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「とりあえず、お前が出来る手伝いとやらをしろ」
軍師の室に入ってまず言われたのがそれだった。
思わず目を瞬かせる。
目の前の軍師のための席につく矜牙軍師は一瞬目をそらしたが、すぐに真っ直ぐにこちらを見返し唇を片方だけつり上げた。
「どうした、出来んか?」
考えるに、恐らくこれは軍師からの課題と言うか試練と言うか……私が武術以外でも軍師補佐として相応しいか推し量るためのものなのだろう。
具体的な指示を出さないのがその証拠のように思う。
普通は上官から何かしらの指示を与えられて下官が動き、その過程で仕事を段々と覚えていくようになるものだが……そんな程度では生ぬるいと、恐らくそういう事だと思う。
確かに軍師という位階は軍内の序列第二位。
その仕事なのだから、使えない人間が補佐とは言え関わることは軍全体の損失に繋がる。
「いえ、微々たるものですが私に出来ることをやらせて頂きます」
「玲湶頑張れー」
「……柳栄、お前は黙れ」
「矜牙ってば酷いなー。まあ分かったよ。
邪魔になるといけないしね」
ギロリと睨まれた柳栄様は相変わらず笑いながら、広場へ行く前にも腰を下ろしていた席へと座る。
どうやらここで私の仕事を見ていくつもりの様だった。
……少しやりづらさはあるけれど、恐らく私を心配してのことでもあるのだろう。
ともかく気を引き締めなければ。
「では、始めさせて頂きます」
「好きにしろ。俺も仕事が溜まっているからな。
何でもいいが、邪魔だけはするなよ」
「はい」
私が頷いたことを確認して、矜牙軍師は机の脇にうず高く積まれた木簡に手を伸ばす。
それを一気に広げ、以後一切口を開くことなく視線と筆を走らせ始めた。
凄まじいまでの集中力だ。
読むスピードも速いし、筆に迷いがない。
読んでいる間に粗方の構想を終えているのだろう。
流石は歴代随一と名高い軍師だ。
―――そんな矜牙軍師に、私が出来る手伝いとは何か。
取りあえずのところは書類整理だろうか。
乱雑に詰まれた木簡をどこから来た物か、緊急を要する物なのか、そして何に対する物なのかに分けていく。
例えば同じスピードで作業していてもこうしてある程度分類してあれば同じことを何度も思い出さずに済み、そのままの思考の流れでいくつもの案件を処理できるものだと祠苑様は言っていた。
今回もまずはそれをすればいい。
幸い木簡の数も精々百程度だ。
祠苑様の元では更にすごい……祠苑様は修羅場と言っていたそれを経験しているから、あまり苦労する物でもなかった。
整理も終わったのだし、次をやる前に茶器を洗って新しい茶を出そうか。
なんだかんだと一時間以上は手合せを行っていた。
体を動かしていた柳栄様は勿論、ただ立って見ているという退屈な時間を過ごしていたであろう軍師も疲れているはず。
今は初夏だから、冷茶がよさそうだ。
この室には水道設備も完備されている。
いくつか戸があり、恐らく仮眠室などにつながっているのだろう。
正に至れり尽くせりだ。
「柳栄様、どうぞ」
「お、ありがとう玲湶」
矜牙軍師には敢えて声をかけたりはしなかった。
集中しているだろうし、声をかけて邪魔をすることは避けたい。
用意した茶は香りたかいものだから恐らく軍師もしばらくすれば気づくはず。
自分も一度口をつけて作業に戻る。
分類はしたし茶も出した。
なら次は処理済みの木簡の配達仕分けだ。
木簡を取った方とは反対側に置かれたものが処理済みのもの。
全て軍師の印と、必要なものには文章が添えてあるから間違いはない。
これをどの部署に運ぶのかを今から分ける。
まずは省。その中でも近く一度に運ぶことが出来そうなものをいくつかの塊に。
省の置かれている文殿は新人官吏の迷宮と言われるほど造りが複雑だ。
どうしてそんな配置にしたのかと頭を抱える程に入り組んでいる。
従って全てを持って各所を回るには効率が悪いし、近いところを中心に回り時折こちらに戻らなければ迷うのだ。
私などは何度か祠苑様に忘れ物を届けたり、五大家が参加を求められる式典などで足を運んだことがあるから迷うことはないけれど、新人は毎回苦労すると聞く。
後は武殿か紅殿かだろうか。
この二つは特に細かな分類は必要としていない。
どちらも木簡を届ける部署というものが殆ど限られているから。
武殿はあまりそういった書類を扱う場所が少ないためなので言うまでもないが、紅殿は王が宰相である祠苑様と共に詰める場所。
それ以外の機能は殆ど持たないため、木簡を届けるのも恐らく祠苑様に直接になるかその補佐となる陽峻に渡すことになるか、もしくは紅殿に僅かながらいる文官に言付けるかのどれかになる。
なので一括りにしてしまえば簡単に届けることが出来るのだ。
丁度矜牙軍師が茶に気づいたようで、少し驚いた様な顔をしつつそれを手に取る。
どうやら飲んでくれるようだ。
「矜牙軍師、こちらは各所に届けても構いませんか?」
「……あぁ、構わん」
「では少しの間席を外します」
取りあえず文殿から行ってしまおう。必要なものもある。
目的の箇所の付近にある部署に届ける予定のものを抱え、礼をして室を出る。
―――軍師は作業が早い。処理済みの木簡は溜まっていく一方だし、少し細工をしたとは言えあまり遅いと間に合わないだろう。
武殿や文殿内を非常時でもないのに走ることは褒められた行為ではないが、それ以外の場所では構わないはずだ。
武殿を出てすぐに足に力を込める。
天術は全く扱えないというのに、こうした体の強化は力を込めるだけで可能なのだから情けない。
……いいや、今はともかく急ごう。
私に出来る全速力で駆け、私は文殿へと急いだ。
「只今戻りました」
「……戻った、のか…」
扉を開き一言告げれば、正面の席へ座る矜牙軍師が顔を上げこちらを見つめる。
未処理の木簡はかなり減ってしまっているが――どうやら一応間に合ったらしい。
「申し訳ありません、遅かったでしょうか?」
「……別に、普通だろう。速くも遅くもないな」
「矜牙ってほんと、素直じゃない…」
私から目をそらしてそう告げる軍師に、少なくとも鈍臭いとは思われていないようで安心する。
だが来客用か、もしくは話し合いのための席に変わらず座っている柳栄様はそう嘆息した。
「五月蠅いぞ柳栄!
……ところで、その手に持っているものは何だ」
そうだ、危うく言い忘れてしまうところだった。
「差し出がましいとは思いましたが、書類整理の際にこれが必要になりそうな木簡を発見したので文殿から貸出手続きを受けて参りました。
そちらにある右下の木簡に書かれている地方についての資料です。
私が勝手に動いたものですので、使わないようであればそのまま置いておいて下さい。後でまた戻しておきます」
「右下……これか?」
軍師が手に取り目を通していく。
次第にその表情が難しいものになっていった。
……余計なお世話だっただろうか。
「……おい、それを少し貸せ」
「はい」
だがどうやら少しは必要としてくれるらしい。
よかった。これを探すために十分程かかってしまったから、これで一度も目を通されなければ私はその十分を無駄にしてしまったことになる。
けれどこうして少しでも使われるのならそうではないと言うことだ。
茶も飲み干されたようだし、口に合わないものではなかったらしい。
この茶器は片付けてしまっていいだろう。
「柳栄将軍も、こちらは片付けてしまってよろしいでしょうか?」
「うん?あ、ありがとう。
でも出来ればもう一杯飲みたいな。
玲湶の淹れてくれるお茶はとっても美味しいからね」
「光栄です」
「……おい、何を暢気にくつろいでいる」
光栄なのだが、確かに暢気と言われればそうかもしれない。
けれど柳栄様は将軍だ。
もてなさない訳にはいかないし、どうすればいいだろうか。
だが冷たい目線を向けられてもやはり柳栄様は相変わらずだった。
「意地っ張り。矜牙もおかわり欲しいんでしょ?」
……正直この話の流れでそんなことを言える柳栄様を本気で尊敬する。
私には喧嘩を売っているとしか思えないのだが、柳栄様が言うとどうにもそんな気が薄れてくるから不思議だ。
「なっ……」
「欲しいなら言えばいいのに。
流石に言わないと玲湶も分からないと思うよ?」
「誰もそんな事を言った覚えは無い」
「えー、玲湶のお茶すぐ飲み干したくせに」
「喉が渇いていたと言っただろうが。
誰のせいであんな長時間外に立ちっぱなしでいたと思っている」
「……あの、矜牙軍師」
会話の内容が私の茶というのがどうにも忍びなく、合間に口を挟めばその真紅の瞳がこちらを向いた。
「……何だ」
「もう一度お注ぎ致しましょうか?
残して頂いて構いませんので」
「……好きにしろ」
……飲んでくれる、のだろうか。
横で笑いを堪え震えている(流石に失礼だと思う。軍師は私に気を遣ってくれただけだろうし)柳栄様の茶器も回収し、再び茶の準備をする。
その間やはり柳栄様は笑いを漏らし、矜牙軍師は不貞腐れたように資料をただ見つめていた。
日も暮れかかった室内で、柳栄様はにっこりと満面の笑みを浮かべた。
未処理だった木簡は全て目を通し印を押した状態で各所に提出してある。
同時に新しく受け取ったものも全て処理済みだ。
「それで玲湶に手伝わせてみたわけだけど、どうかな矜牙?
玲湶は使えない名ばかりの榜眼及第かい?」
「……」
「いつもはあれくらいの書簡、夜までかかるよね?」
「……」
「途中で武官呼び止めて必要な資料をとってこさせて、でも結局自分で取りに行ってるよね?
今日君、その席から立ち上がったっけ?
と言うか玲湶に何かこれといった指示出したっけ?」
「……確かに、まあ、他よりマシと言えなくもない」
まるで追い詰めるような言葉に、軍師は不承不承頷いた。
その言葉に知らず詰めていた息を吐き出す。
よかった、どうやら使えない部下という烙印を押されることだけは無いようだ。
「だが、俺は認めたわけではない。
当面の間補佐官見習いとして傍につくことは認めよう。
それだけだ。補佐官として認めたわけではない。
ただ軍に所属する武官として一応、認めただけだ」
「矜牙、君ね……」
顔を背けた軍師に、柳栄様は頭が痛いとでも言うように額をおさえた。
どうしたのだろうか。
「何だ、文句でもあるのか柳栄」
「……別に。君がどれだけ意地っ張りか、実感してただけ。
そう言えば俺と初めて会った時もそんな感じだったよね。忘れてた」
「どういう意味だ。
……まあいい。お前は、何かないのか」
そう矜牙軍師が何とも言い難い表情で私からやや目をそらしながら口を開く。
軍師は私を見る時や話す時、こんな表情か困惑した顔か、もしくは驚いた様なそれを浮かべる。
私はそんなに可笑しなことをしているのかと少し不安になる程に。
けれどこうして問いかけてくれるということは私を少しでもその意識の中に置いてくれているということの証明でもあり、言葉の通り少しは認めてくれていることを示している。
それが嬉しくて、どうしても顔がゆるんでしまった。
「――はい。矜牙軍師に仕えること、光栄に思います」
「そういうことではないと、……」
ギロリとこちらを睨んだ軍師は今日見てきたどんな驚きより強い驚愕を示した。
眇められた紅の瞳は見開かれ、叱責の言葉は勢いを無くした。
どうしたのだろうか。
思わず首を傾げれば彼の視線はうろうろと辺りを彷徨い、もはやお馴染みとなった柳栄様が盛大に噴き出す音がした。
「あ、はははっ……も、駄目だ、限界っ!
面白すぎる…くはっ、あははっ、は、腹痛……っ」
「りゅ、柳栄将軍?」
「………」
あぁ、これは、この状況は既に何度か経験している。
それに何と言うか……今回のものは今日一番怒気が強いと言うか……何となく、天威も軍師の体から漏れ出しているような…
怒りを宿した瞳が未だ笑い続ける柳栄様を射抜き、そのまま形のいい唇が言葉を紡ぐ。
「【出ていけ、この大馬鹿者が!】」
瞬間、突風が吹き――笑い過ぎていたせいで上手くかわすことが出来なかった柳栄様はそのまま窓の外に吹き飛ばされた。
……ちなみにここは三階だが、柳栄様なので恐らく問題はないだろう。
立ち上がり肩で息をする軍師。
果たして私はこの後どうすればいいのだろうか。
退出する機会をものの見事に失ってしまった。
軍師は窓を見ていてこちらに背を向けている。
私の存在を忘れている気がしなくもなかった。
「あの、矜牙軍師」
「……!」
声をかければ思い出したように軍師が振り返る。
やはり忘れられていたらしい。
ともかくこのままここにいても軍師も迷惑だろうと、退出する旨を伝えようとしたのだが――室の外に気配を感じ、それは思い留まった。
一応見習いとしても補佐なのだ。
来客ならばお茶汲み程度はすべきだろう。
「矜牙、入るぞ」
そう思って扉の前から退き待機していたのだが、聞きなれた声と見慣れた姿に今度は私が驚きを露にすることになった。
そしてそれは軍師も同様らしい。
「あにっ……犀牙太子、どうされたのですか?」
「お前に補佐がついたと聞いた。
顔を見ぬわけにはいかぬまい。――久しいな、玲湶」
そう目の前に立つ彼――犀牙様は笑んだが、正直それどころではない。
今軍師は何と言った?太子?彼が?
太子というのは王の息子で、次期国王となる者に与えられる称号だった気がするのだが。
「玲湶?聞こえているのか?」
「……っ!はい、申し訳ありません。
お久しぶりです、犀牙さ……太子」
「……あぁ、身分を隠していたのだったか。
改めて名乗ろう。紅犀牙だ」
紅姓――間違いなく、王族のみが名乗ることを許されるそれ。
確かこの人はたまにふらりと朱邸へ現れ、渋面の祠苑様とともに食事を何度もとった。
一緒に買い物に行ったりもしたような。
それに高いところのものがとれない時台を探すのが面倒であれもこれもと近くにいた犀牙様に頼んだような…
そんな目の前の彼は正真正銘の王族ということで、今までの自分の所業を思い出すと気が遠くなってくる。
「太子…?この者を知っているのですか?」
「む?あぁ、玲湶は祠苑の妹だからな。
私はよく忍びで柳栄と共に朱家を訪れる。
その関係で親しくなっていったのだ。
玲湶の茶と料理はとても美味いぞ?」
「さ、犀牙様…ではなく、太子!
…あ、いえ、何でもありません!!」
まさかの物言いに慌てたが、身分が上の二人の会話を邪魔するなど何をしているのか。
完璧に話を止めてしまった。自己嫌悪だ。
こんなに簡単に落ち着きを無くすなど、修行が足りていない。
「ふっ、構わぬ。今の私は太子と言うよりただの犀牙としてここに来ているのだ。
祠苑にお前が矜牙の補佐の任に就いたと聞いて、少し顔を見に来ただけのこと。
ついでに今日は朱家に行こうと思っているのだが、どうか?」
ついで………
今までは犀牙様が家に来ても、何とも思いはしなかった。
毎回いい食材や酒を持参してくださるし、話すことはどれも興味深い内容ばかりで。
だが彼が太子なのだと知ると、どうにも抵抗があると言うか……いいのだろうかと、遠慮してしまう自分がいる。
「……太子、何を考えているのです。
いくら五大家の一つとは言え供もつけずに…」
「供ならいるだろう?ここに」
……肩に手を置かれたということは、そういう事なのだろうか。
ちょっとやめて欲しいのだが。
「あ、の……太子」
「何だ?」
「………いえ、何でもありません」
悠々と見下ろされては私に意見が言えるはずもない。
王の気質と言うか、従わなければならないような気がしてくるから不思議だ。
「おいこら、何を流されているんだ」
「えっ、あ、申し訳ありません!」
それもそうだった。
「そう言うものではないぞ矜牙。
悪いな玲湶、このような男で」
「は…いいえ、その様なことは」
……い、居づらい。
板挟み状態と言うか、どちらかに同意すればどちらかの意見を否定することになってしまうから厄介だった。
それにこの二人は何だか似ている。
金の髪と言い赤の瞳と言い、色合いが同じだからそう感じるのだろうか。
だが雰囲気としては軍師は凛とした真っ直ぐな強さを持っているのに対し、犀牙様からは柳のようにしなり折れることのないやわらかな強さを感じる。
困惑が伝わったのか矜牙軍師は鼻を鳴らし顔を背け、犀牙様は苦笑する。
……修行不足だ。
「玲湶、茶を淹れてくれるか。君山銀針を所望する」
「その発言、ここに居座るつもりですか…」
「仕方がなかろう?
お前がどうにも構って欲しそうにしているからな。
玲湶、矜牙にも淹れてやってくれ。そしてお前の分も」
どうしたものか……今ほど祠苑様がこの場にいてくれればと思ったことはない。
祠苑様ならばこの場も上手く切り抜けるのだろうが、私にはまだ無理だ。
「……わかりました。茶を」
「はい」
だからこそ矜牙軍師の言葉には救われた。
素早く茶の準備をする。
確か昼に準備をした時君山銀針を見かけたから、要望通りのものを準備できるだろう。
日も暮れだして冷えてきたから、少し熱めにした方がいいかもしれない。
――こうして茶の準備をしていると気持ちが落ち着いてくるから不思議だ。
祠苑様も考え事をするときは茶を自ら淹れて飲まれるし、それと同じなのかもしれない。
「どうぞ。君山銀針です」
「助かる。玲湶、お前も座るといい」
「それは……いえ、はい。同席させて頂きます」
断りかけて軍師がこちらを見ているのに気付いた。
同じことを二度言わせる気かという目だった。
あれを見てしまっては断るなど出来るはずがない。
しぶしぶ席につけば、犀牙様はくすりと笑みをこぼした。
「なかなかどうして、上手くやっているようではないか」
「どこがですか。俺は補佐官を認めていません」
「いえ、まだまだ私は未熟者ですので」
「仲が良い証拠のような状況だが?」
またも被ってしまった言葉に申し訳なさで呻きたい気分だ。
茶を一口含んだ犀牙様は意味深に軍師を見つめ、瞳を細める。
「武官としては一先ず認めたのだろう?柳栄から聞いた」
「あいつはまだ懲りないのか……!」
「そう不機嫌になるな。玲湶が哀れだぞ。
板挟みのようになるのだからな」
それが分かっているのならこの状況はどうなのだ。
……などと言えるはずも無かった。
「ならば今すぐ紅殿へ戻ればどうですか。
太子を皆血眼で探しているのでは?」
と思っていたら矜牙軍師がまるで代弁するようにそう告げてくれる。
犀牙様にはちっとも堪えた様子が無かったが。
それが分かっているのだろう、軍師も深いため息を吐く。
「それは出来んな。私は玲湶の茶を飲みに来たのだから」
「では飲んだことですし、さっさとお戻り下さい」
「冷たいな矜牙。玲湶はどうか?私がここにいては迷惑か?」
……あまり、話をこちらにふらないで頂きたいのだが。
「それはその…ですが矜牙軍師にもこの後何か用事があるのではないでしょうか。
ならばあまり私などが長居をしますとご迷惑になるかと…」
「なるほど。相変わらず相手に気を遣い過ぎると言うか、自分を低く見過ぎていると言うか。
武挙は主席、科挙は次席及第、軍で軍師付き補佐官に任命され、自身は五大家筆頭朱家の長姫だ。
いい加減自信を持ったらよいのではないかと思うが」
「いえ、気を遣っているわけではありません。
矜牙軍師は素晴らしい方ですし、私はそのように高く評価されるような者ではありませんので」
私なりにどうにか犀牙様の意見に対して反論したのだが、彼は納得するどころか苦笑しため息を吐いた。
「それが低く見ているという事だがな。
だがまあそれより――矜牙の事が気になるな。
先程もちらりと言っていたが、矜牙はお前から見てどうか?」
「あ―――太、子!!何を言い出すのですか!!」
悪戯っぽく瞳を輝かせる犀牙様に矜牙軍師が立ちあがる。
随分と慌てた様子だが、私としては自分の話をさせられるよりもよっぽどいい。
申し訳なく思いはするが、求められて語らない訳にはいかないからということを言い訳にさせてもらおう。
「矜牙のことは気にせずともよいぞ。どうだ、玲湶?」
「そう、ですね……軍師は素晴らしい方だと思います。
物事を様々な角度から見る能力や先を読む力、情報をすぐに把握しそれをもとに考えを構築する力は素晴らしいく、それに何より私などでは及ばない天術は正に圧巻で!
私は自らの体で戦うしか能のない者ですが、軍師は全く違う面をお持ちです。
今日書類仕事の手伝いをさせて頂きましたが微々たる助力しか出来ずにこれから自宅で祠苑様に師事をあおぎ精進したいと思っております。
きちんと補佐の任を認められるようになってからは内容の処理でも微力ながら力になりたいですし、護衛面としてもまだまだ力が足りないところがありますのでそちらも将軍との手合せや他の武官の方々と手合せしていく上で鍛えていきたいと思っておりますし、ですのでゆくゆくは軍師の指示によってきちんと駒として、兵として動けるような自分になっていくことを目標としています」
「……ふむ、玲湶がここまで熱くなるなど、柳栄に初めて出会い手合せで負けた時と祠苑のこと以外に久しぶりに見たな。
で?こう言われているが当人としてはどうか、矜牙?」
……どうにも、熱くなってしまったようだ。
犀牙様に言われて気が付く。
私は猪突猛進なところがあって、一度熱が入ると周囲が目に入らなくなる。
犀牙様は最早ニヤニヤと笑いながら私と軍師を交互に見つめ、完全に楽しんでいる。
そして矜牙軍師は―――何故か、真っ赤になっていた。
「なっ……ど…ば……!」
「何を言っているのかさっぱり分からぬな」
「申し訳ありません、お気に障られましたか?」
犀牙様は楽しそうにしているが、不快な思いをさせてしまったのならば謝らなければ。
だが矜牙軍師は口を開いては閉じ、開いては閉じ……結局何も言われないまま口を堅く閉ざしてしまう。
「あの、矜牙軍師…?」
「照れている様だぞ」
「違います。間違いです。その目は節穴ですか」
「どうだ玲湶、間違いなかろう?」
「……」
残念ながらあまり照れているようには見えなかった。
どちらかと言えば怒っている様に見える。
「いい加減、帰っていただいても?」
「何を言う、私はこれから朱家へ行かねばならぬ」
「おい、この太子を叩きだせ」
……それは流石に、不敬になってしまうのではないだろうか。
矜牙軍師にこれ以上精神的疲労をかけることのないよう私としてもその命に従いたいのは山々なのだが、どうにも犀牙様が太子だと思うと躊躇してしまう。
今まで朱家に来ていた折のように、位の高い貴族という触れ込みならばそうでもないのだが。
けれど神はどうやらこちらに味方してくれたらしい。
慣れ親しんだ気配がこちらに近づいてくるのを感じたからだ。
ならば犀牙様がそれに気づきここから立ち去ることがないようにここで留めておかねば。
そのためならばある程度の無礼は許されると、以前言われている。
「少々お待ちください、矜牙軍師。太子、申し訳ありません」
「玲湶?」
謝罪は大切だ。いくら許可が下りているからと言って、謝罪をするのとしないのとでは今後の関係に大きな差が生じるのだから。
立ち上がり頭を下げて犀牙様の横に立ち、首のある一点を指で突く。
動きを封じるツボだ。祠苑様に教えていただいたことはこういう所でも役立つ知識である。
「……っ!」
「……?何をしたんだ?」
「ツボを押し一時的に動きを封じさせていただきました。
もうすぐ祠苑宰相がいらっしゃいますので、恐らく太子をお連れになっていかれるかと」
「……」
「矜牙、玲湶に何とか言ってくれんか?
祠苑の言葉となるとこうして何が何でも優先させるのだ」
「自業自得でしょう」
犀牙様に応える軍師の声はどこまでも冷たかった。
ちょうど戸が開かれ、そこから祠苑様が現れる。
祠苑様は険しくしていた表情をゆるませ私に微笑んでくれた。
「――あぁ玲湶、世話をかけたな。
この馬鹿太子にお前の話をしたらすぐにこうなってしまった」
「酷いな祠苑。私は玲湶の及第を祝いたかっただけぞ?
お前が当日私に有り得ない量の仕事を任せるから朱家を訪れることが出来なかった。
柳栄は科挙の及第者発表の日にきちんと祝っていたというのに、悔しいではないか」
「普段仕事をしないからそうなる。
今日も我が家への来訪は許さん。
玲湶は初仕事で疲れているのだし、お前も仕事が溜まっているだろう」
祠苑様は変わらず笑顔だというのにその言葉にはとんでもない毒と棘を含んでいた。
けれど一切悪意を感じないのだから不思議だ。
そしてあまり祠苑様と関わりがないらしい矜牙軍師は始終戸惑ったように現状を見つめていた。
少しその気持ちは分かる。
「では玲湶、私はこの太子のせいで少し遅くなるから、先に帰ってゆっくりしなさい」
「離してくれんか祠苑」
「五月蠅い。さっさと働けこの馬鹿太子が。
矜牙殿も、迷惑をかけて申し訳ない」
「い、いや……」
嵐の過ぎ去った後のように疲れた心地で祠苑様と、祠苑様に襟首をつかまれ引き摺られていく犀牙様を見送る。
ちらりと隣に立つ矜牙軍師を見つめた。
視線に気づき彼もこちらを見つめ、息をついて体を反転させると机に向かう。
「お前ももう退出していい。
随分遅くなってしまった。……太子がすまなかったな」
「いえ、そのような事は。
こちらも祠苑様が申し訳ありません。
では矜牙軍師、これで失礼させて頂きます。
また明日、よろしくお願いいたします」
「……あぁ」
変わらずにこちらを見ないままでの言葉だったけれど、それでも返事を、了承を返してくれたことが嬉しく感じた。
今日一日で色々あったけれど、やはり私は軍師補佐となってとても幸運なのかもしれない。
閑話:ある宰相と太子の会話
「どうだった、我が軍師は」
「ふん、最悪だ。玲湶をこき使った話は聞いている」
「それは矜牙の対応などを含めてのことか?」
「当たり前だろう。これで玲湶が認めていなければ朱家の暗部に暗殺させていたところだ」
「それは怖い。玲湶が素直で健気な子で助かったと言うべきだろう」
「よく言う」
「ところでいつになったらこの体を戻してくれるのだ?まだ動きを封じられたままなのだが」
「紅殿に着くまでに決まっているだろう」
「酷いな、我が友人は」
「誰が友人だ」
「紛れもなくお前だとも。明日こそ朱家に行ってもよいだろう?」
「明日は玲湶が初めて他の新人武官と会う日だ。忙しい」
「どこが忙しいのか全く分からぬ」
「来るなら明後日にしろ」
「明後日か。よし、わかった。土産は何がよいか?」
「鴨だな。玲湶がこの間美味いと言っていた。気に入ったのだろう」
「わかった、いつものように城の調理場から無断でとってくるとしよう」
「玲湶にはそれを知られるなよ。責任を感じてしまうのだから」
「普通はそういう内容の前に止めるものだと思うがな…」