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光の速さで朱家の邸宅へと辿り着いた私達は、ひとまず式典用の畏まった服装を解いた(陽峻の場合は着替えがないので無駄な装飾をとっただけだが)。
祠苑様はまだ準備が整わないようで、それを待ちつつ二人で卓についている。
彼の場合は高位の官吏だけあって式典用の装飾もかなりのものだから手間がかかるのだ。
「えっと、陽峻、大丈夫?」
朝から祠苑様が注文したらしい料理の数々が机に並んで美味しそうな匂いを漂わせているのだが――それを前にした陽峻の表情は芳しくなかった。
端的に言えばかなり疲れた表情をしている。
「大丈夫じゃないです。
俺にも心の準備が必要な時があるんですよ?」
まあ確かに。
「宰相と私の義兄が結びついていないとは思わなかったんだ。
祠苑様の名前は何度か口にしたはずだし、朱家当主が宰相と言うのは結構有名な話だと聞いていたから」
「貴族の話には疎いんです。
俺は平民ですし、五大家の姓を知ってるくらいですよ。
言っておきますけどこれ、俺が特別なんじゃなくて平民は皆そうですからね?」
それは知らなかった。
世間知らずを少しくらいからかおうと思っていたのに、そう言われては何も言えない。
「でも玲湶さんが最初から近くにいなかったのはそういうことですか」
「陽峻は状元及第だと知っていたから、隣にいたら目立つと思って」
女の及第者は殆どいない。
私以外に片手で数える程だろうか。
そんな目立つ女性及第者の一人が榜眼及第。
出来ればあまり目立って榜眼及第者なのではと疑われる(事実だが)のは避けたかった。
「でも大丈夫なんですか?処罰とか」
「そこは祠苑様が何とかしてくれると言ってくれたから。
それに祠苑様を通じて陛下に謝罪の文を送ってある」
「流石五大家。国主に文なんて、大胆ですね」
「そう、かな?」
あまりそんな感覚はなかったけれど、これは毒されているのだろうか。
祠苑様にそれだけで問題ないのかを聞いたとき、駄目なようなら事実を握り潰すと言っているのを止めるべきか悩んだけれど、しっかり止めておけばよかった。
「玲湶さんが処罰を受けないで済むのは良い事ですから、俺としてはよかったですけど。
科挙であんなことをして、これからに支障があったら大変ですから」
「……ありがとう」
大きく二つに分類される城仕え。
一つは文官、もう一つは【武官】だ。
最後まで悩んだけれど、それでも私は武官を選んだ。
武官は【将軍】が最高位に立つ【軍】を構成する者達だ。
武官になるためには文官で言うところの科挙である【武挙】に及第する必要がある。
文官と異なるのは進士の期間がないことだろうか。
武挙は筆記の試験以外に兵法、武術、天術の実技試験が行われるため、ある程度及第者の実力が分かっていることになる。
だからすぐに配属先が決められるのだ。
ちなみに武挙は科挙よりも早く実施されるので私はもう受けた後だし、きちんと及第もしている。
実際に武官として出仕するのももうすぐだ。
未だ配属先は知らされていないが。
「でもそれも心配ない。軍の将軍は…」
「やあ玲湶、榜眼及第おめでとう!お祝いに来たよ!!」
……やはりいらっしゃった様だ。
門扉の方向から聞こえる明るい声に立ち上がりかけたところで、やはり予想していたらしい祠苑様が戸の隙間から顔だけ覗かせてそこにいるようにと目配せされた。
実際ありがたい。まだ陽峻に事前の説明を出来ていないから。
出来れば文句を言われるのは先程のもので終わりにしたい。
「……玲湶さん、先程の声は?」
そして陽峻は何となく引きつった顔をしていた。
彼は案外勘がいい。
「よく家にいらっしゃって食事を共にする方なんだ。
陽峻も今日顔を見たと思う」
何しろ祠苑様とは反対方向、国王の左隣に立っていた人だし。
「現紅国将軍の、李柳栄様だよ」
李柳栄様。
将軍位にあり、姓で分かる通り五大家である李家現当主だ。
その武術の腕は歴代でも並ぶ者がいない程と謳われており、私もよく稽古をつけてもらうが全く敵わない。
そしてそんな彼はよく朱家を訪れる。
将軍は宰相と並び国と国主を支える柱であり、朝議や国主との私的な話し合いなどで何かと一緒になることが多い。
その繋がりで祠苑様とは親しくなったらしく、私もよくしていただいている。
武官にならないかと誘ってくれたのも柳栄様だ。
そしてその当人は祠苑様の出迎えを受けてにこにこと陽峻の隣に座り、食事に手をつけていた。
陽峻の顔は――あり得ないほどの笑顔で固まっている。
続けざまに高官と会うことになって、彼の中の許容量を越えてしまったのだろう。
けれど宰相と将軍、この二人と知り合いになれる機会はそうそうない(私が言えることではないかもしれないが)。
きっとこの出会いが後々の陽峻の役に立つ筈だ。
……それに、共通の親しい人がいると私も嬉しい。
「陽峻君と玲湶は友達だったんだね。
王の隣で見てたよ、陽峻君のこと。期待の新人だーって」
「あの、陽峻で構いませんので!
それに期待の新人だなどと、勿体無いお言葉です」
ガチガチに固まった陽峻の言葉に柳栄様は破顔した。
「あはは、じゃあ、陽峻で。
君もそんなに固くならなくていいよ。
俺は将軍と言ってもただ武術しか取り柄のないだけの人間だし、五大家でも末席だし」
「いえ、その様なことは…」
「それに期待の新人っていうのは皆言ってる事。
祠苑と同じ全問正解で及第するなんて、今までそんな人はいなかったからね」
「そうなんです。陽峻はとても頭がいいんです」
「れ、玲湶さん…!」
祠苑様は最年少、つまり科挙を受けられるようになる17歳で状元及第した。
今の陽峻と同じ全問正解で。
そこからやはりまず宰相補佐となって七年の間当時の宰相の下で政を学び、史上最年少で五年前に宰相位に就いた。
陽峻は年こそ少し違うけれど、今のところ祠苑様と全く同じ道筋を辿っている。
そもそも受験がこの年になったのだって貴族ではない商家の出で、自由に好きなだけ勉学に励める時間が少なかったからだ。
五大家のような貴族は間違いなく官吏として働くために、それこそ幼い頃から高名な師を雇い科挙や武挙の及第に尽くすと言う。
その環境の違いを思えばこの程度の際はあってないのも同然。
そんな友人をもつことが出来て私としては鼻高々なのだが、本人は納得がいかなそうに声を上げる。
「玲湶さんだって全問正解出来たはずでしょう。
最後の問いだけ白紙で書かなければ同点で状元だった筈です」
「え?」
「え?………あ」
柳栄様が首を傾げたことに陽峻が戸惑い、次いですぐに思い当たったらしくぎこちない仕草で首を巡らす。
柳栄様から私へ。そして私から祠苑様へ。
「心配せずとも、そのことは玲湶から既に伝えられている。必要のない謝罪と共に。
それに私は一応宰相という身分で、及第者の解答にも目を通すようにしているから全て承知の上だ」
「そ、そうでしたか。……よかった」
あからさまにホッとした様子の陽峻に苦笑する。
そんなに気にすることでもないと思うのだが。
けれどそれは間違いなく私を気遣ってのことなのだから、嬉しくないと言えば嘘になる。
「うーん、俺にはいまいち状況が分からないんだけど…どういうこと?」
けれど皆が納得している中で、ただ一人柳栄様だけが不思議そうに首を傾げていた。
「お前はそうだろうな。
……玲湶が賢く、そしてその心根も素晴らしいということだけ分かっていればいい」
「し、祠苑様…!」
「………それは俺も分かるけど、ちょっと説明が少なすぎると思わないかな?」
恥ずかしい。とてつもなく恥ずかしい。
祠苑様のこういった発言に慣れている柳栄様も、そして今日が初めてのはずの陽峻も、そろって微妙な笑みを浮かべている。
祠苑様は少し、私に対して身贔屓が過ぎるのだ。
そして私と祠苑様の代わりに説明役をかってでてくれたのは陽峻だった。
「玲湶さんは本当は状元になれたんです。
試験後に二人で解答を合わせてみましたが、全て同じ答えでしたから。
俺が全問正解なら玲湶さんも同じということは間違いありません。
でも玲湶さんは最後だけ俺に変な風に気を遣って…」
でもそれは少し間違いだ。
「別に気を遣った訳ではないよ。
祠苑様や朱家の迷惑にならなければ、私は自分の意思で行動する」
私がしたいのは祠苑様と朱家への恩返しだから。
それが私の納得がいく程度まで達成できるのならばそれでいい。
私はその程度の気持ちでしか科挙に臨んでいないのだ。
「うーん、何となく分かってきたような…」
「陽峻が言った、最後の問いを白紙で出したのは本当です。
最終問題は官吏となって何を成し遂げたいのかを問うものだったのですが、柳栄様もご存じの通り私がなるのは武官ですから答えようがありません。
それにここにいる陽峻は、ただ自分のためだけに科挙を受け及第したい私と違い心から文官として国に尽くしたいと思っています。
それは他の落第した受験者も同じでしょう。
なので私が状元になるのは失礼だと思い、解答欄には何も書きませんでした」
「正確には大きなバツ印と、申し訳ありませんが文官になるつもりは毛頭御座いません、という文が書かれていたが」
「そんなこと書いたんですか!?」
「………」
祠苑様が答案を見ることを全く考えていなかったのは私のミスだ。
まさか陽峻や柳栄様の前で自分の答えを公開されることになるとは。
「あはは!玲湶らしいね。
そんな実直で融通が利かないところも俺は武官向きだと思うよ」
「柳栄様にそう言って頂けて光栄です」
よかった。これで柳栄様にまで叱られてしまったらどうしようかと思った。
実のところ陽峻には最終日に事が露見しており、数刻に渡って責められ叱られ諭され、本当に大変だったのだ。
その後は祠苑様に状元で及第できないことを詫び、他の朱家門下の家にも謝罪の文をしたためたりと……後処理に追われて我ながら死んだように眠った。
「文官になりたくないのは分かりましたけど、そこまで正直に答えなくても…」
「玲湶は素直だからな。
だが私も今回の事は流石に笑ってしまったよ。
国王陛下も大変楽しそうにしていらした。
今年は文官も武官も粒揃いだと」
「お恥ずかしい限りです…」
だが国主にまで見られるなど、一体誰が予想するだろうか。
五大家の者として国王の元には年に数度出向くこともあるが、これから先その様に見られると思うと新年の挨拶などの行事も憂鬱だ。
「いや、でも本当に今年は豊作だよ。
文官は陽峻、武官は玲湶。
どっちも将来を嘱望される期待の新人官吏だからね」
「玲湶さんはそんなにすごいんですか?
武官になることは俺も聞いていますが、実際見たことはないのでとても信じられないと言うか…いえ、疑っている訳ではないんですけど」
「言いたいことは分かるよ。
玲湶は身体が華奢だし、何よりこんなに綺麗な女の子だからね」
確かに言われていることは真実だ。後半を除いて。
身長は女にしてはある方だが決して筋肉がついている訳ではないし、体質なのか天威は高くても天術の威力が低い。
わざわざ武官にならなくてもいいのではないかと、当初は祠苑様によく言われていた。
「でもだからこそ玲湶は素早い動きができるし、高い天威が身体能力の強化に回るみたいで瞬発力と持久力の両方に長けている。
それに体の傷の回復が驚くほど速いんだ。
科挙に榜眼及第出来る程頭の回転もいいし、武術の腕は俺もたまに危なくなるほどだから、これ以上の兵はいないよ」
「そうだな。武術は最初、護身のためにと私が教えていたがすぐに私では敵わなくなってしまった。
恐らく才があったのだろう」
「お二人とも、褒めすぎです。そんなに大したものではありません」
照れくさくて敵わない。
陽峻も感心したように頷いているし更にだ。
二人とも酔っているのではないだろうか。
一応祝いの席ということで、卓には酒もおいてある。
私はたしなむ程度だし陽峻は帰りがあるからと遠慮して、実質それを干しているのは二人だ。
こんな簡単に酔う人ではないけれど、お互い科挙と武挙が正式に終わって少し浮かれているのかもしれない。
「すごいんですね、玲湶さん…」
「だから、お二人が少し話を大きくしているんだ」
「謙遜しなくていいじゃないか。
今年の武挙の主席及第者なんだから」
「柳栄様…」
何故このタイミングでそれを暴露してしまうのか。
つい恨みがましい視線を向けるが、堪えた様子は見られなかった。
流石は将軍、と言っていいのか悪いのか。
「主席!え、すごいですよそれ!
科挙もそうですけど、武挙を受けるのは殆ど男ばかりなのにその中で主席なんて!
俺、男なのに武術とか全然駄目で、だから余計尊敬します」
「もう止めてくれないかな…」
穴があったら入りたい。
何が楽しくて友人に勇ましい姿を見せられようか。
すると私を助けようとしてなのか単に気になったのか、祠苑様が考えるように口を開いた。
「陽峻、文官であっても少しの護身術の心得は必要だ。
特に高官になればなる程暗殺などの危険性が増す。
確か、生家は貴族では無かったはずだ。
護衛を雇えるのなら必要はないだろうが、そうでないなら少し鍛えておいた方がいい」
「そうなんですか!?」
「……いい機会だ、もし本当に私の部下となった時には武術の手ほどきもしよう。
武官程の実力は求めていないから、玲湶や柳栄では向かないだろうからな」
「こ、光栄です……!」
「うわ、珍しい。明日は雪かな」
「柳栄、私を怒らせたいか?」
からかう様に言った柳栄様に祠苑様は冷たい視線を送った。
それから逃れるように柳栄様はこちらを見て、話をふってくる。
「でも玲湶もそう思うよね?」
「それは、その……」
正直そう思った。
けれどだからこそ話をふらないで欲しかったのだが。
祠苑様はあまり他人に興味を抱かない。
それは祠苑様のと言うよりも、朱家の人間の気質と言えるだろうか。
朱家に属するものは血の絆を何より重要に捉えており、血族や門下のためなら時には国にすら牙を剥くらしい。
歴代の国王はそんな朱家を上手くおさえ国の力としていたらしいが、それでも何度か国を揺るがすような事件はあったようだ。
それは建国当時からだったようで、初代紅国国主はそんなところが面白いと朱家の人間を気に入ったのだとか。
そしてそんな朱家の直系、そして当主である祠苑様はその気質をかなり濃く受け継いでいる。
従って余程自分に関わって来るか自分が好感を覚えたかした者でなければ世話を焼いたりはしないのだ。
だと言うのにその祠苑様がいくら自らの補佐官候補だからといってこんな申し出をするなんて。
「玲湶もそう思ったのか…」
「いえ、その、雪とは思っていません!
ただ明日雨が降ったらどうしようと思っただけで……あ、…」
しまった正直に言い過ぎた。
悲しそうに微笑む祠苑様、ギョッとしている陽峻、可笑しそうに腹を抱える柳栄様。
………言葉には気をつけよう。
でもすっかり場は和やかになって、最初は緊張していた陽峻もだいぶリラックスすることが出来ているみたい。
恥ずかしかったりしまったと思ったりしたけれど、やっぱり今日、陽峻を誘ってよかった。
「玲湶」
食事も終わり、その後も色々と話をして気づけば夕刻だった。
その頃には家の手伝いがあるからと陽峻は帰っており、祠苑様も残っているらしい仕事を片付けるために部屋に籠っていたため私と柳栄様だけだ。
帰宅する彼の見送りにと外へ出たところで声がかかる。
「言い忘れていたよ。君の配属先が決まった」
「…!」
基本的に新人官吏の配属先は皆、文で伝えられる。
その際配属先に合った官衣も同封され、それを着て出仕するのだ。
先程まで気にも留めていなかったが、そう言えば今日の柳栄様は荷物が少し多い。
と言うかいつもはほぼ身ひとつで来られる筈なのだ。
「朱玲湶」
「――は」
いつもと違う柳栄様の真剣な表情に自然と身が引き締まる。
気づくと膝を折っていたのは彼の体から発される覇気故だろうか。
「明日より紅国国軍軍師付き補佐官としての出仕を命ずる。励め」
「……謹んで、拝命致します」
軍師付き補佐官。
陽峻と同じように、有り得ない任命だった。
【軍師】は軍内で第二位に値する高官だ。
戦の策を練り刻一刻と変化する戦況を見極め、先を読み手を打つ。
その肩に全ての武官の命がのっていると言っても過言ではない大役。
そんな位階の補佐官を私のような登用されたばかりの新人が務めるなど。
だが上官からの命に拒否は許されないし、その期待が重くもあり嬉しくもある。
もう一度正式に礼をとり立ち上がれば、柳栄様は嬉しそうに微笑んだ。
「玲湶ならそう言ってくれると思った。
はいこれ。正式な任命書と官衣ね。
で、重役だから他の新人より一日早い明日から出仕して欲しいんだけど」
「承知しました。精一杯務めさせていただきます」
「期待してるよ。
明日は顔合わせと、少し手合せをしよう。
君の上官に実力を見せつけてやりたいから。
少し困った気難しい奴なんだ」
「……ありがとうございます」
これで祠苑様に、私を受け入れてくれた朱家の方々に恩返しが出来る。
プレッシャーはあるけれど、ある意味高位の役職を最初からもらえるのは願ったり叶ったりだ。
それだけ朱家の名が広まることになるのだから。
「明日、外朝の南門で落ち合おう。
説明をしながら各所をまわって、細かい説明もその時にするつもりだから」
「はい。今日来て下さったことも、任命と官衣の件もありがとうございました」
「どういたしまして。
今日来たのは単純にお祝いがしたかっただけだから気にしなくていいよ。
それに文と服はついでだからね。
君と働けること、すごく楽しみだったから。それじゃ、また明日」
「お気をつけて」
去っていく柳栄様を、官衣と任命書が入った包みを抱きしめながら見送る。
なんだかふわふわした感覚だ。まるで夢を見ているような。
あてもなく彷徨って死ぬも同然だった私が、今こうしているなんて信じられない。
――それもこれも、私の周囲の人々がとても優しくあたたかいからだ。
「……祠苑様に、報告をしなければ」
喜んでくれるだろうか。褒めてくれるだろうか。
いいや、祠苑様ならきっと自分の事のように喜んでくれるに違いない。
それが想像しただけで嬉しくて、ゆるんだ顔のまま包みを抱え直し、私は心もち早足で屋敷の中に戻った。