認知の溝 その二
ユウもミズハも怪訝そうに僕を見ていた。冗談ではない。本当に見えていない様子だった。
違う。違うんだ。僕は心の中で言い訳した。あいつが他の人には見えないなんて、これっぽっちも想定していない事態だった。これでは僕は嘘つきか、あるいは頭がおかしいかだ。いや、それなら我慢できるが、彼らの好意をふいにしてしまった。これが我慢ならない。
僕は何か方法がないかと、頭をフル回転させた。
そうだ、餌を与えたらどうだろう。生き物は見えなくてもハムは見える。その一部や全部が突然消えたら、何かがいるとわかってくれるはずだ。
僕は足早に冷蔵庫へ向かった。
「ヒロ?」
「ちょっと、ちょっと待ってくれ」
ハムをはぎ取るように一枚持ちだすと、それをやつの鼻先に置いた。ユウとミズハは、何が起こるのかとそれに注目した。しかし、やつは不安そうに僕を見上げるだけで、ハムに向かおうとしなかった。
部屋に何人も上がりこんでいるのがいけないのだろうか。それとも昨日食べた分で、まだお腹が減っていないのだろうか。少し待ってみたが、食べようとする気配は全くない。
僕の心は焦りと苛立ちでいっぱいになってしまった。
「なんでだ。なんでだよ!」
「アキヒロ、落ち着いて」
ミズハが声をかけてくれるが、まともに顔を見られない。こんなことになるとは思っていなかった。
次に僕は、嘘つきか、頭がおかしいというレッテルを貼られるのだろう。いや、本当におかしくなったのかもしれない。自分にだけ見えて他の人には見えないなんて、普通ではない。しかし、妄想、幻覚の類だとすれば説明がつく。
やつに餌として与えたハムが減っている説明ができないが、いやいや、それこそ思いこんでしまっただけで、自分で食べた可能性も否定できない。おかしくなってしまったのだから、どんなことも認められる。自分を信じる以外は全て。
ユウは大きく息を吸いこんだ。
「ヒロ、大丈夫だ!」
ちょっとびっくりするぐらいの声を出した。もしかするとユウには見えていたのだろうか。僕はわずかに希望を持った。
「ユウ、もしかして……」
「いや、見えない」
僕の言葉をさえぎるようにして言われた。気休めは止して欲しい。僕が抗議しようと口を開くと、手のひらで制された。ユウは言葉を続ける。
「見えないけど、俺は信じる」
「なんだよそれ。矛盾してる」
「矛盾してない」
「してるだろ。見えないのに、どうやって信じるっていうんだよ!」
僕は思わず声を荒らげてしまった。しまったと思ったがもう遅い。このままでは本当に言い争いになってしまう。僕の様子を察してか、ユウは落ち着いたトーンで話し続けた。
「ヒロは、俺たちが見えないって言ったのをすぐに信じただろ?」
ユウの抑えた口調を聞いて、僕は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「そりゃね。態度を見てればわかるよ」
「同じさ。生き物は見えないけど、おまえのことは見えてるんだぜ? 俺はヒロを信じてる。だから、この部屋に見えない何かがいるって信じるよ」
僕は、あっと声を出しそうになった。そのユウの言い分は、乾いた砂に水がしみこむように、すとんと腑に落ちた。
「私も信じるわ。いたずらにしては、誰も得しないんですもの」
僕が落ち着いたとみて、少し離れてやり取りを見守っていたミズハが言った。
「それにね」
彼女が指差した先は、謎の動物がいる隙間だ。置いたはずのハムがなくなっていた。
「ハムがないの」
「あ……」
いつの間に。やつは隙間で口をもごもごやっていた。
「ミズハ、落ちてる物は食べたらだめだろ」
「失礼ね。そんなにいやしくないわよ」
「ははは、冗談だって。ともかくそこには」
ユウは隙間の方を向いて指でぐるりと円を描いた。僕から見ると、生き物は丁度その円の中に収まった。
「何かがいるってことだ。こうなると信じる、信じないの問題じゃないな」
「ね? アキヒロ」
なんだか泣けてきた。今度は別の理由で彼らの顔が見られない。袖で顔を覆いながら、かろうじて、ああ、と返事した。
「俺たちはヒロをこれっぽっちも疑ってないよ」
「ありがとう」
「面と向かって言われると照れくさいや。でもなあ、見えないのも確かなんだ。まいったな。見えないんじゃ、いくらなんでも捕まえようがない」
「そうねえ。猫ぐらいの大きさらしいけれど、手探りでの捕獲はちょっと危険か」
「どうしたもんかな」
僕の中では一つの考えがまとまってきていた。
「それなんだが、もう捕まえなくていいよ」
「あきらめるのか?」
「そうじゃないよ。僕以外に見えないのなら、こいつがばれる可能性は限りなくゼロだ。僕がアパートから追い出される心配もない。夜中にうるさいのは、耳栓でもしておけばいいからね」
「ははあ、捕まえることしか考えてなかったぜ。……あれ。つまり、これで解決か?」
「なんだ、せっかく来たのに役に立てなかったわね」
「ユウとミズハがいなかったら、あの生き物が自分にしか見えないなんて気づけなかった。誰かにばれやしないかと明日以降も怯えて暮らすところだったんだ。ユウとミズハが解決したようなものさ」
「まんざら無駄でもなかったか」
「解決したんなら、それでいいんだ」
ミズハは軽くほほ笑み、ユウは得意げに鼻の下を擦った。
妙なに照れくさい雰囲気になってしまったので、僕はあわてて話題を変えた。
「そうだ、予定通りゲーセンには行こうよ」
「賛成。時間も惜しいし早速行こうぜ」
ミズハは無言だったが目に見えてうきうきしていた。こういうときは危ないんだ。




