第漆歩・大災害+129Days 其の参
お待たせ致しました。
先月は色々とありましたので、更新出来ず誠に申し訳ないです。
誤字脱字誤表記を訂正致しました。(2018.04.07)
『La Nascita di Venere』というタイトルのテンペラ画がある。
所謂、『ヴィーナスの誕生』の名で知られている作品を描いたのは、十五世紀後半に活躍したサンドロ・ボッティチェッリ。
172.5 cm × 278.5 cmのキャンバス地の中央には巨大な帆立の貝殻に乗る、海の泡から誕生したばかりの美と愛の女神ヴィーナスが描かれ、夫婦神の祝福を受けている。
彼ら神々達の背景として広がるは、果てる事なき乳白色の海。
レオ丸達の前に広がる海は、ルネサンス期の巨匠が描いた海にとても良く似ていた。
普通であれば乳白色の透明度は限りなくゼロとなるはずなのに、何故か透明度を感じさせる不思議な水面。
方舟は、そんな海に浮かんでいた。
もしかすれば、<八街之江>は無色透明なのかもしれない。
無色透明であるが故に、不透明の空の白色と砂地の灰色を無制限に吸収してしまった結果なのだろうか、とレオ丸は意識の外側で考えた。
「強力ミナモト、下溜上K-Somersaultは、引き続きスパイの取調べをして下さい」
「御意に候」
「承りました」
「他の者は乗船の準備を」
濡羽の命令に全員が一斉に恭しく頭を下げる。
皆よりも遅くゆっくりと、誰よりも軽く頭を下げ、いち早くさっさと頭を上げたレオ丸は、己に向けられた無遠慮な視線に気がついた。
口元を歪める事なく平然とした表情に何を思ったのか、眉間を微かに振るわせた濡羽は顔を洞沌の方へと向ける。
「案内して下さい」
「冒険者の頂点に立たれて居られるいとやんごとなき御方の申し出とあらば早速にも御案内させて戴きましょうほどに」
沖合い三十メートルほどの場所に停泊している船へと手を指し伸ばした洞沌は、其の姿勢のまま水際から足を踏み出した。
そしてスタスタと歩き出した事に、レオ丸達はポカンと口を丸くする。
「どうぞ皆様御進み下さいませでないと乗船出来ませんので」
首だけぐるりと振り向けるも、歩みは止めぬ洞沌。
波紋もなく、泡立つ事もなく、ましてや潮騒など一切聞こえぬ、白濁した鏡面のような海面をスタスタと。
「……行きましょう」
「では僕から」
妙にウキウキとした唐獅子牡丹MOCHIMOCHIが、恐れよりも未知へのファーストコンタクトを楽しむかのような足取りで進んだ。
「おお! 硬い! いや、硬いじゃなくて想像以上に確りとしている!?」
面白がって水面を飛び跳ね出す唐獅子牡丹MOCHIMOCHIの仕草を見て、レオ丸達は安心したように灰色の砂浜を後にする。
<八街之江>は間違いなく液体であった。
レオ丸は頭の中でそう理解する……しかし靴底越しの実体験は固体である。
掌で水面を強く叩いた時の感触がズーッと続くような、何とも奇妙な違和感。
「実に得がたい体験です!」
アイスダンスのようにクルクルと回転し、幾度も飛び跳ねていたサブ職<地図屋>の青年が満面の笑顔で着地を決めた。
他の者達もどこか似たような雰囲気で、先ほどまでのおっかな吃驚といった様子は毛ほどもない。
全員が未知の体験を楽しんでいたが、無条件に楽しんでいた訳ではなかった。
其の証拠に、誰一人として海面を触ろうとはしていない。
個体のような感覚はあくまでも感覚であって、まやかしの一種であろう事を直感で理解していたからだ。
もし直接に触り、液体であると理解してしまったら?
途端に此の不可思議な海は液体へと瞬時に姿をかえてしまい、其の身は海中に没してしまうのだろう。
海中には何があるのか?
もし海中に没した時に個体であった事を、思い出してしまったら?
無意識下で鳴らされる警鐘を聞き取る事が出来るくらいには“此の世界”に馴染んでしまった冒険者達は、歩みを止める事なく船へと進む。
ガラリヤ湖の上を歩いた預言者とは違い、何とも覚束ない足取りで。
「ああ、落ち着いた」
乗船した途端、だらしなく足を投げ出し座り込んだレオ丸。
他の者達も似たような姿で緊張を解き、弛緩と脱力の狭間でグッタリとしていた。
「“Fantasy”って“Funny”の近縁種やと以前は思うとったけど、こっちに着てからつくづく実感したわ、“Safety”の真逆やってな」
「同感でしゅら」
「御尤も」
護衛対象のボヤキに、二人の護衛者がうんざりとした表情で首を縦に振る。
「地図を描くには世界を知り、理解せねばなりません。
理解をする過程において危険がつきものなのは、元の現実でも“此の世界”でも大して変わりありませんからね」
「哲学的っすね」
「或いは形而上的と言うべきか」
ゼルデュス配下の技術部門長の一人が述べた感想に対し、ゼルデュスが派遣した二種類のスパイ役が其々違う評価を与えた。
「皆様御無事に乗船戴き誠に嬉しく存じます」
喜びの感情が欠片も込められていないトーンで口上を述べながら、洞沌はプログラミングされた人型機械のように一礼する。
「では此れより出港致しますが此れよりの旅路が無事であるかどうかは保障しかねます事を御了承戴きます」
ding-dong!! ding-dong!! ding-dong!!ding-dong!! ding-dong!!ding-dong!! ding-dong!!ding-dong!! ding-dong!!
案内人を務める供贄の一族の無責任に聞こえる言葉に被さり、打ち消すような激しい鐘の音が天上から鳴り響く。
衝撃波にも似た音響の猛威に襲われた冒険者達は、抗議の声を上げる間もなく一斉に耳を塞ぎ、反射的に目を閉じる。
そして全員が真っ白い闇に閉ざされ、視界も意識もホワイトアウトした。
clink clink clink clink clink clink clink………………。
レオ丸が意識を覚醒させた時、周囲には誰も居なかった。
何も見えない明るく象牙色の茫洋とした世界に、ポツネンと独りっきりで放り出されていたのだ。
鼓膜に響く金属音を煩わしく感じたレオ丸は、両耳に小指を突っ込みながら周囲を見渡す。
すると白濁した一部が、レース地の巨大な幕が勢いよく開かれたように、左右に別れた。
其処にあったのは、“カチカチ玉”や“ニュートンのゆりかご”と称される仕組みである。
正式名称と思しきものは“executive ball clicker”であろうか。
レオ丸の立つ床面の延長線上、目分量では五メートルほど先の辺りで金属球がカチカチと忙しなく音を刻んでいた。
大きさは一抱えほどで、金属球の数は十二個。
一般的なニュートンのゆりかごよりも倍近い個数の球が、通常よりも速くぶつかり合っている。
ぶら提げられた右端の金属球が隣接する金属球に衝突した瞬間に、左端の金属球が宙に飛び出す。
宙に飛び出した球が定位置に戻る際の衝撃が、中間にある十個の金属球を貫き、反対側の金属球にまで到達する時間が余りにも早過ぎるように、レオ丸には感じられた。
状況が全く理解出来ぬままレオ丸が一歩前に足を踏み出した次の瞬間、バリンと何かが割れる音が世界を切り裂く。
音に切り裂かれた世界は、レオ丸の視界の中で無数にひび割れた直後、粉々に砕け散った。
作務衣姿にショルダーバッグを斜め掛けしたレオ丸は、人影が皆無の京橋に立っていた。
私鉄の駅と元国鉄の駅との中間辺り、普段なら献血バスが常駐している所に。
「以前の私は、毎週水曜日の夜中になると此処で、連れ達とダンスの練習をしてたんです。
最初は大音量でダンスミュージックを流してたんですけど、巡回のポリさんに叱られたんで其れ以降は皆、スマホにイヤホンで静かに踊ってましたわ。
傍からしたら、阿呆が手足振り回してクルクル回ってるようにしか見えへんかったやろうけど、私らは人目なんか気にせず只ひたすらに自分らの世界に没頭してました」
レオ丸の隣に居た青年は、目を閉じながら語る。
「とは言うても、私がバイクでコケるまでの話ですけどね。
一昨年のエライ冷え込んだ日の夜中、路面が凍結してるのに気づかんとスピード出しててスリップしましてね、右膝を粉砕してしもうたんですわ。
そんで踊るだけやなく歩けんようにもなってしもうて、……このザマですわ」
青年が乗った車椅子が前後に揺れる度に、キコキコという音がガランとした空間に溶け込んでいった。
「踊れなくなっても暫くは此処に来てツレ達の踊る姿を見に来たりしてたんですけどね。
自宅は此の近所ですけど、車椅子で夜中に外出するんは結構大変でした。
親にも怒られるし……だもんで私の生活は自宅と職場を行き来するだけの毎日になって、夜中に出かける事はなくなったんですわ。
楽しみって言えば、長風呂するくらいで。
そんな時に、『エルダー・テイル』と出会ったんですよね。
キャラを作る際に<サブ職>を<ダンサー>にしたんは、未練がましいかもしれませんけど自分の分身が踊るんは、<暗殺者>の踊るような戦闘シーンは観ていて楽しかったですわ」
青年の一人語りのBGMは、キコキコという音のみ。
「そら良かったなぁ」
「エエ、ホンマに」
レオ丸が相槌を打ち、青年が答え、一陣の風が音もなく足元を吹きぬけて行った。
「そんで『エルダー・テイル』の世界が現実となって、其の御蔭で再び踊れるようになって……毎日が楽しいてしゃあないですわ」
車椅子から立ち上がった青年は、エルフ特有の尖った耳を飾るイヤリングを軽く指で弾くや、美しい放物線を描きながら宙へと飛び上がる。
そして着地するなり、腰の左右に差した二本の剣を抜き放ち、クルリクルリと回りだした。
「私にとっての現実はどちらなんでしょう?
いつまでも踊り続けれる方が夢なんでしょうか、もう二度と踊れない方が夢なんでしょうか?」
「さて、どっちやろうなぁ……」
「どうせなら、踊り続けられる方が現実であって欲しいですわ」
clink clink clink clink clink clink clink………………。
作務衣姿にショルダーバッグを斜め掛けしたレオ丸は、人影が皆無の日本橋に立っていた。
アニメ関連の書籍や、音源並びに映像ソフト、無数のグッズを取り扱う全国規模のチェーン店が一階と二階を占めるビルの傍で。
「ウチな、学生時分から此処らへんをウロウロするんが好きやねん。
休みん時は、社会人になってからもしょっちゅうブラブラしてるんよ」
レオ丸の隣に居た女性は、両手を後ろで組みながら呟く。
「中二になる前の春にな、あっちの表通りでコスプレイヤーがわんさか大集合のフェスタをしとったんを見た時は、ホンマ感動したんよ。
感動したからには、参加したなんが人間の本能やんか?
せやから翌年、私も友達とコスプレして参加したんやけどね……ほら、私って上背がないやん?
格好エエ服着たいなぁって思っても、ちんちくりんやからどないしょうもあらへんさかいに。
しゃあないから、いっつも可愛らしい恰好で参加しててんけど」
レオ丸より頭一つ分ほど背の低い女性は、街頭でビラを配るメイド喫茶の店員のような衣装の襟元を力なく引っ張り、自嘲する。
「ホンマはウチもドレッシーな綺麗な服、シュッとした格好エエ服が着たいねん……似合わへんから着ぃひんけど。
代わりにゲームで理想の顔とボディのキャラを作って、格好エエ衣装を着せる事にしてん。
アホが自分を偽って画面の中で何いちびってんねん、って思われるかもしれへんけどな……」
「其れが普通なんと違うか?
ワシかて……まぁワシの事はさておいて、他の奴らかて絶世の美女でもなきゃ、超絶美男子でも、ウルトラでスーパーな肉体自慢って訳でもなかろーし。
ゲームのアバターは自分であって自分でない、こうやったらエエなぁ? 素敵やなぁ? 面白いかなぁ? 楽しいなぁ? ……誰もがそんな感じでキャラ作成しとんのやし。
其れを“いちびり”やて言いだしたら、どないもならんがな」
「だから私はゲームが現実になった今を全身全霊の本気で、偽っているのざぁます」
レオ丸と同じ背の高さの女性は執事服の襟を正すや、背筋をピンと伸ばして踵を鳴らした。
clink clink clink clink clink clink clink………………。
作務衣姿にショルダーバッグを斜め掛けしたレオ丸は、人影が皆無の甲子園の駅前に立っていた。
大正十三年に開場して以来、幾多の高校球児達の夢の舞台となり、プロ野球チームの本拠地でもある球場が、高速道路の向こう側に見える場所に。
「自分、中学を卒業するまで野球部やったんですわ」
レオ丸の隣に立つ立派な体格の青年は、腰に手を当て眩しそうに目を細めた。
「と言うても、いつも県大会の三回戦止まりの強豪未満やったんですけどね、強くもないけど弱くもない中途半端なチームでしたわ、ホンマ。
二年生の夏ぐらいからレギュラーでしたけど、七番レフトは卒業するまで変わらんままでした。
パワーはある方でしたけどピカイチやないですし、足は早くもないけど遅くもない、器用やないけどブキッチョやない、どれもがそれなりでそこそこの選手でしたわ」
「……ワシが監督やったら、全てが平均値を満たしてる選手なんて有難い存在やけどなぁ」
「おおきにさんです。
中坊やったら売り物になる特長がなくても何とかなったんですけどね、高校になると標準木みたいな選手は目立たへんから、あきませんねん。
高校に進学する前に、自分で自分に見切りをつけましてん……三年間球拾いで終るんは嫌や! ってね。
せやから、高校では野球部に入りませんでした。
でも体を鍛えるんは好きやったから、近所にあった空手の道場に通う事にしたんですわ……空手もそこそこのレベルでしたけどね」
「運動オンチのワシからしたら、ソレでも充分やと思うけど。
まぁ出来ひんさかいに出来るモンを賞賛するしかない立場じゃ、出来るのに出来過ぎひんかったモンの苦悩は判らん、としか言いようがないなー」
レオ丸が足下を見ながら呟くと、格闘家らしい体格をした青年は力強く一歩を踏み出し、手刀を振り下ろす。
「ゲームのキャラみたいに無茶な事が出来る能力があったら、あそこのグラウンドでヒーローになれたんやけどな!
一度、何かに成り損なったって思うてしもうたら、何にも成れない半端者になってしまうんですわ、ホンマに。
もし過去に戻れるんなら、中坊の自分の尻を蹴飛ばしてやりたいですわ……挫折するんやったらもっと真面目に挫折しろ! ……ってね」
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作務衣姿にショルダーバッグを斜め掛けしたレオ丸は、人影が皆無の万博記念公園に立っていた。
レオ丸が生まれる前からずっと立ち続けている、過去・現在・未来と三つの異なる顔を持つ奇妙なフォルムの塔の間近で。
「“太陽の塔”って何なんでしょうね?」
レオ丸の足下に座り込んだままの女性が、小首を傾げながら呟いた。
「私、生まれも育ちも千里なんで、子供の頃から此の辺が遊び場やったんです。
処で、“7.11水害”って知ってはります?」
「……スマン、全然知らんわ」
「関西の人間は記憶にないでしょうね。
阪神淡路の大震災の年の夏に、北陸と長野で起こった集中豪雨ですねん。
あの年は、年明け早々に大震災があって、春には東京でテロ事件があったりしましたやろ、せやから日本のほとんどの人が記憶してへん災害ですねん。
ウチのお父ちゃん、あの水害で仕事を失くしてしもうたんで、富山から大阪に出て来たんですわ。
ほんで、お母ちゃんと出逢って結婚して、翌年に私が生まれたんですけどね」
女性は膝を抱えたまま、平坦な声で訥々と語り続ける。
「“禍福は糾える縄の如し”って学校で習いましたけど、ホンマそんな感じですわ。
水害がなかったらお父ちゃんとお母ちゃんは出逢ってへんかった、詰まりウチは生まれてへんかったって事ですやん。
大阪に住んでたら、毎年一月十七日が来る度に鎮魂、追悼のニュースが流れますやん。
私が生まれる前の事やから正直、ピンときませんけど。
せやけどクラスメートには被災者の子供や、被害にあった人の関係者が居たりしますやんか。
彼ら彼女らにとって、例え自分が生まれる前の災害でも遠い話やのうて、身近な話題なんですねん。
……私にとっては同じ数字の並びでも、“1.17”よりか“7.11”の方がよっぽど身近ですねん。
被害規模や被死傷者の数は比べモンにならへんかもしれませんが、被害にあったモンからしたら、そんなん関係おまへんやん?」
「せやなぁ、当事者からしたら一緒やわ……なぁ」
「……太陽の塔は此処にぼっさーっと突っ立って、私らの過去を見たり、現在を見たりしてますやん?
そしたら、あの金ピカの顔でどんな未来を見てはるんやろうかなぁ……。
どない思わはります?」
「さぁーてなー」
「少なくとも、今みたいな未来は見てへんと思いますけどね」
女性はピョコンと立ち上がり、中華っぽいデザインのメイド服のスカートの裾を払った。
「私の未来は私が決めるアルし、誰よりも先に私が見るアルよ!」
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作務衣姿にショルダーバッグを斜め掛けしたレオ丸は、人影が皆無の千本北大路に立っていた。
東に少し進めば大徳寺、西にちょっと進めば金閣寺、南にズーッと下れば二条城がある大きな交差点に。
「僕はここから見る京の街がいっちゃん好きなんですよ」
レオ丸の隣に立つ青年は、一心不乱にスケッチをしながら明るく語り出した。
「此の辺は今は京都市内でまぁまぁエエ住宅地になってますけど、昔は洛外の辺鄙で寂れた場所やったんですよね。
清滝にある化野、東山の鳥辺野と並ぶ葬送の地が此処、蓮台野。
古地図を見るとホンマ、色々な面白い事が判ります。
此処は海やった、山やった、川底やった、人が住んでへんかった、そんな場所が何かを切欠にして人が住む場所に変化していく。
其の切欠は、地図を見ただけじゃ判らん場合もありますし、地図を見ただけで一発で判る場合もあります。
僕が借りてるアパートは、此処よりもちょい北にある鷹ヶ峯でして近所には光悦寺さんがあって、秀吉が造った御土居の跡なんかもあります。
昔って言うても、此処が洛中やなかった平安時代と、此処が洛中に含まれた戦国時代後期には、数百年の隔たりがあります。
其の数百年の間に何があったんか? って考えたら答えの一つは、人口の増加やろうなぁって思いますけど。
人口が少なかった平安時代の洛中はコンパクトでも良かった、せやけど室町時代からは人口がドンドン増えて、増えた人口の住処を用意せなならんから洛中は拡大したんやろう、と。
僕らが居る此の場所って、人の骨だけやのうて時代の節目も埋まってますねん。
そう考えたらワクワクしませんか?」
「ビミョーに共感出来る……ような?」
「いや、ソコはウソでも“共感した”って言うて下さいよ。
道の一本、辻の一つ、街角に紛れた小さい石碑も全て、歴史の生き証人……無機物を生き証人って言うんは可笑しいんかもしれませんけど。
せやけどまぁ、其れらを余す事なく書き記した地図ってのは、僕らの生きる指針にもなるんやないかと思いますねん。
せやし、僕は迷う事なく人生を謳歌出来てますねん」
青年は描き上げたばかりのスケッチをレオ丸に見せながら、得意気に猫人族特有の髯を捻って笑う。
「ノーマップ・ノーライフ、ですわ♪」
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作務衣姿にショルダーバッグを斜め掛けしたレオ丸は、人影が皆無の三条大橋に立っていた。
欄干から下を見下ろせば鴨川が滔々と流れている筈なのだが、青いガラス板を嵌め込んだように止まっている。
「俺、此の風景が嫌いですねん」
レオ丸の隣に立った青年は、欄干に背中を預けながら空を仰いだ。
「生まれも育ちも東京なんですよ、俺。
六年前にこっちの大学に入ったんですけどね、わざわざ地元じゃなくてこっちの大学に入ったのは、京都が憧れの地だったからなんですよ。
祖母の本棚にあった司馬遼太郎の本で触れて、浅田次郎の本でのめり込んだ幕末の京都。
受験の際には時間がなかったんで、合格して入学が決まって直ぐに幕末の痕跡を訊ね周りましたよ、寸刻を惜しんで……。
嬉しかったし面白かったし夢が叶った……とも思ったんですけどね、此処の風景だけは駄目でした、受け入れられませんでした」
如何にもうんざりした、といった風情である。
「チャラチャラした店が立ち並んで、情緒も何もあったもんじゃない。
最悪ですよ」
「せやけど其れは、しゃあないんと違うか?
歴史を守るか、生活を守るかの二択になったら、住人の大半は生活を守る方を選ぶやろうさ……認めたない現実やけどな。
衣食足りて、って古人がゆーてはるけど。
歴史も伝統も芸術も、ぜーんぶ纏めて“文化”ってのは、維持する側が経済的に疲弊しとって、精神的に貧窮してたらアカンようになるねん。
明治の初頭に設置された舎密局が第三高等中学校になり、京都に移転して帝大になり、今の京大になったんが最も判り易い事例やけど。
上方文化の発信元やったのに、明治以降は文化をドンドン切り捨てる屁みたいな街やで、大阪ってトコは。
幕末に人材を多数輩出した適塾なんて大阪の誇りであるべき存在やのに、今じゃ箪笥の裏に積もった埃みたいな扱いやしな。
そんな大阪に比べりゃ、京都は何ぼかマシやで」
「……そんな、下には下があるから的なフォローをされても」
「せやな、堪忍堪忍」
欄干に寄りかかった二人は、違う方を向いたままで苦笑を洩らし、溜息を零した。
「嫌いなモノって、常に離れ難い場所にあるんですよねぇ」
そう言うなり青年は、欄干から身を離してクルリと半回転する。
其の手には、抜き放たれた刀が握られていた。
「斬り捨てられたら爽快だろうなぁ、バッサリと!」
clink clink clink clink clink clink clink………………。
作務衣姿にショルダーバッグを斜め掛けしたレオ丸は、人影が皆無の摩耶に立っていた。
傍らにある県立美術館の屋根から顔を覗かせた巨大なオブジェの、何とも愛嬌のある顔を見上げながら。
「神戸って面白い街ですやんねー」
レオ丸の背後に立つ女性は、喜色満面でクルクルと回り出した。
「西洋っぽいし、中華風だし、近代的だし、未来っぽいし。
生田神社の初詣に行かれた事あります?
出店で買い食いしようと思ってブラブラしたら、何とケバブの屋台があったんですよ!
ケバブですよ、ケバブ!
他所のお祭りじゃあり得ないでしょう、ケバブなんて!
もう嬉しいやら可笑しいやら♪」
「ほいで、美味しかったんか?」
「食べてないんで知りません、だって私はベジタリアンなんですもの!
其れに……大の甘党ですから♪」
「なーんやそれ」
「なはははははは♪」
クルクルと回り続ける女性は、一台たりとて車が走っていない道路へと身を躍らせる。
「大震災の傷跡は私の近所にも残っているけど、手塚治虫の『火の鳥』みたいに何度でも蘇る街!
無数の過去の上に新たな現在を積み重ねて未来を目指す♪
過去、其れは甘く、強く、尊く、気高く♪
現在、其れは悲しく、切なく、苦しく、儚く♪
未来があればこそ、生きる喜びを得る♪
世界が一つであればこそ、人は美しい♪」
華麗なステップを踏みながら一頻舞い踊った女性は、晴れ晴れとした顔でレオ丸の前に回り込み、恭しく一礼した。
そして斜に被った海賊帽の端を、人差し指でピンと弾く。
「大震災は人伝にしか知りませんが、“大災害”は当事者としていつまでも忘れられない事でしゅら。
起こったのは数ヶ月前でも、現在進行形で巻き込まれている紛れもない現実でしゅら。
辛いでしゅら、苦しいでしゅら、ワンワンと泣きたいでしゅら。
でもでも、時が解決してくれるだろうって思うでしゅら。
いつかはきっと、そんな事もあったねぇ、って思う日が来るだろうって確信してるでしゅら♪」
clink clink clink clink clink clink clink………………。
作務衣姿にショルダーバッグを斜め掛けしたレオ丸は、人影が皆無の猿沢池の辺に立っていた。
地面に嵌め込んだ大きな鏡にも見える真っ平らな水面に、かそとも揺れぬ柳の枝が映っている。
「いつ見ても代わり映えのしない土地ですよね、此処は」
レオ丸の横に立つ女性は、腕を組みながらそう言った。
「毎日余所から大勢の人がやって来て、仏像を観ては感激して、鹿に煎餅を与えては大喜びして、電車に乗って去って行く。
ホンマ、大勢の人がやって来ては去って行きはります。
住んでる私らは、やって来る人らを迎え入れて、去って行く人らを見送りますけど、其の度に感じるんですよ……取り残され感? というのを。
奈良って、昔から変わらないんですよ。
いえ、実際には色々と変わってるんですけど、……でも全体の印象としては全然変わってないんですよ。
大阪はどないです?」
「めっちゃ変わったなぁ……エエ方が二割で悪い方が八割くらいに」
「エエ方って何ですか?」
「梅田と天王寺が大幅にリニューアルした事かなぁ」
「悪い方は?」
「難波が地盤沈下した」
「え!?」
「え……ああ、地盤沈下ってのは実際に地盤が沈下したんやのーて、今まであった活気がなくなった状態を意味する言い回しやけどな。
後の悪い理由は、まぁ……言わぬが花、やなぁ」
「確かに、難波はエライ変わりましたねぇ、ホンマ。
せやけど、変化がある分だけマシやと思いますよ」
「悪ぅなってもか?」
「例え悪くなったんやとしても、変化が感じられたから“悪くなった”って言えるんですやろ?
代わり映えがしない、変化があまり感じられへんってのは、良くなってんのか悪くなってんのかすら判らへん、って事なんですよ」
狐尾族特有の尻尾を揺らしながら、女性は竦めた肩を其のまま窄める。
「調べ癖がついてしもうたんがいつからなんかは判りませんけど、今がどうなってんのかを知りたい欲求が我慢ならんくなってしもうたからやと思います。
どうなんやろう、どうなってんのやろう、って。
焦燥感ばっかりで、結局は望む答えは見つからへん事の方が多いんですけど……」
clink clink clink clink clink clink clink………………。
作務衣姿にショルダーバッグを斜め掛けしたレオ丸は、人影が皆無の街角に立っていた。
何処かで見た事があるような町並み、何処かで通った記憶がある路地裏、何処にでもありそうな場所に。
グルリと首を廻らせ、誰も居ないのを確認してから無言で歩き出しても、モノクロの画面かセピア色の写真で見たような風景に変化はなかった。
トボトボ、トボトボ。
目的があっての道行きや、歩く事が目的の散策ならばテクテクと表現出来るのやもしれない。
しかし当て所ない歩行では、道を踏み締める足の運びが軽やかになる筈がなかった。
行き先も決めず、レオ丸は何処かであるが何処でもある街中を、トボトボと歩き続ける。
一体どのくらい歩いたのか判らなくなった頃、唐突にレオ丸は其処に行き着いた。
別に終点でもなかったのだが、レオ丸には其処が目的地であると確信する。
何処の街中でも見受けられるような、小さな児童公園。
ブランコもなければ滑り台もなく、砂場も埋め立てられており、あるのはコンクリート製の動物のオブジェだけだった。
青く塗られたペンキが半ば剥げたイルカのオブジェに、女性が一人腰かけている。
色目の薄い風景の中で、墨をベタ塗りしたような黒い影を背負った、暗い印象の女性が。
レオ丸は、唇の端を僅かに引き攣らせながら、児童公園の中へと踏み込んだ。
幾ばくも歩く程でもなく、赤くペンキで塗られた痕跡が残るカタツムリのオブジェに到り、レオ丸は無言で跨ぐ。
俯いた侭で微動だにしない女性の方を見ず、レオ丸は懐から<彩雲の煙管>を取り出して咥えた。
五色の煙が風景に彩を添えるも、直ぐに薄れて消えて行く。
「……此処は、何処なんでしょう?」
ポツリ、と女性が不意に問うた。
「知らんがな」
フーッ、とレオ丸は五色の煙を溜息で吐き出す。
「知ってる事に知らん事はないけど、知らん事に知ってる事なんぞあらへんし。
少なくとも……此処が何処かをワシは知らん」
レオ丸の突き放したような物言いに、女性の肩がビクリと震えた。
「知ってるとしたら、自分の方と違うかなぁ?」
伏せられていた、狼牙族よりも一回り大きな狐尾族固有の耳がピンと立つも、直ぐに力を失う。
「……私は知ってるんでしょうか?」
レオ丸が首を動かし見上げた空は、仄かに明るいものの先が見通せない程に白く濁っていた。
「さぁーて、なぁ?」
さて次回からは、彼女との対話です。