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少女学区  作者: uka
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夙夜夢寐

 世間一般からすると春と言う季節はポジティブなイメージが強い。

 厳しい寒さから解放され、桜の開花に季節を感じる。新生活、新しい出会いに胸躍らせ期待する。大方そんなところだろうか。

 しかし、そんな世間一般の考え方など、あたしにしてみればどうでもいいことだ。あたしにすれば春はネガティブなイメージの方が強い。

 まず新しい出会いや新生活なんてものは煩わしいだけのものだろう。一からの人間構築の関係など骨が折れるだけだと思う。次に桜、あたしはこの桜という花が嫌いだ。押し付けがましいとでもいえばいいのか、日本人なら桜好きみたいな風潮も嫌いだ。なにより、散った後、地面に落ちて踏みつけられ汚れたその花びらの姿にどうしてもいい感情が抱けないのだ。

 だからその日、高等部の入学式の当日もあたしは特に何の感慨も抱かずその無駄に続く桜並木を歩いていた。入学といっても明星は幼稚舎から大学までエスカレーター式で、大学部卒業まではほぼ同じ顔ぶれのまま、見知った顔が一同に集まるだけの、形だけの入学式だ。

 まだ少し早い時間のせいか人通りは少ない。これで桜が咲いていなければ静謐な朝の空気を堪能できるのに。忌々しく頭上の桜を見上げた瞬間、足元が何かに取られた。とっさに手をつく暇も無くあたしは無様に転んでしまった。高等部にも上がって転ぶなんて、恥ずかしい。

 足を取られた原因は朝露に濡れた桜の花びらだった。ますます持って忌々しい花だ。こんな桜の木なんて全て切り倒してしまえばいいのに。汚れを払いながら立ち上がると、右ひざが少し痛んだ。

 転んだ拍子に見事に膝小僧を擦りむいていたようだ。本当に踏んだり蹴ったりである。誰にも見られていないのがせめてもの救いだろうかと溜め息を吐いたところで、不意に肩を叩かれた。

 振り返ると、見慣れない長身の女生徒がいた。

「大丈夫?」

 頭一つ高い身長。肩口で切りそろえられた短い髪。三白眼気味の瞳が一際目を引いた。一瞬彼女に目を奪われた後、自身の現状を思い出し頬が上気するのを感じる。

「だ、大丈夫」

「でも結構血が出てるし、傷口洗って消毒したほうがいいな」

「いや、でもこのあたり水道とかないし」

「それは問題ないから、そこのベンチに腰掛けて」

 いわれるままにベンチに腰掛けると、彼女は鞄からミネラルウォーターと消毒液、、ハンカチと絆創膏を取り出した。

「それ、普段から持ち歩いてるの?」

「友達がよく怪我をするのよ。少し痛いかもしれないけど我慢して」

 喋りながらも彼女は的確に処置を施している。ミネラルウォーターで傷口を洗いハンカチでふき取り、消毒して絆創膏をはる。素人目に見ても彼女の手つきはとても慣れていた。

「はい、終わり」

「……ありがとう」

「気にしないで、とそれじゃ、人待たせてるから」

 言うが早いか彼女は携帯を確認するとその長い足で駆け出していた。

 声をかける暇も無く彼女の後姿が遠ざかっていく。

 膝に貼られた絆創膏の可愛らしいキャラクターを見つめてからあたしはベンチから腰を上げた。

 あの人は一体誰なのだろうか。

 少しだけ興味が湧いていた。


 気になって少し調べてみると彼女は今年から明星の一年に転入してきた転入生だった。名前を瀬名園子というらしい。日に日に彼女の名前を聞くことが多くなった。否応なしに目立つあの身長とルックス、世話焼きな性格に、彼女とは別な方向で有名になりつつあった宮戸綾の存在もあり彼女は注目の的になっていた。そんな彼女の噂を聞くたび、あたしはなぜだか少しイライラした。

 いつしか彼女のことを眺めている自分がいた。休憩時間、昼休みの食堂、放課後の校内、休日の街中に、無意識に彼女を探していた。日々、あたしの中で彼女が占めるウェイトが増えていった。

 桜が散り、五月が終わり、梅雨に入りかける頃。

 あたしは彼女に恋をしていた。


 転寮して一週間も立てば自室の天井も見慣れたものだ。大きく伸びを一つして時計に目をやればすでに八時。夏季休暇とはいえ寝すぎである。それもこれもこの明津女子寮の壁が薄いのが悪い。

 毎夜毎夜隣の部屋の先輩の押し殺した嬌声と怪しい物音が聞こえてきて正直睡眠どころではない。

 早いところ環境の変化に慣れて体調と生活を整えたいところだが、この環境に慣れるというのはそれはそれで嫌だ。

 寝巻きから私服へと着替え髪をとかして一階の洗面所へと向かう。今までいた寮とは違い、この寮は随分と不便だ。寮生に割り当てられるのは一部屋の個室だけだし、洗面所、手洗い、お風呂、台所は共用。朝、昼のご飯は各自用意で晩御飯は当番制で寮生が作る。自立心と集団行動を見につけるため、と管理人の長谷部さんは言っていたが、あの人のことだから単純に面倒なのだろう。

 その分家賃は安いらしく本来の寮から引っ越してきてその差分をお小遣いにしている人も居るのだとか。まったく持って庶民は逞しい。

 顔を洗いもう一度髪をとかし、食堂という名のダイニングキッチンに顔をだすと件の先輩、木津先輩がコーヒーカップを片手に新聞を広げていた。

「おはよ大上ちゃん」

「おはようございます木津先輩」

「コーヒーメーカーにコーヒーまだ残ってるから飲んじゃっていいよ」

 お言葉に甘えポットからカップへとコーヒーを入れて向かいの席へと腰掛ける。長谷部さんはなにやらコーヒーには拘りがあるようでメーカーと豆はそれなりにお金がかかっているものらしくなかなかいいコーヒーが飲める。この寮の数少ない良心の一つ、だろうか。

「大上ちゃん引っ越してきて一週間経つけどもうここでの生活は慣れた?」

「ええまぁ」

 例の毎夜ごとのあれについては言わないのが大人の対応という物だろう。

「わざわざ姫百合寮から引っ越してくるとはねぇ。瀬名ちゃんは手強いわよ」

「知ってますよ、ほうっておいてくださいよ」

「ま、困ったことがあったら何でも相談してよ。こんなでも一応先輩だから」

「お気持ちだけ受け取っておきます」

 木津先輩は苦笑し、新聞を畳みカップを片手に立ちあがる。

「もし寮内で写真が欲しい子がいたら部屋に来るといいよ、印刷もデータもあるからさ」

「それ、一応犯罪ですからね」

「固いこと言わないの、記念だよ記念。そんじゃ私は部屋に戻るから」

木津先輩はそういうとカップを流しに置いて部屋を出て行った。なんというか、人は見かけによらないってのは本当にそのとおりだと思う。あの人が毎夜、いや考えまい。ため息をついてコーヒーに口を付ける。インスタントとは香りも味も違う。姫百合寮より勝っているのは正直本当にこれくらいのものだろう。

 あたしも本当に物好きだなと改めて苦笑する。

 自分でもどこにそれほど惹かれたのかよく分からない。ただ、彼女の言った一言だけが心の中で渦巻いている。

『恋ってそんなものよ』

 コーヒーを飲み干してカップを流しへと漬ける。

 そこでちょうど、食堂の扉が開いた。視線を向けるとそこに立っていたのは宮戸さんだった。あたしと同じくらいの身長だけれど猫背のせいで目線はあたしのほうが若干高い。寝起きなのかぼさぼさの長い髪に、寝巻きなのかよれよれのジャージというひどい格好でなんともだらしない。眠そうな目でこちらを一瞥すると食器棚から取り出したカップにまだ余っていたコーヒーをついで、あろうことか一気飲みした。しかも口の端からたらたらたらたらとコーヒーを飲み零している。彼女が食べ物、飲み物を零すのは日常茶飯事なのだがこればかりは未だに慣れない。

 あたしがそうしてギョッとしているのもお構いなしに、さらに彼女の蛮行は続く。カップをテーブルに置くと今度は冷蔵庫からジャムとパンを取り出してテーブルについた。これから起こる惨事は、考えるまでも無いだろう。

 好き放題に汚し散らかす彼女の姿を黙ってみていることが苦痛になってきたので仕方なくテーブルの上のティッシュをとって汚れたテーブルや床を拭く。

「宮戸さん、もう少し綺麗に食事できないの?」

「……次から善処するわ」

 言いながらも食べかすを零しつつ食事をやめない姿は説得力がまったくない。

 本当に瀬名さんはこんなののどこがいいのだろうか。

「貴方のせいで瀬名さんにも迷惑がかかってるの。わかってる?」

「あんたには関係ないでしょ」

「あるから言ってるんでしょ。あたしね、瀬名さんが好きなの。貴方が邪魔なの、わかる? そもそも貴方瀬名さんのなんなの?」

「別に、友達よ」

「じゃあ、あたしが付き合ってもいいんですか?」

「好きにしたら?」

 少しだけ眉をひそめながらも、彼女はどうでもよさそうにそう呟いた。瀬名さんには可哀想だがどうにも縁が無さそうである。

 確かにそれなりに可愛らしい顔立ちをしている彼女ではあるが、不機嫌そうな顔立ちと、だらしないこの格好、そして口の周りをベタベタと汚したこの姿では正直百年の恋も一瞬で冷めそうなものだ。あたしはやれやれと頭を振って新しいティッシュを取り彼女の口を拭こうと手を伸ばして、

 思い切り、弾かれた。

「……触らないで」

「何するの、人が折角綺麗にしてあげようとしてるのに!」

「頼んでない」

 その傍若無人な態度と、非常に個人的な苛立ちから思わず、手を振り上げると、いきなり椅子から転げ落ちるようにして彼女は床に丸まってしまった。

「ちょっと大げさすぎるんじゃないの」

 あたしの言葉に耳も貸さず彼女はただ、床の上で震えていた。ぶつぶつと何かを小声で産屋いているようだがそ、早口で滑舌も悪く碌に聞き取れない。その光景は少し、というか明らかに異常だった。

「どうしたの、大丈夫?」

 声をかけて背中を摩ろうと近づくと、再び手を叩かれる。

「触れないで、あっちいって」

 震える、か細い声今にも消えてなくなりそうな声。これではまるであたしが悪いみたいじゃないか。

 どうすればいいかわからずあたしは逃げるようにして食堂を後にする。気に入らない恋敵、なおかつ邪険に扱われたとはいえ、あんな状態の人を置いていくのには抵抗があったけど、他に方法も思いつかなかった。

 二階の自室へと駆け込んでそのまま床にへたり込む。叩かれた右腕が熱をもって痛んでいる。あの子はいったいなんなんだろう。あたしはまだ、瀬名さんについても宮戸さんについても何も知らない。二人がどういう間柄で、どんな時間を過ごして来たのかを。

 それを知りたいと思った。瀬名さんへの恋心とは別の、それは純粋な好奇心からくるものだった。あの様子じゃ宮戸さんは何も話してはくれないだろう。瀬名さんも恐らくは。そのあたりは追々考えるとしよう。幸いこの街は様々な変わり者が住んでいる街なのだ。

 そのためにまずは、姫百合の知り合いに連絡を取ることにする。床から立ち上がりスカートをはらいパソコンを起動する。少しだけ忙しくなりそうだ。


 夏休みというのは実に退屈だなと改めて実感したのは、図書館から借りてきた小説を三冊ほど読み終わった頃だった。午前中の内に姫百合の情報通の先輩や噂好きの後輩にそれとなくメールを送った物の未だに返信はない。それ程早くわかることでもないのは当たり前なのだが、こう暇だとついつい何度もメールをチェックしてしまう。窓から差し込む明るい日差しにそれ程時間は経っていないと思ったのだが、時計は既に午後六時過ぎを示している。もう少ししたら夕飯の時間だ。ちょうどお腹が小さくなった。朝を抜いたせいか、少しお腹も減っている。

 小説も読み終わったし、特にすることも思い浮かばない。ならば食堂に下りてつまみ食い、もとい調理の手伝いでもしよう。

 今日の当番はたしか東先輩だったはずだ。聞いた話では彼女が当番の日は当たり日らしい。この寮の古株である彼女は料理に慣れているから安心して厨房を任せられるとか。特にパスタは好評でおかわりの取り合いにまで発展するのだとか。逆に外れ日は木津先輩が当番の日で、インスタントラーメンならまだマシな方とまで言われている。引っ越してきて三日目くらいに木津先輩の当番の日が当たったときには引っ越しそばと称して緑のアレが食卓に並んだ。正直当番からはずしたほうがいいのではないかと思うのだが、そこは皆当番のサイクルが早くなるのが嫌でなにも言わないらしい。

 あの日の事を思い出して少しげんなりしてしまったが、気を取り直して開化へと降りて食堂のドアを開ける。しかし、東先輩の姿はそこにはなく、代わりに瀬名さんが流し台の前に立っていた。

「今日の当番、瀬名さんだったっけ」

「違うけど、真由理先輩が外せない用事があるからかわってほしいって頼まれて」

 あたしがここに引っ越してきてからの彼女の態度は少し硬い。ある種ストーカー以上に性質の悪いことをしているのだから当たり前といえば当たり前かもしれないけれど、少し胸が痛い。

「世話焼きというか、損な役回りというか」

「そういう性格だから」

「結構有名になってるの知ってる? クッキーモンスターの御付きの転入生が優しくてかっこいいって」

「クッキーモンスターって言い得て妙な」

 笑いながら卵を割る彼女の横に立ってその手元を覗き込む。

「何作るの?」

「冷やし中華にしようかと思って。急に当番交代で材料もないし」

「じゃ、このキュウリとトマト切ればいいの?」

「大上さん料理できるの?」

「これくらい料理って言うほどのものでもなないでしょ」

「姫百合寮から来たって言うからてっきりそういうのはやらない人だと思ってた」

「たしかに料理する必要はないけど、それでどうすればいい?」

「じゃあキュウリはせん切りで、トマトは八等分にしてもらえる?」

「わかった」

 調理台の位置があたしには少し高いけれど多人数でも使いやすそうな、広いキッチンだ。久しぶりの料理で包丁を持つのは多少不安だったものの、体の方はきちんと覚えている物で難なくキュウリをせん切りにしていく。

「包丁の扱い上手いのね」

「キュウリのせん切りに上手いも下手も無いと思うけど」

 褒められて悪い気はしない。というか素直に嬉しい。

 横目でチラリと瀬名さんを伺うと彼女も無駄なく手馴れた様子で中華面を茹でる横で薄焼き卵を焼いている。恋は盲目とは言うが、彼女の姿は贔屓目に見ても結構様になっていると思う。

 そうしてこうして二人でキッチンに立つというのはなんというか、すごく所帯じみていて、すごくいい。言葉では上手く説明できないけれど、凄くいいのだ。

 気分よくキュウリを刻みおえ、次はトマトを切っていく。鼻歌なんて歌いだしそうなくらいあたしの気分は乗っている。

「ほんと助かるな、綾じゃこうはいかない。包丁を持たせたらすぐ指を切るから、治療で余計に時間がかかるんだ」

 さっきまでの楽しい気分がその名前を聞くだけで吹き飛んだ。

 苦笑しながらもどこか楽しそうに話す瀬名さんが今は少し憎い。折角良い気分だったのにこんな時でも彼女の話が出てくるなんて、嫉妬で人が殺せたら今きっと宮戸さんはあたしの嫉妬で三回は死ぬことだろう。

 しかしそれを顔には出さない。あたしは宮戸さんとは違う。

「なんだか瀬名さん、宮戸さんのお母さんみたい」

「よく言われる。正直少し複雑だけど」

「そういえば、宮戸さんといえば、今朝様子が少しおかしかったんだけど」

「どういう風に?」

 軽く探りを入れるつもりで話題に出したのに、瀬名さんの反応は顕著だった。茹でた中華麺を洗う手を止め、真剣な表情であたしのことを見つめている。宮戸さんのあたしの嫉妬によるデッド数が今ので二桁代に突入である。

「どうって言われても、顔についた食べかすを取ろうとしたら思い切り叩かれて、ついカッとなって怒ったら椅子から転げ落ちて丸まって、起こそうとしてもまた手を叩かれて、一体あれはなんなんですか?」

 瀬名さんはすぐには口を開かず、何かに思い悩むようなそぶりを見せてからポツリポツリと喋り始めた。

「まず、あの子は他人に触れられるのを極端に嫌がるの。怒られるとか、暴力にはもっと敏感で軽く脅しただけでも多分十分はそんな感じで丸まってるとおもう。触られるのは、私だけは大丈夫みたいだけど」

「なんでそんなことに」

「昔いろいろあったの」

 それは短い拒絶の言葉で、これ以上は喋らないという意志をはっきりと感じた。やはり瀬名さんか何か情報を得ることはできそうにない。

「それと、綾が迷惑かけてごめん」

「なんで貴方が謝るんですか?」

「私が付いてればそんなことにならなかっただろうし。本当ににごめんなさい」

 流石のあたしも、こればかりは我慢できそうになかった。奥歯を強くかみ締めても、この醜い感情は消えてくれそうに無い。止めようのない感情が口からポロリと付いて出た。

「悪いのは、宮戸さんでしょ」

 もう止まる事はできない。

「行儀が悪いのも人に触れられるのが苦手なのも怪我するのも全部悪いのは宮戸さんでしょ? なんで瀬名さんがその尻拭いをしなきゃいけないの? なんでそこまでするのかあたしには理解できない。あの子にそれ程の価値があるなんてあたしには思えない」

「大上さんには関係ない」

 その通りだ、あたしと瀬名さんはただの他人だし、彼女たちについて何も知らない。けれど、

「確かにあたしは何の関係もないけど、好きな人の事を心配して、何が悪いの!」

 本当はこんな風に怒鳴りたくなんて無いのに。

 伝えたいことを伝えても、それが届かないことが、辛い。

 仕方がないと諦めることもできずに、子供みたいに駄々をこねて、挙句嫉妬に狂って好きな人に怒鳴り散らすなんて、すごく馬鹿みたい。

 歯痒くて、悔しくて、気付いたら、頬が濡れていた。勝手に怒って、勝手に泣いて、これじゃあただの子供だ、宮戸さんのことを笑えない。格好悪い。

 いつまでもこんな醜態を晒していたくない。

 困惑気味の瀬名さんを置いて、食堂を出たところでなんてことのない段差に躓いてこけた。したたかに打ち付けた鼻から何かが流れ出るのを感じながら自室へと駆け込んだ。


 気付くと窓の外はすっかり暗くなっていた。いつの間にか眠っていたらしい。顔を埋めていた枕は涙と鼻血ですっかり濡れていた。机の上の鏡で念のため鼻を確認する。幸い曲がっているようなことはなかったが、少し鼻の頭を擦りむいているようだった。

 再びベッドに身を投げ出して悶々とする。こんなことのためにわざわざ転寮してきたわけじゃないのに。物理的な距離は縮まっても、心のほうは遠ざかるばかりだ。

 自己嫌悪で死にたくなる。

 瀬名さんが宮戸さんの世話を焼くのは、好きだから。あたしが彼女に言ったとおり好きだから心配なのだ。それはわかるんだ。好きになってしまったら、理屈なんて関係ないのだと。

 全ての物事が理論立てて計算で全て説明がつけられるのなら、どんなに楽だろうか。

 明日からどんな顔をして会えばいいのだろう。いっそ姫百合寮に戻ってしまうのもいいかもしれない。

 真剣に悩み事をしていてもお腹というのは減るもので、間の抜けたお腹の音を耳にして少しだけ気が楽になった。

 そう言えば結局晩御飯を食べそびれて、朝も抜いて昼から何も口にしていない。体がだるくてベッドから起き上がるのも億劫だったけれど、気力を振り絞って体を起こす。コンビニにでも何か買いに行こう。たまには好きなものを好きなだけ食べる物いいだろう。

 財布を片手にドアを開けると、廊下には瀬名さんがいた。

 ダイニングでコーヒーを入れてきたのか、片手にはカップを持っている。

 振り返って部屋に逃げるより先に、瀬名さんの手があたしの右腕を掴んでいた。

「離して!」

 振りほどこうと腕に力を入れてもびくともしない。

「あんまり暴れないで。コーヒーこぼれちゃうから」

「貴方が離せばいいだけでしょ」

「ダメ、鼻の頭のとこ怪我してる。治療しないと」

「え……?」

「雑菌が入って跡になったらいけないから。大上さん折角可愛い顔してるのにもったいない」

 つい先ほどの事など無かったかのように真剣な顔つきでそういう彼女に、なんだか一気に肩の荷が下りた気分だった。悩んでいたのが馬鹿らしい。

 結局あたしは促されるままに彼女の部屋へと通されベッドの上に座らされる。初めて入った瀬名さんの部屋はイメージどおりのシンプルで整理整頓された部屋だった。

「ちょっと染みると思うけど我慢して」

 あの日と同じように道具一式を取り出して鼻の傷を治療していく。自然と近くなる顔に、鼓動が早くなる。

「あの、さっきは、ごめん」

「謝るようなことじゃない、私だって綾の事は心配だし気持ちはわかるから。それに私も少し無神経すぎたし」

 慣れた手つきですぐに治療は済んだ、鼻の頭に貼られた絆創膏がすこしむず痒い。

「瀬名さん」

「何?」

「前にも言ったけど、やっぱりあたし、諦めきれないんだ。こんな所まで押しかけて迷惑かけてるのもわかってる。また今日みたいに怒鳴っちゃうかもしれない。もし嫌だったら、ちゃんと言って欲しい。そうしたらあたし、姫百合に戻るから」

 使った道具を片付ける手を止め、少し間をおいてから瀬名さんは口を開いた。

「確かに、引っ越してきた時は驚いたけどね。迷惑ってわけじゃない。好きだっていわれるのは嬉しいし、大上さんは可愛いし、嫌いじゃない。だけどね、一番はやっぱり綾なの」

「じゃあ、一番じゃなくてもいい」

 本当は一番がいいのはいうまでもないことだけど。

「あたしは二番でいい。二番目になれるように努力する。だからもし、あたしが二番目になったときは、ご褒美をちょうだい」

「わかった、いいよ。一番目以外だったらどんなご褒美でもあげる」

「約束、ですよ」

「うん、約束」

 ちょうどそこで、再びあたしのお腹が鳴った。まるでコントだ。余りにもできすぎたタイミングで逆に笑えない。

「そういえば晩御飯食べてないんだよね。軽く何か作ろうか、私も小腹が空いたし」

 赤くなりながらもあたしは頷いて瀬名さんと一緒に部屋を出る。

 夜はまだ長い。


 二番でもいい、好きな人に好きと言って貰えるのなら。

 マイノリティでもいい、理解されなくてもいい。

 この感情は決して理屈で説明できないものなのだから。

 少し間が空きましたが第四話です。

 今回は二話、三話でちょくちょく名前を出していた大上さんが主人公の話です。

 今までの登場キャラの中では一番お気に入りだったりして今までより長い話になっております。

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