増えているだろう。
コモンは仮面をつけた。彼は元々平凡な容姿だったが、仮面をつけたことでどこの誰でもなくなった。おそらく、このままでは力を使えなくなる。だが、日常に戻れるのだ。仮面のある、平凡な日常へ戻っていく。
ぼんやりしながら二日ほど過ごしていた。昨日と全く同じ、しかし栄養的には文句のつけようのない食事を終えた。仮面を装着した。表示は残り一日と少し。食事以外で仮面を外さなければ、今日寝て起きれば出られる計算だ。
突如としてコモンの中に疑問が湧いた。なぜ、私がこんな目に逢わなければいけないのか。この特殊な力は、間違いなく生活を一変させる。これまでの平凡な生活なんて、十倍希釈したレモネードを一滴、舌に垂らしたぐらい味気ない。疑問は怒りの燃料となり、心をふつふつと滾らせた。あんな生活に、戻ってたまるものか。不思議と力が漲る思いだった。
今までも、怒り、反抗し、拒絶した収容者はたくさんいた。その誰もが仮面を外すことで抗戦の意思を示した。結果、彼らの収容日収は増え、より長期の想像力減退、仮面の着用を経て出所することになった。
だがコモンは違った。仮面を装着したまま、怒り続けたのである。怒りにもある程度の想像力、あるいは怒りの対象が必要だ。想像力を減退させ、怒りの対象が何もないこの部屋では、その気持ちを長時間保つことは不可能のはずだった。だが、コモンは彼自身のそれまでの生活を薪のようにくべ、怒りの炎を絶やさなかった。夜も寝ず、二十四時間通して怒り、この施設を否定した。




